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源氏夢想譚  作者: Salt
第二章
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藤壷視点

源氏十九歳

 以前からそこは戦場だった。だけど今、休む場所さえない。


「美のトップクラスはやはり似てしまうのですね」


 帝が私の子を抱いて微笑む。赤子は源氏を映し取ったような顔で笑っている。

 私も口元を緩めてみせる。誉められる子を産んだ母の喜びと誇りを形で現わすために。


「全くこの子は瑕のない玉だ。宝物ですよ」

「光栄ですわ」


 自分の感情など支配してみせる。帝に一片の疑惑さえも与えたりはしない。



 罪の子は私に宿り、そして生まれた。私は悩み抜き自分の死を願った。なのに女房たちが声を落として語っているのを聞いてしまった。


「弘徽殿の女御が宮さまを呪っているとか」


 御帳台で横になっていた私は目を見開き、かけられた大袿の端をつかみ唇をかんだ。

————このまま死んだら、あの人に笑われるだけ!


「......薬湯を」


 王命婦が飛んできた。私は顔を背けて身を起こすのを手伝わせた。すぐに弁が薬湯の入った土器を運んできて、手を添えて口元にあててくれる。

 湯さえ飲むことが苦痛だった体が、少しずつそれを受け入れていく。温もりが体の中に流れ込む。


「まあ。ようやく落ち着かれて」


 中務が涙ぐんでいる。私は苦みのある薬湯を飲み干した。

 それを機会に快方に向かい、ようやく内裏に戻ることができた。



 頻繁に帝は飛香舎(ひぎょうしゃ)(藤壷)を訪れる。その度に子を抱き得意がる。私は彼の最愛の妃として、もっともやんごとなき血を伝える子の母としてふるまう。いえ、それ以上の存在として殿舎を華やかに彩ってみせる。


 その道具の一つは源氏だ。子どもの真実の父であることを除けば彼は、若く美しく才ある男だ。そして帝の最愛の寵児だ。使わない手はない。

 音の遊びも再開することにした。源氏が加わることを否定するつもりがないことを雑談のふりで中納言に語った。


「遊びごとも源氏の君が一際優れているわね」


 そこに王命婦が控えていることは知っていた。彼女がどんなに苦い思いを噛みしめようとも、自分の男の微笑み一つを得るためにその言葉を抱えて走ることもわかっていた。


————好きに売ればいい。おのれの恋のためにおのれの主人を売ったように


 もくろみ通り源氏は遊びに現れる。帝は息子を抱えて彼に見せに行く。


「見てごらん、君のちっちゃい頃を思い出すよ。ああでも、他の子のこのくらいの時は知らないからみんなこんな感じなのかな。ほら、可愛いだろう」


 御簾と几帳越しの彼の表情は定かではない。

 恐ろしい? 切ない? 申し訳ない? 嬉しい?

 好きなだけ心を揺らせばいい。私はいたたまれなくて冷や汗さえも出てきている。内に着込んだ単衣の絹が肌に張り付いて気持ちが悪い。だけど、けして外には見せない。


 あなたは私以上に苦しむべきだ。罪の重さに縛られてしまえばいい。そして自分の与えたこの子にひざまずくべきだ。


 気持ちを乱した源氏は早めに退出してしまった。それを機に帝も上へ戻られ、他の者たちも下がった。人が少なくなってしばらくしてから、王命婦がなでしこに添えられた文を持ってきた。


「若宮をあなたになぞらえてみたのに、ちっとも癒されません。撫子の露より涙の方がまさっています」などと書かれたものを強引に見せ、「塵ほど少なくてもいいのでお返事を」とせまる。私はそれに「涙のゆかりと思ってみても、やはり大和撫子を疎んでしまう」と薄墨で書きさしてそこに置いた。


 すぐに文は届けられるはずだ。どうとろうが好きにすればいい。でも、なかったことにだけはさせない。


 私は彼のように帝の視線から隠れて休むことはできない。たとえ帝が清涼殿に戻ったとしても逃げられない。その罪からも帝からも。



「あら、お目が覚めましたよ」


 傾きだした陽光を浴びながら、乳母が赤子を抱き私の元へ連れてくる。源氏によく似た顔を無邪気に歪めて口をぱくぱくと動かしている。黙って見ていると乳母が「お乳を差し上げましょうね」と連れ去った。私は「そう」と答えてただ見ていた。


 気づくと、式部と呼ばれる年かさの女房と目が合った。容姿はともあれ非常に聡い女だ。

 私は何か問いたげなその目を見返しうなずいた。


————おまえの思う通りよ


 身近な女房にさえ気は抜けない。けれどこの女は賢い。主人の失墜がおのれの身の失墜であることをよく理解している。


「若宮のための女房をもっと用意しなければならないけれど、加わってくれる?」

 彼女に尋ねるとしばし私を見つめ、静かにうなずいた。

「......仰せのままに」


 満足げに微笑んでみせた。これで守りを一つ手に入れた。式部なら後は自ら動いて陣営を整えるに違いない。

 懸案事項が一つ減り、少し気が楽になった。そこへ帝の女房が彼の招きを伝えるために現れた。


「今宵は若宮さま抜きで、存分に装った宮さまにお会いしたいとおっしゃってます」


 承諾するとすぐに女房たちが支度のために立ち上がった。いつもなら帝の女房はいったんここで退出する。けれど彼女はそのまま残った。


「久々に上がっていただくわけですから、わたくしもお供するようにと申しつかっております」


 常ならぬことなので胸の奥が冷えたけれど、私の女房たちは帝の厚意ととり喜んだ。

 衣装の選択に少し手間取っているとその女がやんわりと口を挟んで急がせる。けれどこちら方の者が焦ると「慌てすぎてはいけませんわ」と少し笑い、立ち上がって仕上げを手伝ってくれた。

 長年帝の元で働いていた者なので手際が良い。形よく重ねを整えてくれた。


 日が斜めにさす頃、女の指示で付き添いの者たちも全て立ち上がり、帝の待つ清涼殿へ足を向けた。

 藤壷の身舎を出てゆっくりと南へ向けて歩き出す。壷庭にわずかに残った藤の花が重たげな房を揺らしている。そこを過ぎて清涼殿と後涼殿の境の西北渡殿へ進み切馬道へたどりついた。その途端、先導の女房が足を止めた。


「!」


 私の女房が驚いて南側に視線を流す。

 相手も驚いてこちらを見つめている。


 上局に行くために通らねばならない道に華やかな装いのよその女房が踏み込んでいた。

 でも、私の女房もほぼ同時に足を入れている。


 相手側が譲るべきだ。当然私と私の女房はそう思う。だが向こう側の女は別の考えらしい。きっ、とまなじりをつり上げたまま動かない。


「どうしたの?」


 相手の女の後ろの者たちは状況がわからなかったのだろう、何人かが覗き込むようにして息を呑んだ。私の女房たちも同じ音を立てる。

 趣よりも華やかさを旨とした衣装の女たち——弘徽殿側の女房だ。


「......なぜここに」「そんな必要などないのに」


 抑えた声で女たちが囁く。弘徽殿の上局への道は弘徽殿と直結していて、たとえ同時に呼ばれたとしても姿を見かける程度はともかく対面することなどないように作られている。

 それがなぜ、朝餉(あさがれい)の間の裏手のこんな場所にいるのか。


「......陰謀ですわ」「まさか帝の女房を......」

 そんな声がわずかに耳元まで届く。当の女房は聞こえていないかのようにすました顔で揺るがない。


「お下がりください」

 気丈にも私の女房の一人が声を高めて言い放った。が、相手の者は薄く笑ってそれに答えた。

「そちらこそ下がるべきです」


 別の女房が援護する。

「こちらにいらっしゃる方は、先の帝の后腹の内親王であらせられます」

 相手側が打ち返す。

「こちらの方は、現在の東宮さまの母君さまでいらっしゃいます」


 双方にらみ合ったまま互いの主人を守る壁となっている。

 けれどあちら側の壁はふいに割れた。

 声など発したわけではない。凄まじい威圧が自然とそこを開いた。


 私の女房たちはけして無能でも小心者でもない。だけど抗うことなどできなかった。

 たとえ戦支度をした猛々しい武士でさえ、この場にいたら同じだったと思う。


 中納言がひざを屈した。王命婦が微かな声を上げて額ずいた。中務が腰が抜けたようにすとん、と落ちた。他の者など帝にもしないように全身を床に這いつくばらせている。

 唯一、弁だけが全身で私をかばうように立ちすくんでいる。


 だけどそれも長くはもたなかった。

 敵側の壁は更に割れ、恐ろしいほどの威を放つ女の姿が現れた。


 彼女は北を向いていたから見えたのは横顔だ。もちろん扇をかざしていたが、ゆっくりとそれを外した。

 なんという大胆さ! 私も息を呑んだが辺りの様子を見て愕然とした。

 彼女の女房以外、顔を上げて立っている者など私だけだ。

 全ての者がひざをつき額を床にすりつけている。

 顔など晒してもなんの問題もない。


 切馬道の奥まで足を運んだ彼女は視線をこちらへ流しもせずに片方の口の端をわずかに持ち上げた。そしてそのまま扇を戻した。

 すぐに彼女の女房たちが追いついてまた、生きる壁となった。すぐに全員が東へと曲がった。


 私はひざこそ着かなかったが、扇を持つ手も全身も小刻みに震えていることにしばらくたってから気づいた。

 私の方が若く、美しい。あの女はかつては美しかった女でしかない。だがーーーーどちらに価値があるかと問われたら?


 罪で汚され罪をはらみ罪を育てるこの身と比べて、傾きかけた光を浴びながらであろうとも天道を行く彼女の横顔は憎たらしいほど自信にあふれていた。


「なんと不敬な!」

「そもそも一般的に直進の方が優先でしょう!」


 ようやく解凍された女房たちがわれにかえって不満を口にする。それにかまわず黙って先に進んだ。



 事情を聞いて帝は優しく慰めてくれた。


「私がいけなかったのですよ。今年は麗景殿さん以外からも見事な花橘の献上があったので、後涼殿の方の壷庭いっぱいに飾らせたのです。弘徽殿さんに帰りがけに見ていってくださいと勧めましたし、あなたにもしおれる前に見てほしいと思って急いで声をかけました」


 彼女が思ったよりも長く花を見ていたらしい。

 女房たちは未だに呼びにきた女房に不信の目を向けているが、帝つきの女房を敵に回すつもりはない。直接尋ねたりはしなかった。

 釈然としないままその夜を過ごした。



 上局には寄らずに戻った。藤の花が清らかな朝の光を浴びて風に揺れている。なのにあちこちに絡み付くその蔓は妙に黒々と鈍い色合いに見えた。



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