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源氏夢想譚  作者: Salt
第二章
43/89

Pretender

源氏十九歳

弘徽殿視点

 御簾越しに眺める陽の光は強く、身舎の床さえ冷たさを失っている。今日は風も吹かない。女房の数を減らして少しでも涼しく過ごそうとしているのに細殿の方にいた乳母子が暑っくるしい姿で寄ってきて手の平を見せた。三角に切られた赤い紙がのっている。


「これはなんです?」

「わかりませんが廊の端に落ちていました」


 飛んできたわけではなかろう。薄様ではなく厚めの紙屋紙(こうやがみ)を重ねた物に色が塗ってある。


「屏風の一部に使うつもりの物が、衣の裾にでも張りついたのかもしれませんね」

「持ち主を捜すほどの品でもありませんわ」


 覗き込んだ女房たちが口々に言う。それもそうだが貴重な紅を色濃く使っている物を捨てるのももったいないので女童に与える。人形の飾りになど使えるだろう。


「誰についてたのかしら」

「さあ。わたしたちかもしれないし、用のある人は通るでしょ。先程通った主上の女房かもしれないし、その後お渡りになった東宮さまに従った梨壷の人かもしれないわ」


 息子がその父に呼び出されて清涼殿に向かったが、まだ帰る様子はない。珍しいことだと思ったが理由は知らない。


「ご譲位についての相談かもしれませんね。もしそう決まったのなら次の東宮さまはどなたでしょう?」


 乳母子が声を殺して尋ねる。私も低くそれに答える。


「あちこちからオファーがある。三宮が一番近いが趣味人(ディレッタント)にすぎるので考慮中だ」


 わが息子に男子が生まれることを期待して選択を拒んでいたが、まだ生まれぬためどうしようもない。あの宮かこの宮かと想定してみるが、後見たるその親族との力関係などを考えるとなかなか難しい。


「父はともかくうちの兄たちの能力が低すぎるのでうかつな相手を選びたくない」

「それではやはり三宮さまをお選びになればいいのでは? お妹の三の君さまが嫁いでいらっしゃることですし」

「あそこの家は最近少し能力のある者が出て野心満々なのだ。穏やかな三の君がその力を削ぐのは難しいかもしれない」


 何人かの親王の顔を思い浮かべて模索する。やがて整ってはいるが感情の薄い顔が浮かんだ。


————八の宮は?


 彼に母がいない。それは右大臣家に取ってかなり都合がいい。だが祖父である元内大臣は存命だ。小さな寺で謹慎中の身の上だが、東宮の祖父ともなれば息を吹き返す危険性がある。


ーーーーいや、まだだめだ。祖父が死ぬまでは使えない


 とするとやはり三宮しかないか。彼を位につけた場合の全公卿心理をシミュレーションしておくべきだ。まず左大臣。彼の正室腹の長男である頭中将には私の妹の四の君が嫁いでいる。相婿であるから納得しやすかろう。その上、頭中将も彼も楽の名手だ。その線から関係性を深めさせることも悪くない。早急に梨壷で楽の遊びを企画しよう。


「それにしてもご譲位が決まったら左大臣家は困るのではありませんか?」

「突然主上が意思を通せない状態になった時の方がダメージが大きい。帝という者は穏当に位を退き、直系の後続の者との関係を安定させておけば比較的長期に自分自身の影響力を保全できるのだ」


 朱雀の院に引退なさった方がいい例だ。先帝の実権を奪い取りわが子に継いだその方は世を主上にまかせむやみに口を出そうとはしなかった。

 だが暗然たる力は秘めていらっしゃる。昨年彼のために行った紅葉の賀も盛大なものだった。ご本人の気質か実の息子である主上には介入なさらないが、力はお持ちだ。


「でも左大臣家に同情はできない。素直にその姫を東宮に差し出しておけばことは簡単だったのに」


 おかげで父の後は能力のない兄に政をまかさざるを得ない。私だって国を憂うが拒否したのはそちらだ。それでも院に退いた主上がフォローすれば息子は従うだろうし、頭中将は息子に忠実だからワンチャンある。


「わたしにはわかりかねますが、いろんな思惑があるのでしょうね」

「そうだろうな。ん?」


 人の気配に振り向くと源典侍が弘徽殿にたどり着いた所だった。片手でかざした扇の赤は強く、先程の紙によく似て見えた。彼女はそれを閉じあいさつを述べた。


「呉竹の葉鳴りの音をぜひごいっしょにお聞きしたいとのことです」


 要するに呼び出しだ。普段は彼女よりもっと軽い立場の女房が告げに来ることが多い。


「東宮もいっしょにですか」

「いえ。今は後涼殿の方にいらしてます」


 わずかな違和感を感じながら了承し、命はなくとも素早く支度を始めた女房たちに満足する。新人たちもすっかりなじんで初期の頃のようなミスは繰り返さなくなった。

 夏の盛りなので涼しげな(かさね)の者が多い。私自身もいつもよりは色味を抑えた綾衣で装った。



 昼間ではあるが夜の御殿の方へ案内された。主上が緊張した様子で茵に座っている。隣に設えられたものに座ると、すぐに人払いがされて二人きりになった。彼はしばらく私の様子を窺っていたが、意を決したように声を出した。


「実は譲位のことについて考えています」

「はい」


 返事だけして続きを待つと彼は、すぐにではありませんとか自分もそろそろもっと落ち着いた生活をとかあなたの暮らしが困るようにはいたしませんとかつぶやいていた。いいかげん待ちくたびれて口を挟んだ。


「それで、次の東宮を誰にするかは考えていらっしゃいますか」

「はい」


 少し彼の顔が歪んだ。視線でうながすと一息に言った。


「十の宮です。もう決めました」


 仰天した。藤壷の宮に生まれた赤子だ。ロクな後見のない者が打って出るとは思わず考慮しなかった。

 驚愕を内側に閉じ込める。後見が親王であったら丸め込むことはたやすい。どうせ籐家の者の手を借りなければならないからだ。元内大臣やそこに仕えていた者が関わると少しやっかいだがわが右大臣家が総力でかかればあっというまにつぶせるだろう。


「後見は兵部卿の宮ですか?」

「二の宮......源氏に任せることにしました」


 野太刀を喉元に突きつけられたような感覚を覚えた。音がたたないように気をつけて息を呑み込む。じっと主上を見返すと青くなったが目はそらさずに舌を噛みそうな早口で告げる。


「たった今あちこちに知らせてやりました。東宮にも話しました」


 主上らしくない素早さだ。以前から口を酸っぱくしていっていたことがやっと身に付いたのか。こんな形で。

 非常に不愉快だ。不愉快だが認めざるを得ない運びだ。特に源氏を後見に選んだことが秀逸だ。彼は憎いが官吏としてはなかなかできる男だ。しかしそのことはとりあえず置いておいていい。この選択の最も大きな利点は間接的に左大臣を得ることが可能なことだ。

 まともな頭なら藤原の家はけして権力を手放さない。が、あの左大臣はどうも思考の運びが読みにくい。その上源氏に妙に肩入れしすぎる。将来的には実の息子である頭中将と権力を争うことになるかもしれないのに平気で一粒種の娘を与え厚遇している。

 私からすれば阿呆としか思えないが、手強い相手でもある。なにせ筋はうちよりもいい。主上の姉も降嫁している。温和な人柄なので他の公卿にも受けがいい。息子はなかなか使える。うちの兄たちよりずっといい。


ーーーー主上にしては出来過ぎだ。いや、彼ではない


 女の影が彼の背後に見えたような気がした。


————藤壷か!


 乳母子が散々に用心をうながした相手。あやつの野生の勘は当たっていたのか。あの憐れな娘、更衣のニセモノとしたのは見くびりすぎていたか。

 胃の腑が痛む。が、まだだ。まだ挽回できる。たとえ源氏と左大臣をたし合わせても今の時点では右大臣家の力は拮抗するほどあるはずだ。私が本気で指揮を執れば。


「了承しました。そのようにこちらもとり計らいます」


 うっすらと笑って答えた。ここは引くべき所だ。動揺していることを見せてはならない。主上はほっと息をついた。


「認めてくれてありがとう弘徽殿さん」

「いいえ。最も尊重すべきは主上の意思ですわ」

「そう言っていただけると助かります。では、わがままついでにもう一つ」

「なんでしょう」

「......中宮は藤壷さんをつけようと思っています」


 突如世界は止まった。

 主上が横に座っている。

 生々しく脈打つ私の心の蔵を握ったまま。


 少女の頃から憧れていた。帝の妃と呼ばれる者は数多くいるが、それは全て臣下で本当の意味での妻ではない。真の妻は中宮(皇后)だけだと。私はそれになるのだと。たった一人選ばれて家族になるのだと。


 主上が握った心の蔵が脈打つたびに血が溢れていく。

 それは滴り落ち、茵を染めていく。すぐに赤く染まり次には畳が濡れていく。

 床には心の蔵を抜かれた私の死骸が転がっている。

 はい、今君死んだ! 死んだよ! 暑苦しい男の声など聞かなくても知っている。

 では今、ここにいる私は? ............あわれな亡者(ゾンビ)だ。


「そうですか。おめでとうございます」


 ひどく冷静な自分の声が聞こえる。主上が慌てて言葉を連ねる。


「東宮が帝になるのもすぐです。そうなればあなたは皇太后になるのですから、中宮は譲ってあげてください。ほんの一瞬だけあの人の方が地位が上になりますが気にすることはありませんよ」


 血は止まらない。畳でも吸いきれなくなって床に溢れていく。

 転がった私の死骸も血に染まっていく。

 亡骸は一つではない。無数に転がっている。全て彼に屠られたものだ。

 まるで見せ物の口上だ。これは孔明さま七歳の時の頭蓋骨で、こちらは二十歳の時の頭蓋骨です。

 そんな感じで十八の時の死体が十九の死体の横に転がり二十歳の時の死体が別の年の死体の傍らにある。


「......怒らないのですか?」


 不思議そうに彼が尋ねる。私は口の端を上げていいえと答える。

 さすがの私ももう残機がない。亡者には感情などない。


「まさか。あなたがお決めになったことですし」


 彼は怒りと傷の所在を尋ねて私の顔を眺め回す。そんな物は存在しない。しないがそう想定しているのならその価を求めるにやぶさかでない。亡者であってもなすべき仕事がある。息子の権利を守らねばならない。


「ですがお願いしたいことはあります」

「なんでしょう。なんでも言ってください」


 主上がほっとしたような声を出す。そこに攻め込む。


「十の宮の次の東宮は現東宮の息子にすることを認めてください」

「え? まだ生まれる気配もないじゃないですか」


 そう思って逡巡したのが災いした。同じ轍は踏まない。


「ええ予約です。生まれなかったら果たさなくてもいい約束です。ですが書面でお願いします」


 亡者でなかったら、これ以上嫌われたくないと思って口には出せなかっただろう。なかなか利点があるものだ。

 主上はうなずいて手を叩いて自分の女房を呼んだ。私の心の蔵は床に転がり落ちてなお血を吹き出す。彼は硯などの用意をさせるとさらさらと書き上げた。未だ愛らしさの残る手蹟で。


「............他には何かありませんか」

「あります。女三宮のことです」


 下の娘のことを依頼する。


「今の斎院が退いた後でかまいませんが、あの子を賀茂の斎院につけてやってください」

「え、神に仕える身になることは何かと大変ではないでしょうか」

「そうですがただの内親王であるより付加価値がつきます。一生安泰な暮らしを送らせるためにはその方がいいでしょう」


 伊勢の斎宮と違って近場なので様子を見ることができるし敬意も払われる。亡者となったからには私も長くはもたないだろうから、その後のことを考えてやらねばならない。もし斎院暮らしが気に入れば何代かに渡ってつくことも可能だし、合わなければ何かと理由を付けて早めに下りることもできる。


「それではそうしましょう。私にとっても大事な娘です。ちょっと寂しいけれど彼女のためになるでしょうし」


 主上もこの子には優しい。少し派手な好みの子なので着任したら神事は今までより盛大に行わせることにしよう。


「他にはありませんか」


 どくどくと血を流す心の蔵を前にして彼は優しくうながす。悪意一つなく偽りの善をなす。

 少し考え、まっすぐに彼を見たまま堂々と不善をなした。


「ええ。女一宮についてです。あの子は一品内親王ですので暮らしの心配は必要ありませんが、琴を好んでいるので宜陽殿(ぎようでん)に納めてある琴の琴を賜りたいです」


 あの夏あの女が死ななかったら、たぶんどちらかが奏すことになるはずだった琴。代々の帝に伝わる第一の名器だ。

 主上は顔色を変えた。


「あれは光が殊のほか好んでいて......」


 私は黙って彼を見た。血を噴き出し続ける心の蔵がまるで彼のものであるかのように顔色が悪いが、それでも拒否はできなかった。


「............いえ。あの子にやりましょう」

「お心遣い感謝いたします」


 ああ、生前の私は妬んでいたのだな。あたりまえのように国庫を開けて袴着を元服を彩られる源氏を。そしてその愛をわが子に注いでほしいと思っていたらしい。もちろん、それは国に対する搾取だから「そのお気持ちだけでけっこうです」と笑いながら断りたかったわけだ。

 不自由しているわけではないからこれだって搾取だ。だけど、この一つだけは許してほしい。泣くことのできない亡者の、失墜した悪役のたった一つの搾取だ。


「あなた自身は何かいらないのですか」


 優しい偽善者が血に汚れたその手を伸ばす。わずかに顔をそらしそれを避ける。傷ついた目をしてうつむきその手をだらりと下に落とす。床に落ちた血の滴が弾けて彼の顔にまで跳ねた。


 白く優しい手が私に差し伸ばされる。輝く笑顔が私に向けられる。

「長い間お待たせしてすみませんでした。ぜひ、私の中宮になってください」

 

「欲しいものはないので、何もいりません」

「でも......」

「お気になさる必要はありません」


 冷酷でさえない儀礼の微笑みを唇にのせて退去を告げる。主上は泣きそうな顔をしている。

 私の心の蔵は未だ床で脈打っている。死人の臓物にしてはなかなか活きがいい。

 どくどく。どくどく。血が溢れる。辺りはすでに血まみれで、夜の御殿から外へ押し寄せていく。

 上局を通り抜け、女房とともに簀子へ足を向けると息子の声がした。


「母上」


 近辺で待っていたらしい。私は穏やかに彼に接した。


「あの......」

「聞きました。先に向けての用意を進めるように」

「そのことはいいのです。梨壷にいらっしゃいませんか。氷が届きましたので削らせましょう」 

「不要です。自分で召し上がりなさい」

「ですが母上」


 必死に彼は私を誘うが断った。


「東宮ともあろうお方がこんな道の端に留まるべきではありません。早くお帰りなさい」


 そのまま彼に背を向け弘徽殿に向けて歩み去った。

 溢れた血がこんな所まで滴っている。それはゆっくりと増えていき高欄を満たして白砂に流れていった。

 自分の殿舎の自分の茵に座り外を眺める。いつのまにか内裏は全て赤く染まっていた。





連続投稿で次話があります。

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