白露
源氏十八歳
弘徽殿視点
「.........夏を一人で過ごしたくないのです」
青ざめた顔で主上がつぶやいた。
確かにこのごろ彼の周りは精彩に欠けている。春先は源氏が病んでいたし、四月からは藤壷の宮が里下がりした。
が、それもこの私がいない時のことだ。弘徽殿は変わらず気合いと勢いに満ちているし、呼ばれたらこのようにわざわざ足を運んでやる。不満を持つ方が間違いだ。
「花橘が終わったら麗景殿さんだって里に戻っちゃうのですよ。毎年のことだから止められないけど」
「他にお慰めする者はいます」
「青衣の女御は亡くなったし、その他の人は......弘徽殿さん! あなたは里に戻ったりしませんよね!」
急に私の手をつかんだ。複雑な気分だが突き放そうとは思わない。
「そうお望みなら」
「もちろんです。暑っくるしいなんて思ったりしません!」
あたりまえだ。
夏の終わりにあの女は逝った。当初主上はその日を一人で過ごすことが多かったが、さすがに時が経ち喪失の記憶をただ呑み込むことが辛くなったらしい。
源氏が来てからは彼を、更衣によく似た藤壷の宮が入ってからは彼女を呼ぶようになっていた。
だけど源氏は左大臣家の婿となって手元を離れ、藤壷は相づちこそ打ってくれるらしいが当人の記憶はまるでない。
それでもまだ例年はよかった。今年はその形代たる女さえ傍にはいない。
「三の宮でもお呼びになればよろしい。なかなか芸事には腕を見せるそうではないですか」
源氏の次に生まれた男宮をあげた。趣味的なことに巧みで特に楽の腕はなかなかのものらしい。主上は顔をしかめた。
「筋は悪くありませんがあなたと較べれば足下にも及びませんよ」
当然ではないか。
「でもいいですね。暑い盛りに音の遊びはあまりなかったけれど、納涼のために夕暮れから夜にかけて企画してください」
「私が、ですか」
「そうです。それなら麗景殿さんも里帰りをやめるかもしれないし、そうだ、本当に三の宮も呼びましょう。あなたの妹君と結婚していますから声はかけやすいでしょう」
妹の三の君が婿としている。
「わかりました。もう一人声をかけたい宮がいます」
「誰のことですか......ああ、八の宮ですね」
母を亡くした哀れな宮だ。以前も呼び寄せたことがある。
「あの子も年の割には上手ですが、今回は見学だけさせましょう」
場所は弘徽殿と決まった。
その件があったので妹の三の君を呼び寄せるとおっとりと現れた。わが一族の中でも特に温和な性質だ。
「わかりました。あの人も喜びますわ」
にこにこと指を折って日にちを数えている。ふと気になって尋ねてみた。
「まさか! 不満などあるわけがありませんわ」
年下の、しかもさして華やぐでもない親王と暮らす彼女は、妹たちの中でも四の君と並べ称される美しさだ。
「それどころか一番幸せだと思っています。ほら、最初は反対されたじゃありませんか」
ミドルティーンの親王に言い寄られていると聞いて最初右大臣たる父は大反対した。私も親王なぞこの先落ちていくばっかりだと思って賛成はできなかったが、異腹の妹であるゆえ口は挟まなかった。
「でも彼、凄く素敵な歌をくれるし、容貌はともかくセンスは皇子の中でも一番だと思っています。だからどうしてもこの方と結婚したくて、もう、いざとなったら駆け落ちしようかとさえ思いました」
長々ともめたが、ついに父が折れた。ああ見えてなかなか子ぼんのうなのだ。
「ずっと断られていたから許された時あの方はさんざん泣いて......それからずーーっとラブラブなんです」
少し爆発してくれてもかまわない。
宵の薄闇の中で音を磨いていると主上が渡ってきた。予定したプログラムを聞いて無茶を言う。
「でも夏なんだからやっぱりアップなテンポでビビッドな曲を入れましょう」
私は呆れて爪を置いた。生な視線があてられる。
「そんな曲がありますか」
「あります。いつかあなたがあの人と琵琶で弾いてくれた曲です」
古い記憶だ。もう誰もが忘れたはずの。
「......なぜ今、過去を起こそうとするのです」
眠らせてやってほしい。それが一番の供養のはずだ。
「そんなつもりはありませんよ。ちょっと懐かしく思い出したいだけで」
苦い笑いを浮かべて彼は私に視線を向ける。
「あなたはあの人の音を招くことができるのでしょう」
.........いつ気づいたのか。亡くなった年の秋? いやその時は不快を示したと聞いている。
「なぜそう思うのですか」
今度は明るく微笑んだ。
「あの人の音が消えてなくなるわけがありませんよ。あんなに素晴らしいのに」
瞳の底に潜むわずかな狂気。もう、あの女と生きた時よりも長い時を過ごしたというのに。
「......と、言うわけでご協力願いたい」
源典侍は目を点にした。
「わたしが桐壺の更衣のパートをやるのですか?」
「いえ、私の箇所をお願いします」
彼女はあんぐりと口を開けしばし固まったあと凄い勢いで袖を振った。
「そんな恐れ多いこと。絶対に無理ですわ」
「主上からの依頼です」
源典侍は困惑した顔のままでうなずくしかなかった。
「あの方の扱いは以前でわかっていますけれど、それにしてもお若いですわね」
源典侍の年はもう還暦近いはずだ。
「まだ、メインの恋人の修理大夫はキープしたまま、時にブラックホールのように若い殿方を呑み込むのですよ。いえ、大抵の場合すぐに吐き出してくれるのですけどね」
「まさかこの人がというイケメンが呑まれます」
「尊い犠牲に無事だった者が手を合わせたりしてますわ」
女房たちがかまびすしい。まああの年でお達者なことである。行状は感心しないが音の響きに艶があるのはそのためかもしれない。
彼女とは別々に練習したが、ある程度固まってから合わせてみた。さすがに長年男たちの管弦に女ながらも加わってきたことがうなずける音である。
賞賛し彼女を帰したが、家人だけになって表した怪訝な面持ちに気づいた乳母子に尋ねられた。
「どうか致しましたか。どちらも見事な演奏でしたが」
「うむ」
私はしばし口ごもり、逡巡したが言ってみた。
「彼女の音はひどく違いませんか」
「は? 上手に女御さまの音を再現できていたと思いますが」
「いや少し荘重にすぎるというか......私の音のとおりに弾くとすれば、もっとガーリーでキュートなオトナ女子感覚になると思うのですが」
乳母子はしばし瞬かずにこちらを見ていたが、合点がいったように頷いた。
「現実の音はそうだとして、われわれは女御さまに敬意を持っております。それがどうしても音に滲むのでしょう。しかしこれはみな共有する感覚ですから、むしろこちらの方がわたしたちには理解できる音なのです」
他の女房たちも頷いている。そうなのだろうか。
「わたしのようなたしなみのない者が言うのもはばかられますが、真実よりもむしろ印象を核にした方がわれわれ一般ピープルにはわかりやすいのです」
「ふむ。納得した」
なるほど。ならば完全に復元した桐壺の更衣の音も、もう少し突き詰めた方がいいかもしれぬ。
悩みつつもどうにか方向性を決めてまた源典侍を呼んだ。
「ただでさえ通常とは相当に異なる曲ですのにサイド・スリッピングを取り入れたアウトサイド奏法を組み込むと言うのですか!」
「弦飛ばしも入れるつもりです」
彼女は心の臓の辺りに手をあてた。
「無理です」
「いえ、あなたならできます」
私は彼女を見据えた。
「他の者にはできない。でもこの内裏の中であなたと私だけはできます」
本気だった。彼女はしばらく躊躇した。私は言いつのった。
「あの女が生きていたとして、あの曲を全く同じように奏すると思いますか?」
「............いいえ」
源典侍の瞳の奥底にごく小さな焔が揺れる。それは有能な職業人としての彼女でも、有名な恋の狩人としての彼女でもなく、純粋に音を愛しそれを楽しみ追求したがる本能だ。
彼女はただ色めいているだけではない。アーティストとしての本性も充分に持っている。
「............やりましょう」
ついに彼女は頷いた。
期日が迫った頃、藤壷の宮の懐妊の噂を聞いた。しばらくなかったことだ。胸がうずいたが聞いたのが今でよかった。練習に必死であまり悩まずにすむ。
「もう四ヶ月ほどですって。お知らせするのが遅すぎるのじゃない?」
「四月に退出したのはそのせいだったのかもね」
女房の声は聞き飛ばした。
当日弘徽殿は人が多かった。身舎の奥に主上と東宮の座を作り私と源典侍も近くに場を取った。そこと仕切って廂には妹たちの席も作った。その片端に、几帳で囲んだ八の宮の席も用意してやった。
御簾で隔てた孫廂には、親王と殿上人の席、欄の下の白砂には伶人だ。承香殿の女御が息子の四の宮の見学を申し込んできたが、今回は遠慮願った。
「あの宮は楽よりも舞が上手いらしいですよ」
「今回は音だけですからね。麗景殿の方さえ開け放ってあちらでお聞きになるそうですし」
「このために早く戻られましたね」
女房たちが囁いている所に三から六までの妹たちが押し寄せてきた。
「お姉さま、もしうちのダーリンがデビュー戦にも関わらず他の方をあまりに圧倒してしまったらごめんなさい」
三の君が涼しげに微笑むと四の君がきっとまなじりをつり上げた。
「それはうちの人のためのセリフだと思うわ」
彼女の夫君の頭中将も和琴で参加する。
「あらごめんなさい。きっとそうね」
穏やかな三の君がすぐに引いたので、四の君は肩すかしを食らって口元を歪めた。
彼女はこの腹違いの姉にライバル心を燃やしているのだが、三の君は気にしていない。その上世間的には左大臣の正妻腹の息子を婿にしている四の君の方が幸せなはずなのに、逆に見える。今も御簾越しに互いの位置に気づいてハートを飛ばし合っている。
このヒョロい若造のどこがいいのだろうと考え、不意に胸を突かれた。
————あなたが私の姫君ですね
「どうしました、母上?」
渡ってきた東宮が優雅に微笑む。父に似た顔で、父に似ぬ笑いで。定められた席に品よく座った。
「いえ、別に」
妹たちは静まり返って帳の影で様子を窺う。そちらへ向かっても彼はにこやかに声をかける。
「みなさんもお変わりありませんか」
彼女たちもあいさつを返す。特に末の妹の声に息子は目を細めた。
「久しぶりですね、六の君。内裏は気に入りましたか」
「はい。もっと気軽に呼んでいただきたいですわ」
この子は容姿も華やかだが声も明るい。東宮は更に優しく言葉を与えた。
やがて主上も姿を現し設えた御座所に座った。穏当な言葉の後ぽろりとつぶやく。
「光が来れなくて残念です」
夏になってから彼はまた体調を崩しがちらしい。若いわりには軟弱なヤツだ。少しはこの私を見習うがよい。
日は暮れかけている。豪奢な茜色の秋の夕べにはかなわぬが、薄い薔薇色が静かに青ざめていく夏の宵も美しい。横様に差し込む黄金の残光も空を彩る。
薄闇が音を包み始める。私は箏を弾いた。過剰さを捨て、いつもより淡い色合いを心がけた。
頭中将の和琴は評判通りなかなかの腕前だ。それと競い合うように三宮の琵琶も見事な撥さばきを見せている。
主上はこの一曲だけの参加と決めて笙を吹いている。凄くいいとは言えないががんばってはいた。
「それでは次は懐かしい曲を弘徽殿さんと源典侍に弾いてもらいますね。伴奏はプロ中のプロに頼みました」
いつの間にか外ではかがり火が燃えている。私は楽器を琵琶に変えた。以前あの女が使った牧馬だ。源典侍も玄象を抱える。辺りが静まり返る。
音なしの滝と呼ばれる伶人が白砂の上で竜笛を構えた。主上の合図で道を開く。
牧馬が走る。同様の形で玄象も駆ける。
曲調は早めだ。あの時のように。
白露は二十四節気の一つの名だ。立秋から一月後、ようやく涼しくなり始めた頃(太陽暦九月七日頃から)のことだ。
秋の初めの過去の遊びはその直前にあった。今はまだ、日が暮れても熱気が残る。それでもこの曲は夏の思い出を含むので違和感はない。
軽やかに。そう心がけて走らせる。ここはまだ完全な復元だ。軽薄なまでにきらきらと光をまとって走り抜ける。
————不愉快だがあの女の心理を引き寄せねばならぬ
音の運びでカンタンにわかる。あやつは、桐壺の更衣はただ単純に楽しかったのだ。
ーーーーじゃあ、おまえは?
何者かに問われた気がする。もちろん私は答えない。玄象の音を聞けばわかることだ。私の愛らしい音とはわずかに違うが、なかなか的を射た解釈をしている。伴奏の音もそれをよく助けている。
そう。何もかも同じとはいえない。右大弁はこの場の端に控えてはいるが参加してはいない。ただ目を潤ませて聞き入っている。時折指が竜笛の形に動く。
感覚が妙に鋭敏だ。見えるはずもないものが全て見える。
音に聞き入る妹たちの姿も、感激のあまりまだ手元に置かれていた琵琶を抱きしめている三の宮の姿も。
主上は鼻をすすり上げつつ泣いている。それにつられたのか几帳の影で八の宮まで涙ぐむ。
頭中将は少し身体をスイングさせている。麗景殿ではかの女御が、ついには立ち上がって身体を動かしている。
息子は微笑んでいた。いつものように優しく。
全て見えていたが同時に指先は決めた通りに動く。完全な速さと完璧な勢いを生み出す。
曲が最初の山場を迎える。違った律を同時に弾く箇所だ。
源典侍は私の色で、私は桐壺の更衣の色で辺りを染める。
かがり火がふいにはぜたように光が溢れる。
が、それでは終わらない。フレーズがミュートする前にチェンジして私は私、源典侍は桐壺の音に入れ替わる。
変わった音のままモティーフをリフレイン。しかしそれは色味を変えてある。この曲に同じ音などつまらない。
謎の楽師蝉丸の作った異端の曲だ。通常のものとは違う。そして私は何十年もこの曲を調べ尽くし、既に蝉丸その人のように壊すことも発展させることもできる。
だが並の者でも楽を愛しているのなら、わかるように変えた。
ついて来れるものはついて来い。
代わりに今この時全てを捨てよ! 音に対して全てを捧げよ!
臓腑がキリキリ痛むほどの緊迫感と、至高の快楽を約束しよう。
夜は昼を誘い昼は夜に応える。
過去はよみがえり現在をいやし未来を招く。
音は舞い歌い飛翔する。
冴え冴えしい月光と燦爛たる日の光が交差する。
音なしの滝に導かれ、私の音と源典侍の音ともう一つ............
主上は話すことができなかった。うつむいたまま肩を震わせている。
僭越ですが、と断って息子が代わりに締めの言葉を口にした。
「素晴らしい演奏でした。この身はこの場にありながら私の知らない過去や異界を訪れたようでした。先の曲もとてもよく合わせていましたが、この度はまず白露を奏してくれた三人に惜しみない賛辞を贈りたいと思います」
それから彼は未だ琵琶を強く抱きしめている弟に目をやった。
「三の宮。君の音もなかなかよかったよ」
彼はふるふると首を振った。
「いえ。もう白砂に下りて平伏したい気分です。そして今すぐ帰って死ぬほど練習するつもりです」
「三の君を嘆かせない程度にほどほどにね。頭中将、あなたの和琴も噂どおりだ」
「私も更に精進するつもりです」
彼もなかなかに強い決意をみなぎらせた。
息子は更に几帳の影の八の宮に目をあてた。
「若い君は感受性豊かだね。今後の指針ができたでしょう。......誰か手巾(平安ハンカチ)を彼に」
「......これを」
三の君の隣にいた彼女と同腹の五の君が、手持ちの手巾を女房に渡した。そのまま彼女は心配そうに、几帳越しに八の宮を見つめている。優しい人柄のようだ。
息子はその父の様子をちらりと見て、そのまま閉会を告げた。
主上はそれでも顔を上げず、黙って肩を震わせていた。