菓子
麗景殿視点
源氏十九歳
ちょうど里から唐菓子が届けられた時に源氏の君がいらしたので高杯にのせて、簀子に置かれた円座に座る彼のもとに運ばせる。大人になってからは甘味はそれほど好んではいないのかもしれないけれど、いつもここではおいしそうに食べてくださる。
「これは初めて見ますね。なんですか」
「黏臍というものよ。この形なにかに似てなくて」
油で揚げたお餅で下は平たく、中央がくぼんでいる。彼はほんの一瞬考えてすぐに笑った。
「おへそですね」
「そう。わざわざ似せて作るのよ」
「風雅ではありませんが面白いですね」
「ええ。それに味は悪くないの」
「いっしょに召し上がりませんか」
「さすがに遠慮しますわ。里で妹を誘ってみてね」
もうほとんど親族と言ってもいいほどだけどそれでも恥ずかしい。それに食べている彼を見守るだけで充分に楽しい。妹や源氏の君など若い人が食べることを眺めるのは自分の食事よりもむしろ好き。今日は妹は里だけど、ほんとにこの二人がいてくれてよかった。
にこにこと見ていたら、御簾の向こうの彼がそのことに気づいて照れたような顔をした。
「母......いえ、姉に見守られているようです」
「光栄だけどあなたの母君ほど美しくもないし、姉という年でもなくてよ」
「いえ女御さまが充分にお綺麗なことは彼女に聞いていますが、そんなことは関係なく慕っております。あなたがいなかったらずいぶんと味気ない育ち方をしていたと思います」
「あらお上手。後宮の皆さんにそうおっしゃっているのではなくて」
「まさか。こちらと、もう一方だけですよ」
「藤壷の......いえ、中宮さまね」
源氏の君は少し困ったような顔をしたけれど、帝に命じられて後見に近い立場となったことは知っているので気にしないように言った。
「他のお身内に頼れない方ですから私が動きますが、もちろんこちらの御用も遠慮なく言ってくださいね。あなたは私の大事な家族なのですよ。里の築地が壊れた、とか雑仕(召使い)が言うことを聞かないとかそんな小さなことだって教えてください。必ず大急ぎで動きますから」
答えようとしてちょっと涙ぐんでしまう。里ももう心もとなく、子どもも得られなかった私の内裏ライフは決して無意味なものではなかったと確信できた。彼はしばらく几帳を眺めながら私が落ち着くのを待ってくれた。
「......ありがとう。お返しできることが何もないのが残念だわ」
「あなたがここにこうしていてくださることがわれわれの業界ではごほうびです。いえ、里に戻られていてもあなたと彼女がいてくれるだけで、できれば頼ってくだされば何物にも代え難い喜びです」
「まあ。もう一度泣かそうとしているのね。その手には乗らないわ」
軽口に紛らして心の動揺を落ち着かせていると「ばれましたか」と目を細めた。
「お気持ちは嬉しいけど急がしいでしょう」
「ええ。でも急がしいときこそこちらには通いたいですね」
「もっと妹に来るように言っておこうかしら」
「彼女が来ると長時間くつろぎたくなるからダメですよ。私の癒し所です」
「それはたくさんあるんじゃなくて?」
責めるつもりはないけれど、噂が流れているのに触れないのも不自然と思ってそう言ってみた。彼はちょっと苦いような笑い方で「以前お話しした通りですよ」と肩をすくめた。
「なけなしのプライドで必死に武装して完璧な男の振りをしても、簡単に見透かされてしまうのです。バカですよ、私は。光源氏だなんて名前だけ大げさで失敗ばかりです」
自嘲する彼はあまり見慣れない。いつも華やかで明るくて女房たちさえ笑わせるのに、ほんの時たま夏でも溶けない氷のような内面を微かに覗かせることがある。ちゃんと恋人である妹にはかえって見せない部分なのだと思う。
それを黙って聞くのは全然かまわないのだけど、本人が辛そうだから別の引き出しを開けてみることにした。
「そんな風には思わないけれど、でも若い殿方が必ず引っかかる罠にはちゃんと落ちたでしょ」
彼はちょっとぽかんとしてすぐに何とも言えない表情を走らせ、最終的には苦笑した。
「まいったな......ご存知ですか」
「ええ。あなたの秘密の恋人ですもの」
一瞬ぎょっとした顔をしたような気がしたけれど、すぐに吹き出しそうなこちらに合わせていたずらっぽい目をする。
「つくづく業平には感心しますよ。私にはボランティア精神がたりない」
「それがたりずにおつきあいなさったのだとするとあなたの方が凄いと思うわ」
源典侍との噂は内裏中を身もだえさせ、帝さえ笑ったほどだ。彼は否定したいように右手を横に振った。
「あの方はその、行く手に掘られた落とし穴というか、避けたいのに避けられない必須イベントというか、何もかも呑み込むブラックホールというか、もう個人の意志など関係ないレベルです」
「才あって、人柄も家柄もよくていい方なんですけどねえ」
いくつになっても現役最前線にいる彼女は誰よりも女であることを極めたあげくに結果として男の立場に近くなったという不思議な方だ。
「これ以上何もコメントしませんよ。私とて敬老の精神は持っていますからね」
「そう。では他の方は? 二条の邸にどなたか引き取られたのですって」
頭をかきながらそんな関係性ではないと主張する。
「身内に先立たれた気の毒な幼子を引き取っただけですよ。父親はまだいますがあまり関心がないようなので」
本当なのかちょっと疑問だ。ほんとだったとしても血縁でもない男の人の家に長くいたというだけで今後普通の結婚は難しくなるだろうから、必然的に将来彼の妻の一人になるに違いない。妹のために胸が痛む。でも彼は人の心に繊細だから、先のことはわかりませんと言葉を濁す。
「他の人とのおつきあいを止めることなどで来ませんわ。だけど妹を泣かせないように気遣ってね」
「もちろんです。彼女はいつだって私の灯火です......女御さまもですが」
こんなとき照れずに言えるのが源氏の君の凄い所だ。
「私は心が脆いから、ついあちらこちらでフラフラしますが、いつだって彼女のもとに羽を休めに行きますし、それとは別に、里のように女御さまの所へお邪魔しますよ」
「光栄ですわ。また唐菓子を作らせておきますね」
互いに几帳越しに見つめ合って同じように微笑んだ。
彼が帰った後はまるで涼しい風が通り抜けて行ったみたいだったけれど、すぐに別の来客があったので残り香を楽しむ間もなく別の香を焚かせた。離した所で少しだけ。
「秋になってからの方がむしろ暑くありません? もう食欲もなくて見苦しくやせてしまいそう」
と、言っているのは昔後涼殿に住んでいた更衣だ。以前は凄くふくよかで、それからやせて、また戻って、親友の青衣の女御が亡くなった後に急に細くなり、最近はかなりふくよかになってきつつある。
「あら、おいしい唐菓子が届いたけど入らない?」
「私のためにわざわざ用意させたものをお断りするのも申し訳ないのでいただきますわ」
先程の黏臍といっしょに干し柿も出す。彼女はまず唐菓子に手をつけた。しばらく無心に頬張った後「これはとてもおいしいですわ。後でうちの者にレシピを教えてちょうだい」と言われたので里の厨(キッチン)の者に人をやった。
もちろん彼女はお菓子を食べに来たわけではない。まだ言い出さなくても内容は予想がつく。大人しく待っているとやっと食べ終わった彼女は眉間にしわを寄せながら七月に藤壷の宮が立后したけれど、どう思います?」と尋ねた。
「彼女が悪いわけじゃないけど私は腹が立ちましたわ」
感情をごまかすことなくはっきりと言った。けして相手が更衣だから見下しているわけでなくそのままの気持ちだ。彼女も同意のうなずきを見せ、あんまりですわとこぶしを固くした。
「私は弘徽殿の女御さまなんて大嫌いですわよ。だけどこれは許せませんっ」
そのために女子会が企画されたりはしていない。話し合ったって意味がないことだから。多人数で語っても怒りがエスカレートするだけだから集まらないけれど、うちにも訪問者が増えている。
「そりゃ一発逆転で私が中宮になんてことがないのはわかっていましたよ。でも、あの方が選ばれなくてあの宮が選ばれるのなら、主上にいくらお仕えしてもムダってことじゃありませんか」
そう。みんなの心に残るわだかまり。特に入内して長い者ほど怒りは加算される。
「確かにあの宮は男の子をお生みになったけれど私だって産みましたわ。ええ、更衣腹のうちの子はどんなに容姿が優れていても上に行けないことは知ってますが、他に女御腹の皇子だってたくさんいるじゃありませんか。入内して最も日が浅い彼女が全て持っていっていいわけがないでしょう」
強い口調でそう言った更衣は乱暴に干し柿のヘタをつかみ、がぶりと噛み付いた。勢いよく咀嚼して呑み込み、懐紙にタネを出すとすぐに次の柿に手を出す。女房の一人が慌てて裏へ走っていった。
「それが弘徽殿の女御さまなら凄くイヤだけど納得しますよ。里に帰ってからちょっと呪うかもしれないけどあきらめます。東宮さまの母君でもあることですし、入内してからの年月も長いし、お父上の貢献度から考えても順当ですわ。なのにあの方。しかも生まれて半年もたたない赤子が次の東宮に決まるなんて。私たちをあんまりバカにしていますわ」
高速で戻って来た女房が硯箱の蓋に盛った梨を出すと、更衣は添えられた箸で取り分けて腹立ちまぎれに頬張っていく。その勢いを見て今度は別の女房がまた裏に消えた。
「否定できないわ。うちはともかく、それぞれの家の奉仕をなかったことにしているわけですからね」
「でしょ。そりゃ私だって源氏の君は好きですよ。だけどなぜ今まで私たちのお目こぼしで育った方が、新たな権力者としてうちの里の前に立ちふさがるのか、わけわかんないですよ!」
そう叫んで、漆塗りの椀の中の氷水をぐびぐびと飲んでいると、よかった、今度はお餅が来た、これで間に合うと思っていたら、ちぎっては食べちぎっては食べ、どんどん量が減っていく。女房が何人か悲愴な顔をして走り去った。
「源氏の君のパトロンの左大臣はどうお考えなのかしら」
「多少の権力が得られるのは確かですが、さすがにスタンスは表明していませんわね。全面的に賛成したらいくら尊敬される彼であっても総スカンを喰らいますよ。そうじゃなくてもみな、これが一時的なものでなく力を宮家にに戻すきっかけとなることを恐れているわけですから」
この人は食べると回転が速くなるのかしらと、失礼なことを思ってしまった。実際更衣は餅を食べ終わり柑子も食べ、手元のものが消えたと思った瞬間、間に合った女房が高杯の上に紙をしいてその上に米を蜜で固めた粔籹をのせて現れた。
「みんなが協力しなければ彼だってそんなことはできないでしょう」
「どうでしょうか。あの方はけっこう有能ですよ。今はともかく藤壷の宮の息子の代となったら年を重ねて経験も積んでいるでしょうし。各家に接触して個別撃破なんて手もあるでしょうし、左大臣家を前面に立てその裏で動くなんてことも考えられます」
粔籹はあっという間になくなっていく。肝を冷やしていたら銀の鋺に入った削り氷が届けられた。さっそく彼女が匙(平安スプーン)を取り、さくさくと崩していく。だけどこれはすぐになくなるはず、と気にしていたら、途中で彼女がこめかみを押さえて静止した。よかった、少し時間が稼げた、みんながんばるのよ、と思っていると別の銀の鋺を折敷(平安お盆)にのせた女房がしずしずと現れた。
「蘇の蜜がけでございます」
「まあ! なんてぜいたくな。でも蘇は体にいいしおいしいけど、もそもそして食感は好ましくないと思っていたのにこうして蜜で練ってあると絶妙においしいわね」
匙の速度が遅くなり、ゆっくり一口一口を味わっている。
「すばらしい! おうちで作られるのですか?」
「いいえ。ちょっと右大臣家と打ち合わせることがあったので、その後届けられたものです」
ぐぬぬ......と彼女は顔をしかめた。蘇は大量の牛の乳を長時間煮詰めて作らなければならないので簡単には手に入らない。味は気に入ったけれど自分の味覚を満足させるために家人にムダな出費と手間をかけさせたくないのだと思う。
「なんだかコツがあるらしくて作るの大変みたいよ。でも、もしまたいただくことがあったら半分あなたに届けさせるわ」
更衣はふいに顔を上げ、きらきらと輝く瞳で私を見た。
「......心の友よ!!」
「え?」
「青衣の女御亡き後、二度と本当の友人など作ろうとは思っていませんでした。でもこんなに積極的にデレられては、さすがの私の心の氷もとけてしまいますッ!」
「は? あの............」
「あなたのことは心友二号と呼ばせていただきます。亡くなった彼女のことを忘れないために一号はあげられません。ごめんなさいっ」
「いえ......別にいいです......」
よくわからないけれどなんだか感動しているのでとりあえず流しておいた。夕食用に届いていた石伏をお土産に機嫌良く帰っていった彼女を見送ると、すごく疲れを感じたけれど女房たちはもっと大変だったはず。
「そうでもありませんよ。なかなか貴重な情報が......あ」
もう私たちは情報を集めて後宮内から世を眺める必要はない。一、二年先の帝の譲位に合わせて慣れたこの場を退出する。
「老兵は死なず消え行くのみ、ね」
譲り渡す次の世代を持てなかった私だからこそ彼女も気軽に所見を述べるのだろう。そう思ってつい寂しげな表情を見せてしまったに違いない。女房たちが努めて明るい声を出した。
「まだだいぶ先ですわ。それまで情報もたくさん必要ですよ」
「そうですよ。その後だって重要です。幸いこちらにはいろんな方が見えていろいろな話をしてくださるじゃありませんか。話のタネを増やしておきましょう」
そうね、と呟いて住み慣れた殿舎を端々まで見つめた。すぐというには遠く、まだまだと思うよりは近い日がわずかに翳りを加えているように見える。伝統と格式を持った麗景殿。限りある日々をこの殿舎にふさわしい態度で過ごそうと、そう思った。