六条御息所
源氏十七歳
低く垂れ込めた雲は憂うつな色合いで空を覆うが、散りかけた紅葉が逆らうかのように気合いの入った鮮やかさを見せている。籬の内の白菊も淡い紫に色を変え、朽ち果てる前の儚い美しさを留めている。
手入れの行き届いた庭だが、まるで自然にそうなったかのように整えられている。もちろん無造作に見えるその全てが研ぎすまされた美意識で定めたものだ。
けれど景色は御簾と几帳で隔てられている。奥ゆかしい御息所は、愛しい男を見送る時以外はめったに端近には寄らなかった。
脇息に寄りかかり今にも時雨の降りそうな空を眺める貴婦人は、女房たちの目から見ても艶なる風情で、いったいどこに不満があって情人である源氏の君の通いが間遠なのか不思議なほどである。
否。わかってはいる。重い。重すぎる。もちろん体重ではない。
それは早世された先の東宮の最愛の女君であった過去の立場のせいでも、気にしている七歳の年の差のせいでもない。性格に起因するものだ。
しかしそれを責めることは酷だ。彼女はもとからそんな気質だ。超がつくほどの完全主義者。だからこそ世間の評判も高い。
燃えるような紅葉は静かに地に落ち白砂を赤く染めて行く。六条に住む御息所はそこに埋もれた源氏の君の亡骸を想像してわずかに眉をひそませた。
————いえ、紅葉ならばもっと奥深いところがいい
わずか一本の木では足りない。あたり中が深紅に染まるほどの量がいる。
雪だったらこの庭でもよい。あるいは白萩でも美しいだろう。頃合いは、雪なら揺れるかがり火に照らされる頃がいいし、小さく可憐な萩の花なら夕暮れに立ち上る月の光を受けるべきだ。
————春なら桜。ほんのわずかに紅を帯びた色があの人の膚によく似て、世にも美しい死体になるでしょう
年下の恋人が若くして亡くなったとしたら、その骸を完璧にプロデュースする自信はあった。通常の値を超えた美は必ず毒を含む。彼女はそのことを充分に理解していた。
ーーーーそうなったら、鈍色(薄墨色)の衣に身を包んで永遠に喪に服しましょう
子までもうけた東宮を亡くした時も悲しかったが、少年の美しさと傲慢さをもつ彼を失ったら、自分は胸が張り裂けてしまうと思う。想像するだけで体が震えるのに、魂の奥底の沼のような部分に甘美い陶酔が隠れている。
表情のない白い顔の赤い口元だけがうっすらと笑みに似た形をとった。
女房の一人が家人の伺候を告げに来たのはその時だ。相手の名を聞いて彼女は身を起こした。
「常々言っているように最大限にもてなしなさい。唐菓子を忘れぬように」
自分はむくつけき大男など目にも入れたくもないので更に奥に引っ込む。ただし、なにげない会話にどんな情報が潜むかわからないので声の届く範囲に留まった。
「いらっしゃいませ。お待ちしていましたわ」
「この間から訪れが少し遠くありませんか。お恨み申し上げます」
「ちょうど特別に作らせた唐菓子がありますのよ。召し上がってくださいね」
権高と評判の御息所の女房に微笑みかけられて、猛々しい姿の武士は鼻の下を伸ばす。その様を感じとって彼女は、薄い唇をわずかに歪める。
高貴な女たちには見えないことが彼女には見えた。
女たちの運命は薄板に乗って荒波の上にあるようなものだ。どんなに恵まれた立場にあろうが後見を失えばすぐに波に呑まれる。大抵の姫君はなすすべもない。
六条の御息所も父も夫も失い頼る者のない身の上だ。
並の姫君なら他者の好意にすがるしかなかったはずだ。けれど大臣家に生まれた育ちの良さのためだけではなく、後の中宮間違いなしと言われた彼女の才は、この瀬戸際の状況で更に花開いた。後見なき今も暮らしも優雅さも揺るがすことはなく、都人の敬意を一身に集めている。
それはたやすいことではない。女主人の生活は侮られやすく、荘園の上がりもその財もかすめ取られることがほとんどだ。彼女もひととき同様の目にあいかけた。
世間のつれなさを思い知った彼女は三つのことに気を入れた。
一つは情報。一つは美。そして武力だ。
高貴に育った女たちは武力に目を向けることはない。それは野蛮で品のないもので、父や兄たちでさえ口にすることをはばかる力だ。しかしそれは貴族の華麗な生活をいつも陰から支えている。
武力を操る力は権威だ。普通は後見たる男たちがそれを使って従えるが、御息所にはその残り香しかなかった。
力のなさを自覚した彼女は冷静に、わずかに残された自分の財を磨いた。それは美に対する尖った感覚だ。
彼女のサロンは評判となり殿上人の憧れの場となった。様々な人が訪れる。人が通えば自然と情報が集まる。ある人に取っては無価値なものが時によっては破格の値がつく。しかし彼女はそれを売ることはなかった。
————俗な対応は結局は損になる。敬意は金ではあがなえない
優雅に振る舞いながら、けして手の内は見せない。それでいて狙った標的を逃すことはない。
この武士は彼女の獲物の一つだった。
ああ見えて甘いものに目がないと、雑談の折りに誰かが漏らした。御息所は微かに口元を緩めただけで声さえたてずにそれを聞いていた。
その後間もなく武士は、誇り高く美しい女房たちが自分に向かって笑いかけたことに驚いた。
「いっしょにお菓子を召し上がっていただけません?」
聞き違いかと耳を疑った。たとえ親しい仲であったとしても、この時代の女は男の前でものを食べることなどあまりない。ましてや高雅な奥ゆかしさで知られるかのお方の女房が。
「みなさまにはないしょですよ。でもあなたは甘味に対しての感性が優れていらっしゃるとお聞きしたので」
「もしかしたらそのことを秘密になさりたいかもしれないと思ったので、約束代わりにわたくしたちもいただきます」
「カレシの前でさえこんなことはしないのですよ。でもあなたは特別ですわ」
甘い言葉と甘い菓子で武士はカンタンに落ちた。秘密を共有させたこともよかったらしい。刃をふるう男たちをすべるこの男は、仕える主人に対してよりも六条の御方に忠誠を尽くす。
滞っていた荘園の上がりは、それ以前のものを含めて順調に届き始めた。
当初女房たちはこの仕事を嫌がったが、何事にも慣れるもので今では楽しんでさえいるようだ。しかし御息所自身は時代の美意識から離れることは出来ず、なるべく武士が視界に入らないように努力している。
彼女は繊細な美しさを愛した。あるいは咲き誇りあるいは鮮やかに色味を変えながらも風の一吹きで散っていく桜や紅葉や様々な草木を。はかなく溶ける雪や氷を。月の光や雨の音を。
武力の必要性は理解できても自分の感情を縛ることは出来なかった。
それでも制御は可能だと思ってはいた。けれど源氏の手に身を委ねた時点で理性はひずみを見せ始めた。
直接会うまでは情熱的だった彼が少しずつ冷めていくのを感じている。それは身を切られるより辛い。しかしそのことに気づいていることを知られるのはそれよりも痛い。
すがるものさえなくて不安な心は、書や漢籍にそして和歌にわずかに逃げ場を見出すが、優美な容姿とは裏腹に大変な負けず嫌いの恋人は、ただでさえ先をいく彼女に焦りを覚えてなおさら気重になっている。
冷めていく相手に執着することは見苦しいと、何度心に言い聞かせたことだろうか。それでも彼女は離れることが出来ない。月の光を失うことができないように、源氏の君の視線を手放すことは出来ない。
「生活は絶好調ですけれどあまりお幸せには見えませんね」
「全てが優れた方なのに」
普通なら聞こえないほど離れた場所で、女房たちが心配そうに語っていることが聞こえることがある。
「他の楽しみを用意しましょうか」
「何があるの? 書なんて都一優れていらっしゃるし、読み物も大抵のものはお読みになっているでしょう」
「絵だってお上手でいらっしゃるし。これは姫さまも受け継がれているわね」
「思索的で上品なことばかり極めるから大変なのよ。もっとシンプルなことがいいと思うわ」
「たとえば?」
中将の君が別の女房に尋ねる。
「わたしの身内が内裏につとめているの。そこであの、弘徽殿の女御さまの健康法を聞いたのだけど、どうかしら」
「どんなこと?」
「円座や扇を遠くに投げるのですって」
中将の君ががっくりとうなだれる。
「弘徽殿の御方ならあり得るでしょうけど、うちの優雅なお方さまがそんなものを投げることは想像できないわ」
「品物を投げるのに抵抗がおありなら、ドングリでも拾って来て差し上げましょうか」
気持ちはありがたいが迷惑だと聞いている御息所は思う。
「きっとそんなことはなさらないわよ」
「そうね。残念だわ」
他の女房が口をはさむ。
「お方さまはすばらしい方でわたしたちへいつも言ってくださる言葉があるでしょう」
「ええ。誇りを持てと」
「おまえたちが自分の価値を知り尊重しなければ他者もおまえたちを侮ります、ともおっしゃったわね」
「それは確かに真実なんだけれど、そのプライドは時におもりにならない?」
女房たちが少し困った顔でみつめあう。
「......ないとは言い切れないわね」
「誇りという価値は諸刃の剣になることがあるわ」
そんなことはわかっている、と御息所は言いたかったが声さえ届かぬはずなので黙っている。
「だけどあなただって捨てきれないでしょう」
「自分の範囲内では。でも武士と唐菓子食べるほどには捨てているわよ」
「あれは任務だからむしろ自分を捨てて従う方がプライドじゃない?」
「任務にしてはおいしそうに食べるわね」
少し笑い声が響く。それはほんの少しだけ彼女の心を和ませた。
車宿りの方から見目よい男童が駆けてくる。
「源氏の君がお渡りです。まだ遠くですが前駆の声が聞こえました」
女房たちが素早く臨戦態勢にはいる。六条の御息所は嬉しいのか辛いのかよくわからない顔でゆっくりと身じまいを整えた。
————誇りなんか捨ててしまえばいいのに
こっそりと自分の胸に言い聞かせながら、それが不可能だと誰よりも深く知っていた。
遠くから前駆の声が直接響く。御息所はもう一度散りかけた紅葉を眺め、源氏のために美しい微笑を浮かべて几帳の前で彼を待つ。風がまた、血のような紅葉を一つ白砂の上に運んでいった。