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源氏夢想譚  作者: Salt
第二章
35/89

惑いの夏

源氏十八歳

藤壷視点

 努力しても気が晴れないので三条の宮に戻った。帝は心配してくださるけれどもう限界。長い間ずっと重い心を抱えていて押しつぶされそう。

 弘徽殿の方への怒りを杖にして、他の恨みに蓋をして内裏を歩いていこうと思ったのに、私は想像以上に疲れている。それに刃をどんなに向けようとも、件の女御は気にも留めない。それどころか残念な子を見るようにいたわりの視線を向けたりする。

 当然かもしれない。私はなんの力も持たない哀れな孤児で、敵とさえ思われていないから。


————よそう。今考えてもムダだわ


 懐かしいわが家で、ただ眠りにつく。帝のことも他の人のことも全部忘れて、こんこんと眠る。時鳥(ホトトギス)の声さえ聞かず、花橘の影さえ見ずにただ眠った。


 日ごと、王命婦が憔悴していく。だけど私の心は何も感じない。けして二人きりにならないように気をつけながら昼も夜も眠りにさらわれていった。



「............宮さま」


 突然手を握られてすくみあがった。私は幸福な夢の中にいたはずなのに。元服前の美しく怜悧な少年と微笑んで話をしていたはずなのに。


「ずっとお会いしたくて......」

 涙ぐむ彼はその少年の面影を残しながら、まごうかたなき男だった。

 あでやかで、美しく、危険な............


 理性が私に警告(アラーム)を鳴らす。すぐにこの場から逃げ出せと。

 だけど源氏の君はその腕を檻にして逃がさない。


「.........離して」

「離さない」


 部屋に人影はない。灯りさえも遠くに一つ帳越しに、大殿油が頼りない光を見せている。御帳台にはその反映がわずかに届くだけだ。


「罪です」

「わかっています。たとえ地獄に堕ちようとも後悔しません」

「私が地獄に堕ちるとしたら?」


 もし凡庸な答えを返されていたら見苦しいまでにあがき、大声で人を呼んでいたと思う。たとえこの人の立場が完全になくなり、父帝の寵愛さえ失うとしても。


「堕ちてください.........私のために」


 傲慢な若さが冷酷な美と化し、荒ぶる神のように私を捕らえる。帝の、奥底にとけない氷の張った優しさとは違う奔流のような激しさに流されていく。


 夢かうつつか寝てかさめてか。ぬばたまの闇に隠された一夜は禁忌に満ちていて、私自身の魂は罪の色に染められていく。

 無理に奪われることが辛すぎて、許容の澱みに逃げたくなる。

 わずかな誇りにすがるため、もとから思っていたと書きかえたくなる。

 だけど本当にそうだろうか。

 私の心は混沌としている。

 今ついた嘘。過去の嘘。どれが真実?



「.........夜は短すぎる」


 源氏の君が苦しそうにつぶやく。起き上がりかけてまた私にすがり、なかなか離れることができない。


「会えないなら、夢の中に消えてしまいたい」

「覚めない夢でも噂になるわ」


 どのようなことをしたのかが胸に迫ってきて涙ぐむと、彼はやるせない顔でまた私の手を取った。

 何か言いかけて言えずにいる。

 私も何も言わない。


 人の気配がする。身構えると、幽鬼のような顔をした王命婦が辺りに散った源氏の直衣(のうし)をかき集めて運んできた。



 宿直(とのい)は三人のはずだった。王命婦と弁、もう一人。どのような策を使ったのか二人は遠ざけられていた。


————くもの糸に絡めとられたみたい


 手を尽くして宿直の配置に気をつかってもこのように変えられてしまうのなら私にできることはない。

 王命婦を里に戻すことは可能だ。だけど特に近い立場の彼女をそうしたのなら様々な噂が流れる。推察が事実にたどり着いたら致命的だ。だからそれは選択できない。


 これが宿命(さだめ)かと嘆いてみても虚しさだけが重ねられていく。

 あの人から届けられた文だって見ない。内裏からは参内を促す使いがしきりに来るけれど、応えられるわけもない。

 気分も日に日に悪くなるので、どうなるのかしらと不安になる。そしてはっきりとした体の変化に気づいた。



 暑い日々が続く。

 なすすべもなく日を過ごすうちに女房たちにも知られた。

 湯殿の世話をする弁や王命婦は先に気づいたようだけど、どちらも顔色を変えながら言葉にできない。


「まあ。早くお伝えしなければ」

 中務(なかつかさ)が優しく語りかける。

「初めてで不安になられたのでしょうけれどおめでたいことなのですから。帝もお喜びになりますよ」

「お知らせが遅くなりましたのはもののけのせいとお伝えしますね」

 他の女房たちも動き出した。



 帝の使いは更に増える。

 もう、何も考えたくない。

 ごく稀に源氏の文にたったひとこと返したこともあったけれど全てやめた。



 七月になった。

 鬱々と過ごしていると宮中に出かけていた中納言が戻ってきて噂話を聞かせた。


「源氏の君も夏バテなさっていたのかあまり内裏にいらっしゃらなかったみたいよ」

 心の臓が一瞬止まる。

「まあ、お気の毒に。秋になったからそろそろお元気になられるでしょうけど」

「他には? 変わったことはなかったの」

「弘徽殿の女御さまが帝のもとで管弦の(ゆうべ)を催されて大変な評判だったみたいよ」

 急に動き出した心の臓が大太鼓のような音を立てる。


「他の方々も参加されたの?」

「女君は加わらなかったけれど怜人(楽師)や殿上人はいく人も。あ、源典侍は琵琶を弾いたそうよ」

「あの人上手いの?」

「意外だけど凄く上手よ。なんでも昔、桐壺の更衣と合わせた曲を......あ...」

 私の顔色を見た中納言が黙った。うながして言葉を続けさせる。


「.........弘徽殿の女御さまといっしょに奏されたとか」


 弓が弾けるように体の中の何かが弾けた。私はもたれかかっていた脇息から身体を離し、しっかりと座り直した。


「............参内します」


 悩ましい夏は終わった。

 源氏の子を宿して、四月目に入っていた。



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