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源氏夢想譚  作者: Salt
第二章
41/89

三后

弘徽殿視点

源氏十九歳

「やられました!」


 女房の一人が同輩に指摘され、自分の袿の裾に引っかかっていた花を外して運んできた。まだみずみずしい藤の花だ。重たげな花房の上部にわずかに残る蔓に小さな針がうがたれ、それで止められている。


「これは......いつものとは違いますね」


 わが殿舎(でんしゃ)には時おり紙で作られた花が届けられていることがある。名を告げぬその者は知られることが恥ずかしいのであろう、まるで風にでも飛ばされてきたかのようにそっと廊や(ひさし)の端などに置いてある。

 なかなか奥ゆかしい。これはきっと私の崇拝者に違いない。恋心に耐えかねて花を作り、それを私にたとえて季節を過ごす。その想いがこもった花を捧げるので時期外れの花が届くのであろう。


「去年置かれていた山桜や花橘と違って本物です。つまり......藤壷の挑戦状ですわッ」

「大人しげに見せかけて大したタマですわ」


 非難轟々だが私は首をかしげる。あのとき藤壷の女房たちはみな床に額をすりつけていたし、唯一すっくとたたずんでいたあの女もガタガタと震えながら両手で扇をつかんでいた。それでも地に伏せなかった気概は認めてやってもいい。


————あの場でこんなことをできる者がいただろうか


 そもそもなぜ私とあの女が馬道で出くわしたのか。それは単純なことだ。主上がそうたくらんだのだ。

 あの日彼は花橘を後涼殿(こうろうでん)の方の壷庭に飾ったから見に行けとうるさかった。おまけにまだ見ていない自分の女房までいっしょに行かせた。その女たちが多少時間を稼ぐようなまねをした。おそらく藤壷側に合わせるために違いない。


 その理由は簡単にわかる。さすがに図に乗った彼女を懲らしめよというメッセージに違いあるまい。

 対外的には主上は藤壷に夢中だ。しかしあの非常識な時代を通ってきた私にはわかる。あの頃とは比べものにならない。


 たとえば現在、主上は釆女(うねめ)(食事関係の帝用メイド)や女蔵人(にょくろうど)(下っ端メイド)さえ美しかったり賢かったりする者を引き立て寵愛する。が、あの更衣のいた時代、そんな者は目にも入れなかった。というか他の女御・更衣さえ気を向けなかった。もちろん私は別だがっ。


「............女御さま」


 少し乱した心の裡に気づいたのか女房の一人がおののきながら声をかける。


「梨壷の者が来ております。東宮さまがお目にかかりたいそうです」


 承諾すると大して間を置かずに息子が渡ってきた。私を見ると肩を落として息を吐いた。


「さすが母上。少しもお心の揺れを感じさせませんね」

「なんのことです」

「聞きました。いえ、あらかじめ知っておりましたが......」


 顔を曇らせながら息子が事情を話す。双方の女御を対面させよういう主上の命に危惧の念を覚えた女房の一人が、こっそり梨壷に走ったのだ。


「ですが私が唐突に現れるのはあまりに不自然ですし、かえってあちらの方に気をつかわせてしまいそうで。それに母上がそんな状況で負けるとは微塵も思いませんでした」


 私の勝利を確信しつつも、やきもきしながらいきさつを気にかけていたようだ。彼は優しさを滲ませながら私に向かって両手を差し伸べた。


「それでもお疲れになったでしょう。どうぞ人払いをして存分にお心を晴らしてください」


 慈愛の笑みを浮かべる彼を拒むのは申し訳ない気分だが、その必要はなかった。


「別に疲れてはおりません。役目を果たした後の軽い興奮くらいは感じておりますが」


 息子は不思議そうな顔をして手を下ろした。


「父上の作意で行われたことなのに?」

「少々懲らしめてほしいとの意図があったのでしょう。なんにしろ後宮内の些事です。あなたが気にするほどのことではありません」

「しかし......」


 まだ言いつのろうとする彼に会心の笑みを見せた。


「その上私はあなたの予想通り勝利しました。あの宮は私の美貌に打ちのめされて声も出せずに震えていました」

「............は?」


 と惑ったように首をかしげる彼に単なる事実のみを告げる。


「やはり長年宮中の水に洗われて洗練の極みに達した美しさは若さだけが売りの小娘など足下にも寄れなかったということです。いやあの宮が人より劣るわけではない、むしろ同世代や私以外の女御・更衣であったなら充分におのれに自信が持てたでしょうが、なにせ相手が悪すぎた。この葦原(あしはら)千五百秋(ちいほあき)瑞穂(みずほ)の国一の美貌を誇る私なのですから無理もないこと、むしろ同情を禁じ得ません」


 目を白黒させる息子に実の母だからあなたは免疫があるのであまり気づいていないかもしれませんが、と謙虚につけ加えることも忘れない。


「............それはけっこうなことです。万が一、万が一ですが年齢的なことを気になさったりしてはいないかと心配しましたが杞憂に過ぎなかったようです」

「あたりまえでしょう。明日になったら天道を行く日輪を拝みなさい。あれは太古の昔から空にありますがその輝きが失せることなどありません」

「はあ」

「安心したらお戻りなさい。東宮は休むことも仕事です。あなたは少し体が弱いようなので心配です」


 何となく釈然としないような面持ちで息子は弘徽殿を後にした。心配性にもほどがある。尊い立場なのだからつまらぬことに気を取られないようにさせてやらねば。

 そう決意して隙のないように振る舞ったが、内裏は少しずつ揺れ始めた。



 事の起こりは源氏の女性関係だ。今まではあの派手な男にしては大人しく、大した噂は流れていなかったが、最近になって愛人を引き取ったと囁かれ始めた。

 たかが一介の臣下の恋愛沙汰、その程度のことなど気にかける必要はないが、左大臣家の姫である正室をないがしろにするのであれば別問題だ。


「出かけようとすると足止めをかけたりするとか。どういった素性の女でしょう」


 内裏中で囁かれている話がわが殿舎内にも持ち込まれる。本当にそんなことをするとすれば、幼いか家を背負って立つ姫としての気構えを持たない、つまり素性の悪い女であると想像するのは仕方がないことだ。

 左大臣は源氏にひどく甘いが、立場をわきまえぬ行為をどう思っているのだろう。

 次世代を担うわが右大臣家の不興を買ってまであの男は愛娘を源氏に与えた。その結果がこれだ。


 昔、(ちょう)という国で人質となっていた秦という国の王子を見た呂不韋(りょふい)という男が、「これは奇貨(きか)なり。()くべし」(珍しい、買った!)と言ったそうだ。同じように源氏も奇貨には違いあるまい。だが払った値ほどの利を生むことができるだろうか。

 まあいい。こちらは高みから見物させてもらう。

 そうのんきに考えていたら、なんとこちらに飛び火してきた。



「......まことか」

「はい。世間は源典侍と源氏の噂に夢中で未だ気づいておりません」


 源氏の噂は更新されて今は年を重ねた源典侍との仲が話題になっている。だがわれわれはそんなことはどうでもいい。さすがに抑えきれない左大臣家の不満をなだめるために主上がどう動くかということに注目していた。

 それには大胆な答えが提示された。譲位だ。

 私は顔をしかめた。それはいつかはあるはずのことだが、今まで彼はその気にはならなかった。私も彼に少しでも権威を加えようとして急かせることはしなかった。


 三后(さんこう)と呼ばれる立場がある。太皇太后、皇太后、皇后(中宮)だ。たいそう権威があり、普通定数を満たしている時は必要であっても置かない。

 が、この時代その席は空いている。なぜなら、后の立場であった藤壷の宮の母が亡くなっているからだ。その上皇太后の席も空いている。


 もちろん中宮に一番ふさわしいのはこの私だ。東宮の母となって長く、品位も立場もその生き様も世に認められている。父の力を持ってすればすぐにでも着くことができた。なのに未だにそうなってないのは理由がある。

 金だ。


 中宮は金喰い虫だ。その立場は恐ろしいほどの金がいる。しかも一時的なものではない。生きている限りずっと継続的にランニングコストがかかりまくる。


 私はいつだって中宮の立場に憧れていた。まだ藤壷の母后が存命であった時代から、皇后と中宮の立場を分けその立場をわがものとすることを夢想した。

 だが強引にそうしようとはしなかった。

 理由は二つある。第一の、そして最大のそれは主上自身に望まれてそうしたかったからだ。

 第二はそれこそ経済的理由だ。


 過去に彼が桐壺の更衣に迷った時、さっさとその地位から下ろすことをシミュレーションしなかったかと言えば嘘になる。右大臣家からすればそれが最善の策だったし、あの時点では左大臣家さえ反論しなかったとは思う。

 なによりもそれが籐家のやり方だ。


 だが私はどうしてもそれが嫌だった。

 無理矢理引きずり下ろされた帝のその後など、余生に過ぎぬ。しかも後世の学者はその書に記すだろう。”一人の女に迷った愚かな帝”と。


 それはがまんできない。”多数の女に気を惹かれた好色な帝”と書かれる方がマシだ。彼が一人の女に執着するのなら、それは私以外であってはならぬ!

 もちろん、彼が惨めな立場に追い込まれることも耐えられない。


 私は愚かな女だ。情に捕われ絶好の機を逃した。

 いや、日の本一聡明なこの私ではあるが、それ以上に強固な乙女心がそうさせてしまった。

 が、そのことは置いておく。状況を整理しなければならない。


 わが家は意識的に中宮及び皇太后席を空けておくことによってどうにか幾ばくかの金銭的余裕を作ることができた。私はそれを主上関係の非常用資金とした。


 彼は無茶だ。源氏のために国庫を開けて散財する。それは私事に過ぎないのだから公私混同もはなはだしい。源氏の袴着(はかまぎ)の時からその傾向はあったので、用意するだけの心構えはしていた。


 事実、去年の紅葉の賀の折りなども、ちょうど収穫期であるこの皇后職の位田がなかったらえらいことになるところだった。

 それでもこの位田をつかうことは暫定的なものなので、可及的速やかに他を切り詰めさせたり権力で脅したりして他の財源を確保したが。


「ならば中宮の位も整えておかねばならぬ」

「お着きになりますか」

「そのつもりだ。金はかかるが中宮位は帝位を彩る華だ。その治世に一人もいないと後の世に見くびられそうだ。譲る気ならばなおさら固めておきたい」


 皇太后の位がまだ空いているからそちらの位田を非常用に使うことは可能だろう。

 時がくれば私が中宮からそちらに移り、息子の妃でもっともふさわしいものを中宮にしてやればいい。


「何かと用意がいるな。父上とも打ち合わせねばならない」

「はい」


 主上が譲位した後の暮らしも整える必要があるし、後々まで賢帝であったとたたえられるように手を打つ必要がある。

 正直、治世の前半の桐壺更衣の件があるからずっとごまかせるか自信はないが、運よく目だった天変地異もなかったし、(まつりごと)は私と父とでどうにかさばいた。賢帝の条件など民を飢えさせないことと人々に大きな不満を抱かせないことの二つだ。災害と飢饉がなかっただけで勝ったも同然だ。

 その上彼はいつの頃からか何もできないことを自覚して、臣下の話をよく聞いてやっている。改善策を提示することはなくとも帝王がそうしてやるだけで臣下は気が落ち着くものである。


「うむ。いけるな。上手くすれば聖帝と言わせることも可能だ」

「あ、それはいけません。愛などいらぬわ、とかまされます」


 乳母子の進言を無視して私は先に向けての準備を始めた。

 五月雨はやみ空は青い。日差しは強くどこかで雲雀(ひばり)が高い声で鳴いている。

 手を止めてそれを聞いた。なんだか寂しげな声だった。



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