花の宴 ——桜——
藤壷視点
源氏二十歳
日々は過ぎて、今年も花の季節になった。晴れやかな一日で鳥の声も心地よさげだ。もちろん私の機嫌も上々だ。
南殿(紫宸殿)の桜を愛でるための私の席は帝の左に設えられた。彼をはさんで右は東宮(皇太子)の席だ。他の者は下座に据えられている。もちろん、かの弘徽殿の女御でさえも。
私が上位についてから、下位に甘んじることを好まないあの人はめったに現れなかったが、今日のイベントは捨て置けなかったらしい。
名のある男たちはみな参内し、韻字をもらって漢詩を作る。
「春という字をいただきました」
人とは違う源氏の声が響く。続いて頭中将が声を上げ、その様子もなかなかのものだ。
他の人々は気後れしているらしい。帝も東宮も詩文の才は優れているので、それに合わせて身分の高い人たちもかなり身に付けている。上から目線でいられない博士たちは気落ちしている風に見える。
だがそんな彼らより、あの人とその一味はもっと不愉快な気分のはずだ。
「見て、あの女房。こちらを睨んでますわ」
「どうせその程度しかできないのだから、それくらいさせてやりましょうよ」
私の女房が囁き合う。この場で権威を誇示することは大いに正しいので好きにさせておく。
どちらが上か見せつけるべきだ。そして相手に屈辱を与え、圧倒的優位をアピールし思い知らせた上で......譲歩してやる。
相手は飛びつくだろう。ただでさえ高慢の極みにあった誇りを傷つけられ意気消沈しているはずだから、容易にこちらの甘言にのるはずだ。そのためにはまず、自分の立ち位置をわからせてやらなければならない。
世の中は順位と格付けでできている。だが上の立場の者は恩寵を与える権利もある。
「要するにマウンティングですね」
中納言がぼそっと本音をこぼし「お下品な」と中務に叱られた。その意味があることは否定しない。
帝はもうすぐ譲位する。確かに私は中宮で、私の子は次の東宮になるし、院になられても彼は私を守るだろう。
————だけどもし、院の余生が短いものだったら?
あの行動的な右大臣家が私たちをほっておくわけがない。最悪の場合は廃嫡の可能性がある。
世間は次の東宮の地位も中宮をも占めた私たちに批判的だ。意外なことにあの凶悪な弘徽殿の女御に同情さえしている。
もちろん私はこの事態をほっておいてはいない。貧しい者に派手に施しをしてやり、坊主に大げさな布施を与えて”お優しい中宮さま”のイメージを刷り込んでいるが、まだ完全ではない。
右大臣家は情報戦の重要性について気づいていないのか、この点ではひどく無防備だから、いつかは収まるとは思うけれど。
こちらが体制を整えるまで彼らを懐柔しなければならない。あちらも政治家だ。左大臣家にさえ娘を与えて関係性を持っている。こちらから接触すれば無下にもすまい。強引に私の息子の地位を奪うより、ほどよくつきあっていく方が人聞きもいい。
ーーーー嫌になるほど親切にしてあげるわ。この後ね
扇の影で口の端を上げる。敗者にはふさわしい立場がある。いかにあなたが強い女であろうとも折れることも学ぶべきだ。かつて帝を驚かせた強靭さがいつまで続くかなかなかの見物だ。
それは帝が動いて私を中宮にすることを彼女に告げた時のことだ。その後二、三日私の元を訪れずにやきもきさせられた。ようやく現れた彼はひどく気落ちしているようだった。
「あの方の様子はいかがでした? あまり傷つかれたのでなければいいのですが」
心配そうに私は尋ねた。内心舌なめずりでもしたい気分だった。帝は翳った表情を隠しもせずに私を見て暗い声で答えた。
「......いいえ。全然」
私はかなり驚いた。あの人の立場からしても性格からしても相当に荒れる状況のはずだった。帝は自嘲するようにほんのわずかに苦い笑みを浮かべた。
「リミッターの外れた牛車を内裏内で爆走させる覚悟で挑んだのですが。ほんのわずかに目を細めただけで、まるで変わらぬ冷静さでした。あなたが中宮になることを告げるとお祝いまで言われましたよ」
信じられなかった。何かつくろっているのではないかと疑ったが、帝の様子に偽りはなさそうだった。
「理性的な方なのですね」
「そうです、昔から。彼女が本当に取り乱したのは桐壺の更衣の件だけですね」
胃の腑が痛くなる。私はまだニセモノのままでオリジナルに勝てないとでも言いたいのだろうか。だけど帝は私の様子など気にもとめずに自分の感情の中にこもっているように見える。
「今回も怒ることもせず見苦しく騒ぐこともなく、これを契機に条件を推してきましたよ。あの人にとって私の中宮になることはどうでもよかったのでしょうね」
くっくっくっ、と彼は笑った。ぞっとするほど苦い笑いだった。
「しょせん権門の姫です。役目として入内して役目として子を産み役目として傍にいるのです。......ああ、あなたのことをそう思ってはいませんよ。あなたは私が望んでここにいるわけですから」
私が望んだわけではなくとも。権門の姫の方がよほど自覚があったでしょうに。
「ですからあなたに何か復讐めいたことをするとは思えません。安心していいですよ。多少、女房間はぎすぎすするかもしれませんが、肝心の主が私に対してなんの感情も持っていないわけですから」
なぜこの方は、大事な相手に誠意がどうしても伝わらない時のような顔をしているのか。憎い相手に攻撃してその効果がなかった時の失意の顔とはこんなものなのだろうか。なんだか不安になって、「でもその更衣の方の時は......」と口に出してしまった。
「ああ、あれは順位を外れた寵愛に対しての怒りですから。宮は誰よりも高い位置に着くわけですから気にしなくてもいいでしょう」
そう言うと彼は目線で会話の終了を告げた。
帝が言ったことが真実なのか私は知らない。しかし少なくとも表面を取り繕うことができるほどしたたかで理性的な女のはずだが、小娘と見下した相手からの恩寵は、最初は気づかなくても後に矜持を蝕んでいくに違いない。それでいい。強固な壁に空いた針の先程の穴であろうとも、歪みがあればいつかは食い込んでいけるはずだ。しかも悪意ではなくあくまで善意の形で入り込むわけだし。
日が傾き始めても私は先程と変わりなく機嫌よく出し物を眺め続けた。舞楽などもよく人を選んでありなかなか見応えがある。春鶯囀の舞が人々に感銘を与えた時、どうやら紅葉の賀を思い出したらしい東宮がわざわざ挿頭に桜の花を源氏に下賜した。
「君の舞がまた見たいね。私のためにお願いできないかな」
「いえ。この度は練習もしておらずかえってお気持ちを冷めさせてしまうでしょう」
「まさか。ほんの一差しでもいいから頼むよ。どうしても見たくなった」
高位の人間に備わる無邪気さで彼は源氏をうながした。源氏はなにごとにも才長けてはいるが、その陰で努力も惜しまない質なので急なリクエストに困惑したらしいが断りかねて、ゆったりと袖を返す所だけをわずかに舞った。だけどフルバージョンで踊る他の者よりも格段に素晴らしくて左大臣など涙を流している。その後請われて頭中将も舞ったけど、こちらはあらかじめ用意していたらしい。とても上手だった。
日が暮れてからも人々は入り乱れて舞ったり、先程の漢詩を読み上げたりしたけれど、どれも源氏は他者とは較べられないほど優れていた。
胸の奥がじくり、と痛む。
何心なく見ることができたら、どんなに誉めることができただろうか。
古今東西こんな人はいない、と女房たちとも声を合わせられたのに。
心を押し殺して無表情を守って見渡すと女房たちが興奮して喜びをあらわにしている。それは帝の女御や更衣も同じで、ただ一人眉を寄せる弘徽殿の女御が不思議に思えるほどだった。
ーーーー恨むべき理由のある私でも心を揺らすほどなのに、憎むことができるなんて相変わらずの強さだわ
この強大な敵を倒すためにどれほどの力が必要なのだろうか。指先がまた冷たくなるが扇を持つ手を包むようにして暖めた。
すべきことはわかっているのだから、感情に引きずられてはならない。あの女の上に立ち余裕を持って温情を示さなくてはならない。けして怯えるべきではない。
私はなさざるを得ない義務は全て果たす。たとえばそれがわが子への過剰な刷り込みであってもだ。
この件については息子につけた式部がとても役に立った。以前藤壷で話し合ったことがある。
「......親に対する感覚の方向性ですか」
人払いをすませた御座所の傍らで、彼女は面白そうな顔でこちらを見た。用心して他には乳母子の弁しか置かなかった。
「そう。可愛がってはいるけれど、それはどの親も同じでしょう。私は親の誤謬さえも無条件で許す絶対性を彼の心に宿したいの」
死活問題だ。そんなことがあるわけはないが、万が一源氏とのことが露見した場合に正義感だけをこじらせて、親である私たちを弾劾するようなことは避けたい。
「なるほど、心がけておきます。今はせいぜい宮さまのすばらしさをご子息に語るだけですが、読書始の後は読み物を限定するように気をつけた方がいいでしょう」
「たとえば」
「儒学に力を入れそれ以外は制限した方がいいですね。法家の書は与えるべきではありません。墨家もまずい。兼愛なんてもっての他です。人様に恥じないですむ程度の漢学を身につけることはもちろんですが、それ以上に極めさせようなどとは思わないことです。せいぜい人前で披露する韻文程度を磨いておけば、並の者どもは教養深いすばらしい方だとたたえてくれますよ。おまかせください。心得ております」
にい、と式部は歯を見せた。彼女はその父の式部丞の学識を受け継いで、女ながらに漢籍を極めている。直接の講師は適切な者を選ぶだろうが上手く指示を出すに違いない。
その時だってあまりほめられないことだから話すのも恥ずかしかったけれど、ちゃんと式部に頼んだ。今回だってあの人に接触すること自体避けたいけれどしっかりと実行する。
夜は更けて宴は果てた。私と東宮は殿舎に帰るために立ち上がった。東宮は梨壷に戻った。
今宵は弘徽殿の女御が帝の夜伽を申しつかっている。私たちは藤壷に戻ってかまわなかった。
「まあ、素晴らしい月ですわ。御覧になってください」
王命婦がわざとらしく声を上げ、私たちは清涼殿の孫廂で御簾越しの月を眺めた。二月(三月)の二十日過ぎなので下弦の月はやせている。でもとろりとした金の色は美しく、花の盛りの宴果てた後の酔い心地を月自身が楽しんでいるように見える。
私たちは孫廂に散り、いつまでも空を眺めていた。弘徽殿の上局に向かう人が通りがかるまで。
先導する敵側の女房が、顔をしかめて立ち止まった。
うちの女房は気づかずに月を眺めている振りをした。
後続の女たちもたどりつき憎しみを込めた表情を向けて来る。それでも、彼女たちは序列が上の私たちが進むのを待たざるを得ないのだ。
一向にどかないこちらに業を煮やして、最初の女房が感情を抑えた声をかけて来た。
「......お帰りにならないのですか」
「あら、ごめんなさい。月が綺麗で見とれてしまって」
見下す視線で王命婦が答えた。くすくす笑いながら他の女房たちもそれに賛同する。今宵この場で、攻めの藤壷守りの弘徽殿というめったに見ることのできないイベントが開催された。
私たちはゆっくりと集まり、それから表情を和らげてみせた。
王命婦が今度はしおらしげに声を上げた。
「申しわけあ......」
全ては言えなかった。ふいに女房たちの後ろからじわじわとあふれてきた恐ろしい闘気にあてられて。
「あ、あ、あ......ああっ!!」
打ち合わせてあった。傲慢な様子で道を塞ぎ、相手を怒らせた上で一転して脇に避け「失礼いたしました、どうかお通りください」と道を譲ろうと。にこやかに微笑んで相手の気持ちをなだめ、要望に答えてやり「今後は仲良くしてくださいね」と下手に出ることを。
去年もあったシチュエーションだ。あの時は急なことだったし身分も差がなかった。今回はそのリベンジだし、たくらんだこちらが圧倒的に有利なはずだ。なのに王命婦は言葉を続けることができない。
————こんな人頼りにならないわ!
怒りつつ他に目を向けると、なんということだろう、すでにみな後ろに下がって道の端に寄り土下座の真っ最中だ。
————まだ弘徽殿は現れてもいないというのに!
だが闘気が、すでに覇王の荒ぶりを孕んで場の空気を全て渦巻かせる。一番後ろに下がっていた女童たちがそこでも耐えられずに、わんわん泣きながら更に下がり、そのまま這いずりながら藤壷の方に逃げていった。
大人は逃げられない。弁が必死に立ち上がろうとして力つき、ばたりと倒れて半身が御簾をくぐって簀子の方に出てしまった。
「わ、わ、わたしは年なので!」
中務が中納言の後ろに隠れようとして拒否された。彼女もずりずりと下がってついに荒海の障子にぶつかって止まると、一瞬のうちにその裏に隠れた。すぐに何人かが後を追う。残った者も床に額をこすりつけなんとか難を逃れようとしている。
一方、弘徽殿側の女房は平静を保っている。女童が心臓を抑えるように両手を胸にあてている以外は変わりはない。戦場に引く馬は矢や音に耐えられるように特殊な訓練をしていると聞くから、同じように鍛えられているのかもしれない。
味方は一人もいなくなった。だけど私は、闘うことをやめない!
無表情な女たちが少しずつ距離を詰めてくる。恐い。泣きたい。ひれ伏して謝ってしまいたい。だけどそんなことをしたら、二度と自分の矜持を守ることはできない。
がくがくと震えそうな足を踏みしめて、必死に敵側を睨んだ。闘わずに逃げるぐらいなら、この場で死んでしまった方がいい! 推して参る!
わずかに数歩離れて相手側が止まった。私は扇を持つ手に力を入れ、裂帛の気合いとともにその扇を床に投げ捨てた。敵側はとまどったようにこちらを見つめる。不敵に笑おうと思った。だけどそうできずに強張った表情になった。
苦笑の気配が伝わり、女たちがさっと両脇に寄った。誰も阻むことのできない覇王が目の前にそびえ立った。
実際の身長はそこまではないはずなのに、私には超大型の巨人に見えた。絶対的な強さを誇る凶暴な敵はずい、と目の前に現れてゆっくりと顔から扇を外した。
かつて美しかった女は老いに削がれることもなく衰えのない覇気をむき出しにした。
歯を食いしばって耐えた。いかに凄まじかろうとも生身の身分下の女。この私が譲ってなるものか。
「将として立ったことは認めてやろう。が、兵なくしては闘えぬ。闘いは数だ、中宮サマ」
私にだけ聞こえるほどの声で囁きかける。そして今度は言葉を消して閉じた扇を持ち上げると、それを少しそらした自分の首にあて、すっと真横に動かした。
『Kill You』
そのメッセージを正確に読み取る。私はかっとなり先のことも、策謀も全て忘れた。
『Fuck You』
視線だけで伝える。この人においてはマウンティングなんて意味をなさない。立場を超えてその全てに勝利する女には魂を賭けた本気の勝負しか伝わらない。
弘徽殿はわずかに口の端を上げると、ふいに声の調子を変えて「わざわざ一介の女御にすぎぬこの私に道をお譲りくださいまして、光栄の至りですわ」と礼を述べた。私が反応しきれずにいると、倒れていた弁が凄いスピードで起き上がり、私を後ろにかばうようにしながら脇に避け「こちらこそ、名にしおう弘徽殿の女御さまをお助けすることができて孫子の代まで語り継げます」と言ってのけた。
これには答えずかの女御はそのまま歩み去って弘徽殿の上局の中へ消えた。彼女の女房たちも次々にそれに従ったが、小憎らしい笑みを含んだ一人の女房が「落とされましたよ」と私の扇を弁に渡してからみなのもとへ動いた。
何らかの気配を感じたのか、他者が来る様子はなかった。私の女房たちはどうにか立ち上がり、私を囲んで藤壷に誘導した。そこに戻るとみんなまた、へたへたと崩れ折れてしまった。
「......申しわけありません」
しばらく立ってようやく落ち着いたみなが私の前で頭を下げる。それにうなずいて、すぐに上げさせた。あんな化け物、並の人間がどうにかできるわけがないのだ。
「......気にしないでいいのよ。無理なことを言ってしまったわ」
「いいえ。果敢に立ち向かわれる中宮さまを一人置いてわたくしどもは......」
「これまで以上に尽くすことで返してちょうだい。それにしても......」
私は南東の方を見て嘆息した。
「......あの人メンタル強すぎる」
次の東宮位を手に入れ、中宮の地位も奪ったのに微塵も揺るぎを見せない。きっと傷ついたり怯えたり悲しんだりすることは、一生に一度もないのだろう。
私は人だから、表面どんなに取り繕ってもただ弱いだけの人間だからかなうわけがない。
だけど絶対に屈しない。もう、今後を見計らっての接触をすることもやめる。
先のことは考えない。ただ今は、敵のもとに跪かずいられたことだけを感謝して休もう。
端近に寄って月を眺めた。花の酔いから冷めたように涼しげな銀の色だった。