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源氏夢想譚  作者: Salt
第二章
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掃除

源氏十九歳

弘徽殿視点


連続投稿です。前話”Pretender”の続きになっています。

 清涼殿に置いてきた心の蔵の音が耳障りだ。離れているのにまるで近くにあるかのように脈打つ音がする。血の流れも明確に見え続ける。少し粘りのある赤い液体が全てを濡らしている。


 もちろんこれは私の幻視と幻聴だ。その証拠に日中誰一人このことに言及する者がなかった。私だけに見える幻だ。それでもそれは実に鮮明で、歩く時は足に座った時はひざにまで生暖かい感触を伝える。


 血まみれになりながら変わらぬ日常を過ごした。亡者(ゾンビ)になり果てていてよかったのは感情の欠片もないことだ。

 乳母子が荒っぽく移動した時に血が上部にまで跳ね上がって壁代に染みを作ったが気にならなかった。日が落ち夜が更け女房たちが全て眠ると、主上のもとに置いてきた心の蔵の音がひときわ高くなった。


 御帳台に横になっていると血が顔に近いので身を起こした。夜着が音をたてないように気をつけて立ち上がり、あちこちで眠っている宿直の者の間を縫って孫廂までたどり着いた。

 暑い夜だから二枚格子の上部が掲げてある。防犯面では感心できないが、滝口の陣も近いし何よりこの弘徽殿に忍び入るほどの勇者はそういない。

 遠くに月が見える。ほの白い光が白砂を染める血の流れに注がれている。


「............まさに血の海だな」


 確かに。そう思ってうなずきかけ、ぎょっとして声の主を見た。

 いつの間にか横に人影がある。どこぞの新入りの女房かと思ったが、妻戸は閉まっているし下の格子さえ開けていないのに隣にいる。

 輪郭がおぼろだ。長い髪をさらりと流した華奢な女のようだが、顔も姿も影のようでよく見えない。どうも人ではないらしい。


「よお」


 彼女は気軽に手をあげた。もののけだとしてもなれなれしい。


「何者です、おまえは」

「悪りいな、言えないんだ。別にヤバいもんじゃねーよ」

「みるからにわりなし(ヤバい)って感じですが、まあそれはいいとしましょう。何用ですか」


 心理的圧迫のために想像上の他者さえ生み出したらしい。なさけないことだ。

 私の内心の慨嘆など知らぬその女は「掃除に来たんだが」と軽く言った。


「掃除?」

「ああ。このままじゃいかんだろ、これ」


 床も白砂も血まみれだ。確かに清らかな内裏を汚したままではマズかろう。そう言うと彼女はちゃうちゃう、と手を振った。


「おまえの血だから、汚れるってわけじゃねえけど、うっかり触れたもののけなんかがどんどん消滅しちまうんだ」

「好都合でしょう」

「んなことあるかい。かわいそうだろ」


 人から離れた者は人もあやかしも等価に考えるらしい。というかこの者ももののけかもしれないと思っているとなんだかちょっと肩をすくめて「元は人なんだ」とつぶやいた。言葉遣いのひどさから考えるとかなり下の身分であろう。しかしそんな地位からこの私に向かって話しかけるほどになったのであるから生前は相当に徳を積んだのかもしれぬ。とすると若く見えるが老婆である可能性は高い。多少は気をつかってやらねばならない。

 女はにっと笑うといきなり私の手を取った。体温はない。驚いていると「心の蔵を取りにいかなきゃ」と言ってその手を引いた。途端に慣れた弘徽殿の殿舎が一変して私は清涼殿の上局に立っていた。


「ここにいるから取って来いよ」

「おまえは行かないのですか」


 女は首を横に振った。なんだかひどく切ない顔をした。


「............行けないんだ」


 やはり地下の者なのだろう。さすがに主上の寝所に入り込むことはできないのであろう。しかし私も今はごめんこうむる。


「藤壷がいるでしょうから入りません」

「いねーよ、誰も。帝だけだ」


 見なくてもわかるんだ、と彼女は言った。たった一人で眠っていると。

 眠れるのかっ、と突っ込みたくなったが私の死んだ夜に一人でいてくれるだけでもマシだと思い中に入った。


 眉を寄せて苦しげな顔をして彼は眠っていた。休んでいるはずなのに拳が固く握られている。手を添えてそっとそれを開かせた。未だ滴るような血は自分の手に移した。

 まなじりにほんの少し涙の跡がある。理由はわからない。あの時の血も顔に残っている。私は袖でそれらをぬぐい、背を向けた。


 心の臓は床に落ちたままだった。相変わらず勢いよく血を吹き上げている。私の死体も転がったままだ。そちらは無視して心の蔵を拾い上げて上局に戻ると謎の女が「すげー元気だな」と失礼なことを言ったので「いえ、相当に弱っています」と返した。


「そうか。まあ本体から離れてるからそうかもな。もとが違うのか。なんにしろこのままってわけにはいかんから戻す」


 そう言うと女は手が汚れるのを厭わず心の蔵をつかみ衣の上からぐい、と押し付けた。

 叫びたいほど痛かった。人がいなかったらたぶん泣いた。戻すなと文句を言いたかった。が、心の蔵は亡者の体に植え付けられ、元通りとくんとくんと音を立てた。


「............こんなものいらない」

「これ以上血を溢れさせるな。迷惑だからもっとけ」


 至極もっともなので仕方なく受け入れた。女はにやっと笑い、血のついた手を上にかざした。そこに、やわらかく白い光が集まる。血は、すぐに消えた。彼女は手を下に向け、集まったのと同じ色合いの光をそこに放った。見る見るうちに血の色が消え、上局はもとの姿を取り戻した。


「夜の御殿は外からやるよ」


 彼女はそう言って南西の方に手を向けた。その後ゆっくりと他の部屋にも向けたが「面倒くせえ、手を貸せ」と言ってまた私の手をつかみなぜだが勢いが凄まじくなった光を壁越しにあてていった。

 しゅうしゅうと水をかけられた火のような音がし、どうやら内裏の血は全て消えたらしい。気配でわかった。


「外がまだだ。あー、ちょっと行ってくるから遺体を集めといて」


 そう命じられてちょっとむっとしたが、それは私の遺体だ。それにこの霊界だか天界だかの掃除係の女と現世の気高き女御であるこの私とどちらが上の立場なのかよくわからなかったので集めに行った。


 主上はまだ苦しそうな顔で寝ている。しかし(ふすま)の位置を直してやる他にできることはなかった。

 死骸はあちこちに転がっている。重さはないのだがまとめて運ぼうとするとなぜか動かないので最初のうちはひとつひとつ運んだ。そのうち面倒になって両肩にそれぞれ引っ掛け、もう一つを足で蹴りながら進んだ。どうせ自分だから文句はない。慣れてからは頭の上にものせてみた。脇の下にも挟んでみたのだがさすがにバランスを欠いて何体か落っことしてしまったのでそれはあきらめた。

 こうして努力して無数にある全死体を回収したが誰も起きて来る気配はない。どうも夜居の僧は験のない男らしい。変えることを進言すべきかもしれぬ。


 上局は遺体でいっぱいだ。もちろんどれも私であるがゆえ死んでいようとも壮絶に美しいがあまり気分のいいものではない。これはあの時の、こっちはいつ、と見定めているうちに女が帰ってきた。なんだかほんのちょっとの間にやつれた風に見える。


「......おまえパネエなあ」


 呆れたように言われたから遺体のことかと思ったがそうではなかった。


「都中血に染まっててエラい目にあった。月の光だけじゃたりねえ、ちょっとよこせ」


 そう言って先程のように手を取るとなんだか何かが抜かれたような気がしたが体調に全く変化はないのでほっておいた。女はあーとかうーとか唸っていたがそのうち落ち着いた。


「もう大路は全てざぶざぶでさあ、ヤツらが全部邸の屋根に乗ってるんですげー眺めだったぞ。血は消したがまだ用心して下りてこねえ。見に行くか?」


 興味がなかった上これは想像上の会話なのだから断った。第一私は心臓こそ取り戻したが亡者のままである。お仲間認定でもされたら不愉快だ。


「そっか。超珍しい、ってか初めて見たんだがな」

「どうでもよろしい。ところでこれは埋めますか?」


 女は死体を覗き込み、眺めているうちに腰を抜かしそうになった。


「なんだ、これひでえな。顔も凄いがハラワタ出てるぞ」


 苦悶の断末魔の表情のまま死んでいる私は凄まじい白目を剥いている。血まみれな上に腸が長々とはみ出ていた。私は怒りのあまりこぶしを握りしめた。


「昔内裏に桐壺の更衣という最低最悪の女がいて、そのとき死んだ分です」

「お、おう」

「後宮史上最凶の女でした。この辺で憤死している分も全部その頃のものです」

「そ、そっかー」


 掃除係は困ったように頭をかき、「そいつに殺されたのか?」と尋ねてきたので鼻を鳴らした。


「まさか。更衣ごときにこの私を殺せるわけがないでしょう。私を殺すのは......いつも同じ相手です」


 間接的に原因となろうとあの女に私は殺せない。たった一人にしか私は殺されない。こぶしを下ろしてその人を思った。


「まあその、次は殺されないようになんとかやってみるとか」

「どうやって?」

「えーと、そのう。あ、発想の転換はどうだろう。ドS彼氏と考えてみるとか......」


 自信なさそうに彼女は答えた。どうやら多少はわかるらしいが、正確には知らないようだ。


「傷つけたいとさえ思っていないでしょう。悪意なんてありませんよ」


 その意図があるのならまだ救われる。私のことを考え、私の心をわざと揺らそうとしたはずだから。


「いや、あの、私が言う筋合いじゃねーし、実際よくわからないんだけどさ、おまえまだ生きてるじゃねえか。死人と違って変えることだってできるよ」


 私は首を横に振った。


「私は亡者だ。二度と生き返らない」


 残機など一体も残っていない。だからもう、傷つくことなどない。

 女は少しうつむいた。彼女にも似たような過去があるのかもしれない。


「それはともかく片付けです。これをどうすればいいのですか?」

「ああ、重ねるだけだ」


 少し寄せてスペースを作って、一番新しい死体を置いた。今日殺された分は胸の辺りに大きな風穴が空いていた。血はどうにか止まっている。

 最近の分から順々に遺骸を重ねると、しゅん、と音がしてわずかに湯気か煙のようなものを吐き出して消えて行った。私たちは粛々と死骸を重ねていきその度にそれは消えていった。

 ほとんどが苦しげな顔をしていた。叫ぶような顔で死んでいるものも怒りのあまり鬼のような形相になっているものもあった。私たちは黙ったまま埋葬するように重ねていき、ついに遺体は一つになった。


「............美しいな」


 掃除の女がしばし見とれる。桜の季節に華やかに盛装した若い娘。最初の死骸。

 他のものと違ってその顔に苦悶の色はない。幸せそうなやわらかい表情で死んでいる。


「きゅん死にか」


 尋ねるからうなずいた。恋に死んだ幸福な死体。たまによみがえり私の中を風のように通り抜けて行った少女。 


「運びましょう」


 うながすと女はこちらを見た。


「これだけはとっておけよ」

「............もうよみがえることはありません」

「だとしても」

「腐りませんか」

「腐んねーよ」


 彼女は少女を寝かせたまま手をかざして光をあてた。真珠の色をした光を浴びた少女はひとひらのさくら色の花びらに変わり、ふわりと宙を舞ってしばらくそこを漂うと私の方に流れそこで消えた。


「まあ、この死体があろうがなかろうが私の内にある乙女心は変わりませんが」

「おい、戦闘力高そうな乙女心だな」


 軽口を叩いて女が笑うと、琴の琴を微かに鳴らしたような音がした。その音はたぶん聞いたことがないのに少し懐かしかった。そのまま彼女が立ち去ろうとした時少し躊躇したが呼び止めた。


「掃除係の人」

「へ? ああ、はい」

「ご苦労さまでした」


 礼を言うと彼女は再び琴を鳴らした風な音を立てて笑い、すっと消えた。まだ他に掃除の予定があるのかもしれぬ。

 気づくと私は弘徽殿の殿舎の御簾内におり、上げた格子から外を眺めている。

 内裏は人の気配ももののけの気配もなくひんやりとした美しさに満ちていた。

 静かな月の光が一面の白砂を、まるで濡らすように染め上げていた。



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