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源氏夢想譚  作者: Salt
第二章
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真夏

源氏十九歳

藤壷視点

 夏の日射しが全てを灼く。藤の花さえ耐えきれずに、もう一つも残っていない。物思いを誘う五月雨はやんだ。赤子は元気に育ちつつある。小指を差し出すとぎゅっと握るが意外に力強い。


「本当にお美しい若宮さまですわね」


 帝の用で源典侍が飛香舎(ひぎょうしゃ)(藤壷)に現れてその子をかまう。なぜだが触れてほしくない気がしたけれど、女官に反感を持たれることの愚を知っているので意識して微笑を形作る。


「源氏の君の幼い頃を思い出しますわ」


 もちろん顔色を変えたりはしない。過去を知る者にそう言われることは想定済みだ。彼の母と私の容姿は似ているそうなのでおかしくはない。けして心の揺れは出さない。


「そうですか」

「ええ。ただ源氏の君はこの方よりももっと明るい......いえ、やんちゃな感じだったでしょうか。さすが皇族の血の精髄とも言えるお方は違いますね」


 日射しで乾ききった白砂のように胸の奥がひりついている。だけど口の端は上がったままだ。

 表情を取り繕うことが上手くなった。心の動乱を礎にしたまま笑顔で語ることができる。


「いいえ、あの優れた方に似ることができたら嬉しいですわ」

「そうですわね、素敵な方です」


 赤子から手を離してにんまりと笑う彼女を見てなんだか苛ついてきたけれど、女房たちもみなそんな顔をしていたのであたりまえの感情のはず。だけど私だけは笑みをたたえたままそれを肯定した。

 そう。誇りなど簡単に捨てられる。だから私はそれを売って代わりに必要なものを手に入れる。目的を果たすために。

 源典侍は機嫌良く殿舎を去った。



「この子を次の東宮にしたいですね」


 昼過ぎにゆっくりと渡ってきた帝は茵に座って息子を抱くやいなやそう言いだし、赤子の頬を優しく撫でた。だけどその後に逆接が続くことも知っている。


「ですがあなたの後見は親王ばかりですね」


 兄の兵部卿の宮を始めとして、名のある者はみな皇族だ。そしてそのことはなんの力もないことと同義だ。暗にその望みは叶えてやれないと伝えてくる。

 だけど私には弘徽殿の女御さえ持たない切り札がある。

 帝にふいに笑いかける。温かくさわやかなその表情は私に似て私ではない人によく似た笑いだ。


 案のじょう彼は凍ったようになり私の顔を凝視した。私は生真面目な風に表情を整え、腕を伸ばして息子を受け取った。きゃっきゃっと笑う子に向け、今度は慈愛の微笑みを見せる。

 桐壺の更衣が亡くなったのは源氏が三歳の時だと聞く。とすれば彼を抱きそれを慈しむ彼女の姿を見たことがあるはずだ。


「............」

「後見は親族ではない方にお願いしたいですわ」

「それは......難しくはありませんか。力を持つ方々はそれぞれ自家の姫をお持ち出し、そうでない人はあまり先の見込みがない。右大臣家の干渉を受けずにあなたをお護りできるような方は......」

「おります」


 静かな私の声に彼はと惑った表情を見せた。ばたつく赤子を揺すり上げ、あやしながら少し帝を待たせる。困惑の態の彼に更に凛とした顔を見せる。


「......源氏の君です」

「!」


 過去を思わせる母子の姿から一足飛びに現在が呼び出される。帝が目と口を見開いた。


「幼い時から実の弟のように親しくさせていただいた上、若宮の顔立ちによく似ていらっしゃるので、もはや家族にしか思えませんわ。ぜひあの方に後見をお願いしたいと思います」

「しかし............いえ、意外にいい手段かもしれませんね」


 帝はそれでも逡巡した。


「ですが彼はまだ若くてそこまでの力は......」

「今後も見守っていただけますよね。でも確かにお若いあの方の力だけでは心もとない面もあります。ですから私を中宮にしていただけないでしょうか」


 さらりと告げると品のいい顔立ちが驚愕のために強張っている。

 手を緩めてはいけない。ここは攻めるべき所だ。


「そうなさりたかった方は私ではないとよく知っています。ですが、お慈悲をいただけませんか。私のためではありません。このこのため、この子を一切瑕のない玉とするために」


 そう言って赤子をぎゅっと抱きしめ、すがるようなまなざしで帝を見つめる。必死さを装わなければならない。いえ、事実必死だ。

 息子は私の胸に顔をすりつけ、それから後ろに反っくり返ろうとし、片手でそれを支えると帝の方を向いて、にこっと笑った。


「どうか、お願いです」


 驚きが収まると帝は複雑な表情で私と赤子を見つめた。

 苦さがわずかに滲んでいる。その暗い色がふいに広がった。恐怖が全身を支配する。だけどそれは急に収束して彼は優しく温かな色を瞳にたたえた。


「............そうですね」


 彼は私の肩にそっと触れた。落ちた、と思ってほくそ笑むと彼は掌底の温もりだけを残して手を離した。まるで、娘の成長を確かめただけの父親のように。

 彼はニセモノの私よりよほど慈愛深く私を見つめた。


「あなたがそう望むのなら、そのように手配します」

「感謝いたします」


 私は乳母を呼び赤子を手渡すと下がらせて、背をしならせて上体を彼に預けた。彼はそれを優しく抱きとめ、私の髪をそっと撫でおろし、そのままやわらかく私の体を起こして立ち上がった。


「どうかなさいました?」

「いえ。ちょっとまだ仕事を残しているので。でも、今のことはちゃんと話を通しますから宮は一切心配しないでくださいね」


 温かな瞳のままで微笑むとそのまま藤壷を後にした。まさか策意に気づかれたかと不安になったが後の言葉からするとその心配はなさそうだ。




 このための準備は充分にした。わずかなつてをたどって昔桐壺で働いていた雑仕女(ぞうしめ)を探し出して廂にあげることさえした。たった一つの笑顔しか得られなかったがそれ以外のものもきちんと想定した。


「お、お、恐れ多くて...」


 震え上がる老女の顔を上げさせて几帳をずらす。私だってここまで下の者ではなくせめて女房の一人でも捕まえたかったが、その人の女房の大半は未だ源氏に仕えているし、引退した者も妙に義理堅くこちら側の誘いに乗ろうとはしなかった。


「そっくりだべ...じゃねかった、よく似ておられっす」


 通常こんな下働きの者は更衣とはいえ大納言の姫であった者の顔など知らないけれど、その人は見せたことがあった。さすがに直接声をかけたわけではないが、女房たちの手から果物などをくれた、微笑んでくださったと自慢にしている老婆がいるとの噂を聞きつけ連れてこさせた。


「この方は亡くなった人よりもずっと高貴なお方です」


 中務がいつもとは違った高飛車な声を出す。


「粗相があってはなりませんよ。ですがおまえを頼りたいことも本当です」


 尊い方のお心をお慰めするために必要なことなのだと言いくるめてある。老女はまた平伏しようとしたがそれを止めさせた。


「は。顔かたちは不思議なほどクリソツでおられるっすが笑顔ははあ、なんか違うっぺよ......」


 下々の言葉はわかりにくい。中務に訳してもらうと、どうも表情が違うことを指摘されたらしい。


「もっとホンワカしてそのくせキリッとして、柑子の実を半分に割った時の匂いみたいな笑い方で......」


 非常に主観的でわかりにくい言葉を連ねていたようだが、中務の努力でなんとか聞き取り、思いつく限りの笑顔を試してみた。


「それだべ! それが一番近いっぺ。もう一度やってくんろ」


 老女の選んだ表情を何度も練習して自分のものにする。私は完全に把握したが彼女は少し寂しそうな顔をした。


「おんなじ笑いだ。だども......違う人なんだなあ」


 どんな人だったのかと中務が聞いた。ぱっと顔を輝かせて、いい方だったと彼女が答えた。


「亡くなって十五、六年たつのに、まんだ忘れられねえほどいい人だったっぺ」


 どうやら私とは全く違う女らしい。私は礼を伝えさせ、充分に物を与えて下がらせた。



 たった一度の笑顔の効果は充分にあった。これで私は勝利者だ。口元が歪むことを抑えられない。女房たちに見せないようにして赤子の傍に寄り、あやした。


————おまえに全てを与えてあげるわ


 もうおまえを罪の子とは呼ばない。呼ばせはしない。光り輝く道を歩かせてあげる。そのためにあの女を、あの巨大な敵を————駆逐してやる!


 息子は無邪気に私に手を伸ばす。それに答える私の指は夏の盛りなのにひどく冷たい。空は輝き渡って青いのに、浮かんだ白い雲はいやな形に膨らむ。


————誇りまで売っておまえは何を得ようとしているのか


 自分の中の誰かが尋ねる。表情を変えずにそれに答える。


————皇国を。私のための国を


 捨てた誇りであがなった素材で、壮麗で堅牢なそれを築き上げてみせる。

 そこでは誰も私を傷つけない。誰もが私に従い背いたりしない。私の意思は尊重され侵入者など受け入れない。


「あーー?」


 赤子が首を傾けて私を見る。皇国の証である大事な彼に偽りのない笑顔を見せた。それでも彼は私を厭わず、やわらかなその手を請うように伸ばした。



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