young violet
源氏十八歳
山里の桜は風に乗って流れ、髪や衣にそっと落ちてくる。少しだけ気をとめるけれどすぐに目を離し、小柴垣の内を走って南面にたどり着いた。
「外に出ては行けないと言いましたのに」
少納言の乳母が困った顔をするのを聞かないふりで、階を駆け上がる。
「おばあさま、お花あげる!」
見舞いのために選んだまだ散らぬ美しい桜を枕元に置くと、説教される前に部屋を飛び出た。
行き先は犬君の所だ。自分以上にやんちゃな問題児で、本物の子犬のようにはしゃぎまわる。
「姫さま、こっちこっち!」
ささやかな渡廊の上で犬君が手を振る。そちらに向けてスピードを上げ、飛びついた。
体格の変わらぬ彼女は受け止めたけれど尻もちをつき、それがおかしくて二人で笑った。
「ちゃんと止めてよ」
「あたしじゃ無理です。この間のイケメンにでも頼んでください」
亡き按察使大納言の孫の幼い姫君は少し頬を染める。都を離れたこの地はやたらに坊主ばっかりで、ただでさえ身分のある若い男は少ないのに、この間京でも見かけたことがないほど美しい青年を見た。
今までは世の中で一番美しい男は、めったに会えない自分の父だと思っていた。兵部卿の宮であるその方は確かに女房たちの夫などと較べると段違いだが、それでもその源氏の君とか言う男の足下にも寄れない。
女房が「あの方のお子になったらどうですか」とからかった時うなずいてしまった程だ。
それ以来ままごとでも絵を描く時でも『源氏の君』を活用している。
「あの方ほんとに姫さまをほしいって言ってるんですって」
犬君に言われて嬉しいのとはずかしいので更に頬を赤らめる。
そんな様を面白そうに見ていた彼女はふいに声をひそめた。
「でも、気をつけてくださいね。男の人はどんなに優しそうに見えても恐いらしいです」
「え、あの方は別だと思うわ」
楽を楽しむ姿を見たが優雅で美しく、人としての悪意など欠片もなさそうに見えた。
「いいえ、安心はできません。男は女をさらったり、もっとひどいことをしたりするんです」
「さらうよりひどいことって?」
犬君は更に声をひそめた。
「大人が話すのをこっそり聞きましたが......こかすんだそうです」
「え? こかすって?」
「あたしもよくわかりませんが、いきなりひざかっくんをしたり、走ってる時に足を引っかけたりするんじゃないでしょうか」
それは恐ろしい。転ぶととても痛い。
「あんな優しそうな人でも?」
「そうです。あたし、それを避けるまじないまで聞きました」
「どんなの?」
「こうやって両手を胸の前で組むんです。そして相手を睨みつけて『わたしをこかすつもりでしょ! エロ草子みたいに! エロ草子みたいに!』って言うんです」
「エロ草子ってなに?」
「わかりませんけどなにか悪いものだと思います」
大人の世界はわかりにくい。二人はそろって肩を寄せる。
「......行かない方がいいのかしら」
「あたしたちには決められませんからね。でも、姫さまが行かなきゃならない時は、あたしも絶対行きます」
犬君は珍しく真面目な顔で相手を見つめた。姫君はほっと胸を撫で下ろした。
「絶対に約束よ」
「モチロンです」
固く誓った二人はすぐに飛びかう花びらに気を移して遊び始めた。
祖母君はどうにか調子を取り戻し都へ戻った。外に出ることは一切禁じられたけれど山奥よりも邸が広いので紛らして遊んでいる。
時たまお使いに出る犬君が町の様子を教えてくれる。
訪れる人の少ない地味な暮らし。鬱蒼と茂る木々が影を落とす。手を入れない邸も荒れている。
「ここと違って外はにぎやかなんです。物売りもいるし、人も多いし」
「私も行きたいな」
「日焼けするからダメです」
止められて口を尖らすが薄々あきらめてはいた。自分はお姫さまという立場なので走ったり外に出たりはふさわしくない。わかってはいるけれどつまらない。
それに今、邸の空気は重い。祖母君はまた病が篤くなっている。数少ない女房たちは看病に忙しくてあまりかまってくれない。
夏は過ぎ秋が訪れた。何も起こらない。
その秋も過ぎかけている。
夜は木立の影がいっそうもの寂しい。
祖母君の病はますます悪い。
やわらかな少女の心にも影が忍び込む。
誰も彼もが自分を置いて去っていってしまうような気がする。
そう言えば父宮さえめったに訪れない。
父には別に家庭があってそこには他に女の子もいる。
自分はいらない子なのだ。
そう思うと少し涙が出た。
が、ぱたぱたと聞き慣れた足音がしたので慌てて袖で涙をぬぐった。
「姫さま! イケメン来ました!」
え、と驚いて犬君を見返す。
彼の人は稀に使いをよこしていたらしいが自ら訪れたことはない。最近ではその使いさえ絶えがちだった。
祖母君の寝ている北の対の南廂をかたづけてそこに通したらしい。
姫君の顔が輝いた。自分も嬉しいし、おばあさまは彼を見ると気が引き立つ。
すぐに立ち上がって祖母の元へ駆けた。
「おばあさま、お山のお寺にいらした源氏の君来たんですって。ご覧になった?」
戸を開けながらそう言うと、女房たちがあちゃー、という顔で自分を見る。「お静かに」と叱る者もある。
ちょうど「もう寝ました」と伝えたばかりだったのだ。
姫君は無邪気に言いつのる。
「だってあの方見たら気分が良くなるって前言ってたわ」
全員困って顔を見合わせている。源氏だけが笑いを呑み込んだすまし顔で、礼を示してその場を辞した。
次の日も源氏の君から見舞いの文が届く。中に恋文のように結んで姫君あての和歌も入れてある。わざと子どもっぽく書いてはあるが素敵な字なので、彼女の手習いのお手本にすることにした。
ただし日常は落ち着かない。祖母君がますます悪くなり、また山寺に戻ることになったのだ。
移ってあまり日のたたぬ九月の二十日頃、祖母君は亡くなった。
悲しみと不安で織ったような日々。山を彩る紅葉もモノトーンに見えた。
犬君もさすがにはしゃぐこともなく、もの寂しい秋の終わりだった。
帝の朱雀院への行幸が世評高く噂される頃も、笛の音の代わりに山奥で経読む声を聞いた。散りはてる紅葉の傍で忌の期間をすごした。
都へやっと戻ったけれど、いつの間にか女房の数さえ減っている。先のない勤め先として見捨てられたのだ。
犬君や少納言の乳母はいてくれるが、それもいつまでかはわからない。父宮に引き取られることが決まったからだ。
「お父上はともかく、北の方はものすごーく恐い女だって評判ですよ」
「姫さまの母上もその人にいじめられたんですって」
子どもたちが心配そうに囁いてくる。屋根のない渡廊で姫君がうつむいて聞いていると、いきなり頭上を影がよぎった。
「わあ! 誰か止めてえ!」
木の枝に縛った荒縄をつかんだ犬君が弧を描いて高く上がり、また後ろに振り下がった。驚いているとぼきりと枝が折れ、犬君の身体は投げ出された。が、運よく苔に覆われた築山に落ちた。
「いったあ!」
「大丈夫?」
「モチロンです」
ちょっと涙目になりながら這いずるように近づいてくる。他の子は何となく後ずさった。
犬君は腰を撫でながらにっ、と笑った。
「あたし、ほんとについて行きますから」
「?」
「どんな鬼婆がいても、どこにだっていっしょに行きます」
彼女は照れたように笑い、悲しげな姫君の口元もほんの少しほころんだ。
それでもその夜、打ち身が痛かったためか犬君が早めに下がってしまうと祖母君のことを思い出したりして涙ぐんでしまう。すると他の子どもたちが「直衣を着た人が来ました。父宮さまではないですか」と伝えに来てくれた。
姫はがば、と飛び起きて母屋の方に走った。
「少納言。直衣着た人はどこ? おとうさまいるの?」ととても可愛い声で尋ねると、若々しい男の声が「父宮ではありませんが他人扱いしてはいけない人ですよ。こちらへ」と言う。
あ、この間のイケメンだ、間違っちゃったと姫君はごまかそうとして乳母へ近寄り「ねえ行こう、眠たいし」と声をかけた。
「今更隠れなくても。私のひざの上で眠りなさい。もうちょっとこっちへ」と源氏は微笑む。
乳母は焦って「こんな風なんですよ。ほんとお子ちゃまで」と幼さをよく見せようと彼の方に姫君を押した。すると彼はひょい、と姫の衣に手を入れて着込めてある美しい髪を撫で小さな手を握った。
知らない男の人がこんなに近くに来るのはイケメンでも恐い。ましてや身体に触れられた。
「寝るって言ってるのに」
と慌てて奥に戻るのを彼はついて来てするりと入り込み、
「今はあなたのことを一番大事に思っているのは私ですよ。嫌わないでくださいね」と言う。
乳母は気まずい顔で「困りますわ。ちょっとひどくありませんか。何もわかっていませんのに」と言いつのるが源氏は気にしない。
「こんなお子ちゃまに何もしませんよ。世界で一番の私の心をよく見てください」
折しもあられが降り出して、外の気配も凄まじい。源氏はそれをちゃっかりと利用する。
「こんなに人が少なくて心細いのに、どう過ごすつもりなんですか」と同情の涙を拭いてみせ、
「恐いような夜だから格子を下ろしなさい。私が宿直しましょう。皆さんもお近くへ」とずうずうしくも御帳台の中へ入り込めば、女房たちも「これはヤバい」と真っ青になる。
少納言も「エラいことになった」と青ざめつつも、高貴の人なので騒ぐこともできない。
姫君は「何されるのかしら。こかされるかも」と恐怖のあまり鳥肌を立てて震えている。
「さ、お着替えしましょうね」と源氏は姫に単衣だけを押し包むように着せて寝かせると優しく話しかけた。
「ここじゃなくて私の邸にいらっしゃい。面白い絵もたくさんあるしひな遊びもできますよ」
姫君は彼の優しい声にそれほど恐くはなくなった。後のチョロインの起源である。だけどさすがに慣れないので眠ることもできず風の音だけを聞いていた。
「結局なにかされたんですか」
「なんにも。お話だけ」
「今日はお父上が来ましたよね。昨夜のこと話しましたか」
「ううん」
姫君は首を振った。
「話したらあの人、叱られちゃうかもしれないし」
「イケメン無罪ですね」
犬君は難しい言葉を使う。
「黙ってたってことは姫さまもイヤじゃなかったってことですか」
「よくわからない」
あまりにも突然だったし、身分の高い人だし、大人の男の人だから抗ってもムダだろうし。
「源氏の君ね、とてもいい匂いがするの。お着物にそれが移ったから、お父さまがいい匂いだってほめてくれたの」
犬君は黙って聞いている。姫君はそのまま話し続けるが、頬の線が以前よりも細く、上品な美しさだ。
「でもお父さまはおばあさまのこと悪く言うの。心配してくれるのはわかるけど」
それに寂しさをわかってくれたと思ったのに夕方になったら帰ってしまった。
「お迎えはいつ来るのですか」
「明日かな。あさってかも。お父さまは好きだけど......行きたくない」
「なんとか断れるといいですけど......あ、誰か来ましたよ」
現れたのは源氏ではなくその使いの惟光だ。どうやら彼は仕事で来れないらしい。
「がっかりですわ。冗談であっても共に過ごしたのにこんな風で」
「父宮が聞いたら私たちが叱られますわ」
「黙っていましょう。皆さんも漏らしちゃダメですよ」
少納言が念を押す。女房たちは一斉にうなずいた。
いよいよ明日、父宮が姫を迎えにくることになった。
少納言の乳母は恐いと評判の北の方やその子どもたちに侮られまいとせっせと姫君の晴れ着を縫っている。
慣れぬところへ行けば興奮して眠れないだろうと、姫君は早めに寝かせてある。
そこへ、妻戸の鳴る音が響いた。わざとらしい咳払いの声も聞こえた。惟光だ。彼女はむっとした顔のまま戸を開けに行く。
「殿がいらっしゃった」
文句を言われる前に釘を刺すが彼女は刺々しく答える。
「幼い人は眠りましたよ。なぜこんなに遅くに」
どこかの帰りのついでかしら、と彼を見るが後ろから入り込んで来た源氏が答えた。
「兵部卿の宮の元へ行く前にお話ししようと思ってね」
「きっとはきはきお返事しますわ。眠っていますから」
皮肉を言うのにかまわずに源氏は奥に行く。人々が止められないのをいいことに、無邪気に眠る姫君を抱き上げた。
寝ぼけた姫が「お父さまがお迎えにいらした」などというので「お父さまの使いですよ」と平気で大嘘をつく。
姫君は目を見開いて、思いっきりビビった。
「そんなに怖がるなんて残念ですね。私も父宮と同じく人ですよ」
と抱いたまま外に出れば、少納言の乳母や大輔と呼ばれる女房が真っ青になってついて来る。
「ここは来にくいので気軽な場所に。父宮の所に行ったら様子も聞けないし。誰か一人、ついて来なさい」
源氏がぬけぬけと宣言すると少納言がいっそう青ざめる。
「あちら様がどう思うか。今日は折りも悪いので、わたくし共のためにもまたの日に」
必死に言いつのるが源氏はかまわず、「じゃ、後から来なさい」などと言う。
姫は脅えて泣いている。
止めることもできない少納言は縫いあげた姫の衣を持ち慌てて自分も着替えて源氏の牛車に乗った。
源氏の二条院は近いので、明るくなる前に着いた。
普段は使ってない西の対に車を寄せて、姫を軽やかに抱いて下りる。
「惟光、帳台や屏風を用意してくれ」
「はいはい」
東の対から運ばせて仕度が整うと、源氏は姫を抱えて御帳台に入った。
姫は気味が悪かった。異様なまでの美しさを持った男の異常な行動に震えていたが、声を上げることもできなかった。
ーーーーきっと、今度こそこかされる
今は横になっているが、そのうち立たされてひざかっくんをされる。必死にまじないを思い出そうとするが思い出せず、ただ腕を交差させてわが身を抱く。
「少納言のとこに行って寝るの」
おそるおそる言い出すが相手は軽く受け流す。
「もう大きいんですから乳母といっしょには寝ませんよ」
それなら一人で寝たい。でも聞いてくれそうにもない。姫君は泣き出した。
源氏はその髪を優しく撫でて慰めている。
朝日が差し込み始めると、邸は趣きある風情で美しく、庭の白砂も玉を重ねたようだ。けれど姫はまだそれどころではない。
昨夜眠れなかった源氏は日が高くなってから起きだした。
まだ衣をかぶって横になったままの姫君に「女房がいないのも不自由ですね。夕方こちらに呼びましょう」と言ってくれたのでほんの少し安心した。
更に可愛い女童を四人ほど呼んでくれた。
「心配させないでくださいね。悪い男はこんなに親切じゃないでしょ。女は素直なのが一番ですよ」
とさっそく刷り込みを開始する。素敵な絵やおもちゃなどを持ってこさせて籠絡に励む。
ようやく姫も落ち着いて、東の対に戻る源氏を見送ることになり、手入れのいい庭の木立や池などの景色を見てさすがに感心する。
————男の人もいっぱいいるのね
用事を果たすために急がしそうに出入りする殿上人の姿も珍しく、屏風絵なども目を楽しませる。
源氏が姿を消した後も、言い含められているのか女童たちが敬意を込めて話しかけてくる。
————素敵な所だわ。でも......
と姫君がまた不安に捕われていると、微かな声が床下から響いた。
「............姫さまあ」
「なに、あの声。気持ち悪い」
女童たちが眉をひそめるが、姫君はばっ、と御簾内から飛び出した。
慌てて女の子たちも追いかける。
「姫さまあ!」
「犬君っ!」
孫廂も越えて高欄の元へたどり着く。そこへがたがた震えながら邸の下から貧相な少女が現れる。
衣は露に濡れ埃にまみれている。髪はなんだかそそけだっている。綺羅綺羅しいこの邸にはひどく不似合いな姿だ。
「どうして、ここが?」
「あちらに牛車が着いたとき、こりゃあヤバいかもと思って隙見て牛車の屋根に登っときました。姫さまが連れ込まれる場所を確かめて、こっそりここへ忍び込みました」
この寒い冬の一夜、大変な思いでついて来てくれたのだ。
涙がじわじわあふれ出す。
「犬君......」
「言ったじゃないですか。ついて行くって」
普段走ったりすることなどないので、ようやく追いついた女童の一人が犬君を見て呆れたような声を出した。
「なに、この子? すっごく汚い」
姫君はきっ、とその子をにらんだ。
「ひどいこと言わないで! この子は私の一番の友達よ」
犬君がにっ、と口元を緩め、誇らしげに自分の親指を立てた。