御剣
源氏十九歳
弘徽殿視点
「あ、これ懸盤はもっと上に持ち上げて運ぶのです! 女御さまの召し上がるものですよ......違うっ! 頭にのせるんじゃないっ!」
乳母子が叫んだ。十六、七の若女房が懸盤をかぶったままぷんとふくれる。
「これはもう御前には出せませんっ。すぐに下げて」
「こちらはよろしいですわね」
同じ年頃の女房が高杯をかかげて持ってくる。上には漆塗りの椀が載っている。
「熱々の鯉のお汁でございます......あ!」
そっと下ろそうとして失敗してしぶきを浴び、熱さに驚いてひっくり返してしまった。
「まったくもう、何やってるの! それに蓋は?」
「すみません、柑子だけでも先に持っていってちょうだい......きゃっ」
急に呼ばれて焦ったらしい別の女房が器に乗った果実を落としてしまう。それはあちこちに広がって私の前にも転がって来た。
「もうっ! 今時の若い子はーーーーっ!!」
ついに乳母子が切れて先程よりも甲高い声で絶叫した。
あたりまえだが身の回りで使うのは女ばかりだ。長く仕えてくれることが望ましいが、妊娠、出産、夫の転勤地に動く者、父について行く者、結婚を機に勤めを辞める者など様々な理由で人が変わる。
これでも給与待遇よく、直接仕える主人は時流に乗った政治家の父を持ちなおかつ後宮で一番の実力者の上に人柄も知性も最上であるこの私なのだから、売り込みにくる者も多く人材には事欠かない。
それでも通常なら時を見計らって少しずつ入れていくのだが、今回は入れ替わりが激しかった。
女房といってもこの弘徽殿で使う者は、身分も素性も悪くない者ばかりだ。ふだん里では姫さま姫さまと乳母日傘で育っている。女童のうちからインターンで来ている者はともかく実務を仕込むのはなかなか大変だ。
「おまえの口からあんなセリフを聞くとは思いませんでした」
「いえ、ほんとジェネレーションギャップを感じております」
ようやっと落ち着いてから乳母子を傍に呼ぶと、肩を落としてため息をついた。
「わたしの若い頃のように完璧にとは言いませんが、もう少しやりようがあるのではないでしょうか」
完璧だった覚えはないが、必死に仕えていることは否定しないでやろう。
「それにしてもなぜこんなにたくさん人が来たのでしょう」
「この間の試楽のせいでしょう。あれを見たがった者が親をせっついて強引に雇われに来た」
そう言った途端に彼女は拳を固くつかんだ。
「まったく、いったい誰なんでしょう、よからぬ噂を広めたのはっ」
私はそれをなだめた。
「ほっておきなさい。新人をあれ以上萎縮させるとロクなことにならぬ」
「しかし注意したその後さえも」
先日朱雀院行幸の試楽があった。出し物のメインは源氏と頭中将で”青海波”を舞った。一切の偏見を抜くと、まあ悪くない出来だった。
「『鬼神にでもさらわれそうだ。禍々しい』と私が言ったのは事実です」
「でも殿舎に戻ってふと漏らされた言葉じゃありませんか。それがもう、その日中には広まっていたんですよ」
それに気づいた彼女が新人を集めてギャンギャン言ったが、行幸の後にまた私の言葉が広まった。
乳母子がいきり立って犯人探しをしようとしたがやめさせた。
「後の方はむしろ直接言いたかったほどです」
先の言葉を本気にして主上は源氏のための特別な祈祷を頼んだ。そのことを私はムダだと思って「バカバカしい、やり過ぎでしょう」と述べた。
「いえ! 情報の漏洩を軽く扱うべきではありませんっ。誰かが女御さまを陥れようとしていますっ」
「ほう、誰が」
「ズバリ、藤壷の宮です。あの女、やたらに女御さまに張り合ってきます!」
彼女はバンバン、と脇息を檜扇で叩いた。動きは大げさだが声は潜めた。
「女御さまが音の遊びで名を馳せたら暑い盛りに戻ってくるし、涼しくなった途端に連日楽の音を響かせるし。きっとこれはあの宮のスパイが潜り込んでいるに違いありません」
「なかなか面白い」
あの最上級の育ちの内親王がスパイを放つさまを想像すると笑える。
「笑い事ではありません」
「ああ。中でも位階の件が一番笑えなかった」
行幸はまあ成功した。だから源氏と頭中将を昇進させるのはかまわない。それは想像の範囲内で予定に組み込まれていた。が、主上はこのイベントをレジェンドとするべく上達部のほとんどの者の位を上げてやった。
「父上が真っ青になって相談に来たわ」
「はて、それはなぜでしょう」
「位が上がったら位封も増える。つまり給与も上げなければならない。息子が上手に踊ったからといって、どれだけ国庫に負担をかけるのだ。不吉な影より金の方が恐い」
「はあ。それは確かに」
「どうにか捻出させたが、いらぬ苦労をさせられた」
なのに礼は源氏の方にいく。予算を締めなければならぬ右大臣側に不満がつのる。理不尽だ。
「おのれ、それもあの宮の陰謀!」
「彼女にはなんの得もないわ。ただあの宮に取り入ろうとする者は多少はいるな」
去年の夏一人の女御が死に、その父である内大臣が職を辞して出家した。彼は都を離れ、今も小さな寺にいる。
そのことによって彼の派閥だった者の昇進が遅れている。彼らはなんとか上の者の気を惹こうとしているが、既に固まってしまった私の父や左大臣の下に潜り込むことは難しい。
彼らは事態の打破を新勢力に求めようとした。つまり今主上が私の次に寵愛を示す藤壷の宮の下だ。
彼女の後見はもっぱらその兄の兵部卿の宮だ。しかし彼に政治上の力はない。
デメリットと見えるその事実は上手く扱えばメリットとなる。
つまり、兵部卿の宮を神輿に担ぎ実権を手にすることができるのだ。
そしてこの宮は非常にくみしやすい男だ。
まあ、わが父右大臣に表立って逆らう者はいないが、裏で画策する者はいるだろう。
「なんとかあぶり出して殲滅しましょう」
「別にかまわぬ。ほっておきなさい」
乳母子は不満げだったが私は話を打ち切った。
正月も過ぎ、大瓶の梅の花は開いてかぐわしい香りを辺りに漂わせている。寒気が収まったとは言えないが、女房たちの装束も少し軽やかになった。
「県召の辞目もようやく終わりましたが、まあ順当な配置ですね」
「主上が多少、いつもより意思を通されましたが」
花より団子とばかりに女房の一人が先日の話を持ち出した。
この件は事前に父へ話があった。毎度の年官(権利分の人事)に加えてわずかな人数をできれば通してほしいという依頼だったので、全員ではないが呑んだらしい。
「今までちゃんと役についていなかった気軽に使える方を近場に置かれましたね」
「でも無理に大国に推したわけではありませんし。むしろ遠方の大国は全て右大臣さま方の者で占められましたし」
「おかげでここの女房仲間が減ったほどですもの。また新しい子は来ましたが」
もちろん近場にわが手の者が全くいないわけではない。それに息子の位置は盤石だから、主上の寵臣も左大臣のシンパも動かそうと思えばできなくはない。先を見越す者たちは右大臣家に背こうとはしない。
ただ、細い針の先程微かな違和感がぬぐいきれなかった。
「国司は決まりましたがまだ決着がつかぬ事がありますね」
一人の女房が視線を西の方に向けて言った。もちろん壁などで見えないが藤壷の方角だ。
「皇子さまの誕生は年の末かと思ったのにえらく延びること」
「物の怪のせいだとか言ってらっしゃるようですけれど、たたられるようなことをなさったのかしら」
若い女房が薄く口元を歪めた。
「宮家筋のやんごとない方こそ先祖代々の恨みをたんとかっていらっしゃるのでしょう」
同じくらいの年頃の新参の女房が声を合わせる。乳母子も奮い立った。
「物の怪程度でへこたれる方が、よくもこの魑魅魍魎の跋扈する内裏へいらしたわね!」
若い女房たちは彼女に目を向け、おもねるような笑みを口元に浮かべた。
「弘徽殿には物の怪など近寄れもしませんよね。何かコツでもあるのですか?」
「コツなどありません! わが女御さまの存在自体が物の怪を寄せつけないのです!」
「まあ、すごい。さすがですわね」
乳母子は胸を反らして賞賛を自分のもののように受け止めた。
「女御さまにかかれば物の怪など草陰で震える小ウサギのようなもの。手跡を見ただけでぶっ飛びます」
「まあ、それじゃ使うことさえできるのではなくて」
「もちろんです! 払うも祟るも思うがまま! 陰陽師さえ目じゃありませんっ」
勢い込んで言いつのる彼女を女房たちはやんやと持ち上げ続けたが、私はそれを聞き捨てて藤壷のことを考えた。
————あまりに遅い
何か病んでいるのだろうか。しかし産のことがこれほど遅れる病など聞いたことがない。
あいにくあの殿舎とこちらは付き合いがないので事情は一切わからない。
ーーーーもしや......
妙な考えが一瞬浮かび、慌てて首を打ち震った。
そのようなことがあるわけはない。彼女は私には全然かなわぬが、バカということはないらしいし。
————無理無体に?
いや、声も出せぬほど気の弱い女とも思えぬ。彼女にとって臣下はみな格下だ。ふそんな行為があろうとしたなら怒りを露にするだろう。
なんだか知らぬが、ただ遅れているだけに違いない。
何か変わったことがと思いを巡らすと、一つだけあった。
————七月に彼女が内裏に戻った後、妙に音に凄みが出ていた
それまでは程々に上手く雅な音だった。
が、その頃最初の遊びでは、ぬめるような艶を含んだ闇のような音が響いた。思わず座して聞き入った。
その後は優雅な響きに戻ったが、最初の音は白鳥の羽が漆黒に変わったような妖しい美しさだった。
「それは前にも言った通り、女御さまへの対抗心でしょう」
人が少なくなった夜に乳母子に話すとあっさり言われた。
「初めての妊娠は気負うものですよ。ましてや競い合うことこそ正義のここですから、やる気満々で戻って来たのだと思います」
そんなものか。私のようにあまりに高みにありすぎると、そうでない者の心理にはどうしても疎くなる。
「おまけにマタニティブルーも重なって妙な心理に追いつめられたのではないですか。もし多少なりともお気になさるようでしたら、深夜行ってあの辺りに何かまいてきます!」
「いや、いい」
さすがに止めた。
二月の十日過ぎ、御剣を抱えた勅使が内裏を出た。ようやく藤壷の宮に子が生まれ、しかも男子だったらしい。
気にならなかったわけではない。しかし十人目の男宮だ。単なる情報として受け取り、聞き捨てた。
が、それから大して間を置かず、乳母子が凄い勢いで弘徽殿の身舎に駆け込んで来た。
「新参の者がまねをしたらどうする気です」
小言を言いつつ目をやると、彼女の顔が青ざめている。別の女房に目をやって人払いさせると、乳母子はしばし躊躇した後に私に告げた。
「......女御さまが藤壷の宮を呪っているとの噂が広まっています」
「はて。何故に」
彼女は瞳にひどく暗い色を宿すと、すぐ床に額を押し付けた。
「申し訳ありません。わたしのせいかと思われます」
「顔を上げて説明せよ」
額の白粉が剥げて見苦しい。それでもさすがに潤んだ瞳から涙は一滴もこぼさない。
「女御さまが物の怪などを使いだてできると言ったことが拡大解釈された可能性があります。調べてみたところ噂の広がった日がその辺りからです」
「ほう」
「わたしはこれから里で謹慎させていただきます。あの日傍にいた女房たちについても調べていただきたいと思います」
「......不要」
どちらの意味かと問いかける視線に「両方だ」と答えた。
「それでおまえは気がすむかもしれぬが、この私には不必要です」
「しかし」
「人生があまりにイージーモードで退屈していたところです。これからどの者がスパイなのだろうとスリリングな日々を楽しみますから、おまえもつきあいなさい」
「はっ」
乳母子はもう一度床に額をこすりつけた。
私の噂は内裏中に広がった。昨年の試楽の時の言葉も、桐壺の更衣が死んだ時の言葉も引っ張りだされた。懐かしいことだ。
人々はみな陰ではいろいろ言っているらしいが、表面的には恭順の度を増した。
廊を渡る時など特に顕著だ。モーゼ気分を味わえる。
が、主上のもの問いたげなまなざしはけっこうこたえた。
四月に、藤壷の宮は内裏に戻って来た。
連れて来た赤子はたいそう愛らしいらしい。
私は過去を思い出し、口元を歪めた。
今年の夏も暑くなりそうだ。