祝福
麗景殿視点
源氏十八〜十九歳
七月になったばかりの頃、藤壷の宮が内裏に戻って来た。身重になられたと聞いている。ちくん、と痛む胸を抑えたせいか、そのことが不思議に思えた。
————安定する時期になったのはわかるけれど、なぜまだ暑さの残るこの時期に?
もう少し涼しくなってからの方がいいのじゃないかしら。
そう考えること自体が私のひがみなのかもしれないけれど。
よほどご気分がいいのかと思ったけれど、女房たちの話によるとそうでもなさそうだった。
「ご気分はお悪いらしいですよ」
「お腹が少しふっくらとなられたけれど、その分面やせなさっていて」
「でもその様が鬼気迫る美しさだとか......あ......」
つい正直に伝えた女房がうつむく。私は努力してなんでもなさそうに微笑んでみる。
帝は彼女の所に行ったきりだ。こちらにはいらっしゃらない。
寂しい夜をいくつも数えているうち、日差しが強さを失い風の音が変わってきた。ようやく涼しくなってくると彼女の気分も落ち着いたらしい。夜ごとに藤壷で音の遊びをしている。帝も必ずその場にいらっしゃるそうだ。
風向きによってはわずかに聞き取れるけれど心はあまり浮き立たない。
でも、すごくいい音だとは思う。
脇息にもたれてぼんやりとしていると、廂で女房たちが少し小声で語り合っている。
「源氏の君が毎回参加なさっているからかしら。ささやかに合わせているだけなのに素敵に聞こえるわ」
「元から彼、上手だったけれど最近は震えが来る程ね」
「さすがは弘徽殿の方と唯一争うことのできた桐壺の更衣のご子息」
「でも、用があって近くで聞いたけど、藤壷の宮の音も何か......一皮むけたような」
子を宿すと女は変わるのかしら。
秋風が涼しすぎるような気がして、格子を早めに閉めさせた。
秋は好きなのに、ここのところどうしても憂いがちになる。自分のことはもちろん人のことまで考えすぎてしまう。趣き深い音が、切れ切れに響くのも理由の一つかもしれない。
源氏の君は妹の元をめったに訪れない。帝のお召しで藤壷にいることが多いし、空いている日はさすがに奥さまや六条の方に行かなければならない。
間遠な訪れが通常になってしまった。
たまに現れる時はいつも憔悴しきっているそうだ。
理由はわからない。何か悩みがあるらしい。
「お尋ねしないの?」
「彼の負担になりますわ」
妹は少し寂しげに微笑んだが心配そうな私を見ると、急に目を輝かせた。
「でも、絶妙にお綺麗なのです。少し面やつれして何ともいえない色気が滲んで、そこに鬢のほつれが更に艶かしさをアップして、微かな苦みが瑞々しい若さに陰影を添えていて、それはもう、この世のものとも思えませんわ」
彼女はうっとりと視線を宙に向ける。
「その方がこの私に『おかげで充電できた。ありがとう』なんておっしゃるんですよ。もう、私、人生に勝ったも同然だと思っています」
彼女本来の明るさを見せてにっこり笑い、夕暮れまでに戻らなければと邸の方へ帰っていった。
「三の君さまはああおっしゃいますが」
「いえ、本当に最近の源氏の君は恐いほどお美しいですわ。たまに行きちがうと天人が下りて来たのではと思ってしまいます」
「その上浮いた噂は意外に少ないし」
「たった一夜の恋でいい、いえ壁どん一回だけでいいからと壁代を整えて待っている方だらけですのにね」
実際お忙しいのだと思う。十月の十日過ぎには帝がお父上である上皇のいらっしゃる朱雀院に行幸なさるので、そのための舞の練習もあるし。それに少ないとは言われても、奥さまや六条の方の他に通いどころがないわけではないと思う。
「亡くなった常陸の宮の邸の辺りから出てくる所を見かけた者がいます」
「春の頃から、普段より愛らしい薄様を取り寄せていらっしゃると聞きました」
少し探らせると気になる噂がいくつか出てきて後悔した。聞いたって仕方がないのに。
気をもみながら過ごしているうちに帝が行幸のための試楽(予行練習)に誘ってくださった。
「女の方はあちらにご一緒するわけにはいかないけれど、せめて雰囲気だけでも楽しんでいただこうと思って」
「まあ嬉しい。楽しみですわ」
「見所は光と頭中将の青海波ですね。四の宮も踊るらしいです」
「承香殿の女御さまの皇子さまですね」
「そうです。上手くいくか心配です」
珍しく光君以外の子にも親らしい態度を見せた。
そう。もともと優しい方なのだ。今はお目に入るのは藤壷の宮だけでそのために企画した試楽なのだろうに呼んでくださるほど。
御引直衣の長い裾が遠くに消えて行くのをずっと見送った。
試楽のその日は気も光も、洗い清めたように澄みきっていた。
楽師の腕や舞人の質に女たちは厳しかったけれど、時が来ると静寂が支配した。
清涼殿の東庭に頭中将と源氏の君が現れる。
楽の音が響き始めた。「青海波」が舞われる。
左大臣のご子息の頭中将は、見た目も心ざまも際立った方だ。若手の中でも特に優れている。
だけどそれでも、光君の足下にも寄れない。桜の傍らの深山木でしかなかった。
夕暮れの光が彼のためだけに射す。
翻される袖が青い海原の波となる。
白砂が全て波頭と変わり、その上で人ならぬ者が何かを招く。
豪奢な金の光と闇............え?
慌ててまばたきした。集中しすぎたせいか、中心にいる彼を闇が取り巻いたように見えた。
もちろんそんなわけはなく、まだ暗くはなっていなかった。
「恐いくらい綺麗でした!」
「エラい人みんな感動して泣いてましたね」
終わって殿舎に引き上げても、まだみんな興奮していた。それでも日常の用は変わらないから、早めに退室した女房たちがいたけれど噂を抱えて帰って来た。
「速報、弘徽殿の女御さまが問題発言です!」
「『鬼神にでも気に入られそうな姿だ。禍々しい』とおっしゃったとか」
「縁起でもないです」
彼女たちは眉をひそめた。否定的なトーンで語られるが私は別のことを考えた。
————誰がそれを伝えたの?
以前聞いた彼女の、桐壺更衣の死後の激しい言葉は人の行き来する頃合いに大声でおっしゃったらしいから広まっても仕方がなかった。
「誰から聞いたの?」
「別の殿舎の女房です」
「もう噂になっていて、最初に話した人はわかりませんが」
なんだかキナ臭い。おのれの主人のマイナスな発言をライバルでもある他の場の女房に伝えるなんて。
私は不安になって視線を巡らせた。すると胸元で両手を会わせて仏さまでも拝むようなポーズをとったまま恍惚としている妹に気づいた。
————これはほっておきましょう
結局妹が解凍するまで半日ほどかかった。
行幸も無事に終わり、その華々しさが人の口に乗って運ばれて来た。
源氏の君は後々まで語り継がれるほど美しく、帝は彼のために特別な祈祷をさせたけれど、無理からぬことと人々は納得した。ただ一人を除いて。
「弘徽殿の女御さまが『バカバカしい、やり過ぎでしょう』とおっしゃったと評判です」
何も気づかぬ女房たちは平気で教えてくれるけど、「あなたたちも陰では私のことdisったりしているの?」と尋ねたくなる。
そんなことはないと信じているけれど。
私はそんな風に揺らいでいるのに妹はとても強い。更に増えた噂にも毅然として眉をひそめることさえしない。
「あら、姫さまもご機嫌よろしくて」
とある女御に仕える女房が、測るような目で几帳の隙から妹を眺めた。
源氏の君との噂はほとんど広がっていない。彼女のよさなど何もわからない人たちが低く見積もりすぎるためだ。それでもたまに囁かれ、否定される。
「ええ。ありがとう」
「ところで源氏の君のお噂はお聞きになった? いえ、行幸のことじゃありませんのよ」
「いいえ。なんでしょうか」
「最近あの方、謎の姫君をお迎えになられたとか。よほどお気に入りらしく三条(左大臣邸)にも六条にも足が向かないとか」
ちら、と横目で妹を窺うけれど、彼女はにこにこと邪気のない顔で相手を見返した。
「まあ、それはよかったですわ」
「へ?」
「今年は調子を崩しがちでいらしたのにこの間の大役でしょう。おくつろぎになることができたと聞けただけでも嬉しいですわ」
妹の本心はわからない。賢くて優しい彼女だから私のことを心配したのかもしれないし、意地を通したのかもしれない。
その女房も首を傾げながら帰っていった。
藤壷の宮が里下がりをした頃に、冬の寒さが厳しくなった。長く離れた邸が心配になって、私も少しだけ里に戻った。
全てを包み隠すように雪が降り、りんと張りつめたような冷気の中で運ばれた炭火が赤く燃える。
雪に埋まりかけている橘の木を家人に払わせていたら早朝にも関わらず源氏の君がいらっしゃった。
「こんなに早くどうなさったの?」
先にこちらへあいさつに来たので笑いながら尋ねると、なんだかちょっと呆然とした顔で、「ひどく珍しいものを見てしまって動悸が収まらないので」とおっしゃる。
「あら、何かしら。お聞きしてもいい?」
「いえ......相手方に失礼なので言えないのです。いやもう、赤い花を見たとしか」
なんだか謎のような言葉を残して、すぐに西面の妹の所へ行ってしまった。
そんな風に間遠ではあるけれど、訪れは完全には途絶えることはない。麗景殿にもあいさつに来てくださる。
正月の後いらした時に何気なく尋ねてみた。
「もしかして、三条の藤壺の宮(三条には左右大臣邸、藤壺邸などがある)にもごあいさつに行かれた?」
彼は驚いたようにこちらを見て、それからうなずいた。
「ええ。こちら同様幼い頃から親しくしていただいているので」
「宮のご体調はどうなのかしら。季節に合わせて用意したお祝いの時期がずれそうだわ」
彼女のお産は十二月に予定されていたのにずいぶんと遅くなっている。
彼は身近に赤子を見たことがないためか困惑の態で「......物の怪のせいでしょうか」と小声で言われた。
「もうそろそろだとは思うけれど、ご様子は?」
「............女房を通しているのでわかりません」
「そう。無事にお生まれになるといいわね」
源氏の君はと惑ったような顔で私を見た。
彼は少し震えわずかにうつむき、感に堪えぬようにまた顔を上げた。
「............あなたはいつも心優しい」
「あら、なんのこと?」
「まだ生まれぬその子にさえも」
私はきょとんと彼を見つめた。
「誰でも同じことを思わなくて?」
もっと若いうちだったらもっと辛かったし今だってちくり、と胸が痛む。だけどもう、その子は生を受けるべく彼女に宿ったのだ。私を選んでくれなかったのは残念だけど、健やかに生まれることを期待するのは当たり前だ。
「まさか。他の方はそんなこと思いませんよ。あなたはその子に最初の祝福を与えたのです」
「まあ。大げさすぎますわ。それに帝をはじめみな心から祝っていらっしゃるでしょう」
ライバルである後宮の住人としての意味かもしれない。
源氏の君は優雅な微笑みを見せた。美しく、少し寂しげな。
もしかしたら亡くなられた母上のことにでも思いをはせたのかもしれなかった。
一月は静かに過ぎた。藤壷の宮のお子さまは、まだ生まれない。