花散里Ⅰ
源氏十七歳
秋はしだいに深まり、ものみな豊かに照り映えているのに、源氏の君の心だけは闇に閉ざされているようだ。
————結局、一人だ
心を弾ませた夕顔の女を失い、手応えある空蝉の女は逃げ水のようで稀に文だけをかわすだけだ。
正妻は変わらず豪華な置物みたいだし、高雅な愛人は重々しくて、くだらない冗談でも言ったら軽蔑のまなざしで撃ち抜かれそうだ。
まだ冬枯れの季節には遠いのに、心の中は冷たい木枯らしが吹いている。凍てつく体を少しでも温めようと身を縮めて震えていると、小さな手が伸びてきて腕のあたりにそっと触れた。
————ああ、また夢を見ている
昔なじみの夢の一つだ。子どもとも赤子とも思える小さな子が、時には一人、時には複数訪れて話しかけてくる。並の者なら恐ろしいはずだが、もの心つかぬうちから見る夢なので怖いとは少しも思わなかった。
「暗いね」「明かりがほしいね」
幼子が二人話しかける。
「最初の明かりをともす人がいないからだね」
「ごめんね」
謝罪の意味はわからない。どうせ夢だし尋ねようとは思わない。わずかに肩をすくめて、許容ではないが責めるつもりもないことを示した。
「明かりが一つもないわけじゃないのにね」
「うん。でも光はあったかくなれないんだね」
いつの間にか闇の中に火が二つ、競い合うように燃えている。どちらもとても美しい色合いだが、彼の目には寒々しく映る。
離れた所に小さな火がありささやかに燃えているが、近寄ると遠くに移ることがわかっている。
燃え尽きた炎の跡。温かな気配がわずかに残っている。未練がましく指先を当てるが、炎が再びよみがえったりはしない。
寂しくなって見回すと、ひときわ輝く美しい青紫の炎に気がついた。走っていって炎をつかもうとするのだが、それは近づけば近づくほど遠ざかる。
————この炎さえ手に入れれば、他はあきらめてもいいのに
「そうかなあ」「そうかなあ」
子どもたちは首を傾げている。欲張りだと言われているようでちょっと腹が立った。
「どっちにしろそれは幻だよ」
「うん。光の傍にはいてくれない」
子どもと話していると心まで子どもにかえるのか、怒りは悲しみに変わって涙がぼろぼろとこぼれた。
小さな手は慰めるように体を撫でてくれる。温かくはないが感触は優しい。
「明かりはもっと増えるよ」
「もう少し温かく感じるのもあると思う。たぶん」
「だけど......大事にしないと消えちゃうんだよ」
「消えにくい小さな光もあるかも」
「うん......すごく強いね」
声が少しずつ遠くなる。どうせまた忘れてしまうと思いながら、涙ぐんだまま目を閉じた。
「まあ。本当に大丈夫ですの」
「ええ、もちろん。今は調子いいです」
そう言いつつ微笑む源氏の君はひどく面やせしていて、それでもその美しさは衰えることなくかえって凄みを増したようだ。
帝の寵児である彼が重い病で寝込み姿を現さなかった間、内裏は火が消えたように寂しかった。やっと左大臣に付き添われてやっては来たもののしばらくは顔見せに留まり、九月二十日頃ようやく全快した。
今、彼が向かい合っているのは麗景殿の女御だ。帝との間に御子もいず心細い立場の方だが、穏やかで明るい人柄で、昔から姉のようにも母のようにも親しんでいる。
優しい声を聞いているうちに、よそのサロンで出た話題を思い出す。育ちのいい上臈女房がちょっと面白い考えを披露してくれた。
「美しさより優雅さの方が上だと思いません?」
「あら、美しさは何よりも上でしょう」
戸惑う女房もいたがうなずくものも多かった。
「そうですね。優雅さは一朝一夕に築かれるものではないですし、価値は上かもしれませんね」
「たまたま顔立ちのきらびやかな下の育ちの者はおりますが、優雅な下人など見たことがありませんわ」
「優雅と言えるのはやはり相当に上の立場の方ですわね」
女たちが納得しかけたとき、また別の女房が新たな意見を述べた。
「でも、わたしは優雅さより上品さの方が更に上だと思いますわ」
「ほう。それはなぜですか」
その時の源氏の君は思わず口をはさんだ。女たちはちょっとどよめき、尋ねられた女房は少し赤くなった。
「......優雅さは人の視線を意識して育ったものだと思うからです」
「ああ、わかる気がするわ。少し生々しい所があるのね」
「ええ。ですが品のよさはあくまで自分自身と向き合う、いえ自分自身を忘れることかしら、とにかく他者を必要としないと思うのです」
面白い考えだと誉めたらますます赤くなり、「げ、源氏の君は上品で優雅だと思います」と言ってちょっと押しが弱くなった。
————麗景殿の方は優雅さより上品さの方が際立つな
きっと幼い時からそんな方だったのだろうと想像してみる。人目などなくともある程度抑制のきく方だったに違いない。
————妹君も同じ雰囲気をお持ちだろうか
彼女の妹の三の君は美しいとの評判を持つ人ではない。幼い頃から姉の縁で内裏を訪れることが多かったので、慎重に隠されてはいるがそれでも噂は流れる。
————姉上には似ていらっしゃらない。そう聞いたことがある。
平安時代は現代以上に人の容姿を気にする時代だ。身分によるカースト以外に、見た目によるそれも存在する。男であっても容姿のいい方が上の立場の者に気に入られやすいし、女房などでも顔立ちのいいものが喜ばれる。
一方身分が高くても容貌に難のあるものは、陰でそしられることが多い。
どうも因果応報の仏教思想に関わりがあるらしい。前世で善行を積んだから身分が高い。もしくは顔がいい。翻っては身分が低い者、容姿の悪い者は前世での行いが悪かったわけだからバカにして当然である。そんな無茶な解釈が普通だった。
「ごあいさつに伺うのが遅れてすみませんでした」
「なにをおっしゃるの。まだそんな顔色をしているのに」
優しく気遣ってくれる声を聞いていると、幼い頃からなじんだ内裏の中でもここだけが自分の里であるような気がしてくる。
だけどその中にほんの少し好き心が混じるのは、慣れた香りの中にわずかに違う匂いが漂うからだ。
たぶん、奥にその妹姫が控えている。
————夏の名残りの香だ
秋も盛りのこの頃に、季節を外れた荷葉を薫くことはあまりない。だけどその香りは懐かしくて、なんだか胸の奥を揺さぶった。
————この夏はいろいろあったし
自分の人生を賭けても悔いないつもりでひたすら燃やすあの人への思い。無理を通しても気品ある態度で遠ざけられた。
それが寂しくて、手応えのある女たちに心を預けて楽になろうとしたが、どの人も魅力はあるのに思いどうりにコトは進まない。
特に今回病みつく原因となった女性との別れは辛かった。自分がどれだけ女人の優しさに飢えていたのか思い知らされた。
季節外れの夏の香は、地味だけど求める優しさをほんのりと感じさせた。
麗景殿の女御のもとから下がって仕事に戻り、雑事をこなしているうちに父である帝に呼ばれた。他の誰にも見せないような思いやりを一身に受けているうちに夜が更けたので、左大臣邸には戻らずに桐壺の宿直所へ泊まることにした。
————あの方は今宵も父の元へ行かれるのだろうか
息が苦しい。自分に甘く大好きな父なのに、負の感情を抱きそうになる。そんな自分がイヤで、でも心の鬼が肥っていくのを止められなくて、表情さえ荒んでいく。
さすがにこんな顔を女房たちにも見せたくなくて、桐壺前の宣耀殿の裏の東廊に立ち止まって心を抑えようとした。
と、そのとき微かに夏の香がした。
源氏の君はその匂いに引かれるように少し戻ると、宣耀殿と麗景殿の間の廊に檜扇を広げた女性が立っているのが見えた。
素早く宣耀殿の陰に隠れて様子をうかがう。その人は月を見ているようだった。
髪はあまり長くない。特に艶があるでもなく量も多い方ではない。扇を握る手はまだ若いけれど装束も地味な感じに見える。
————だけど温かな色合いだな
朽葉の色をはっきりと染まった黄色が受け止めていて、普通よりも優しい色合いに見えた。影から眺めていると廊を渡っていたある女御に仕える二、三人の女房が足を止めた。
「あら、麗景殿の方の妹君ではなくて」
答える声はまだ若くとても優しい。あいさつに耳をそばだてていると少し麗景殿の方の声に似ている。
この時その女房たちに大きな悪意はなかった。しかし競い合う場である後宮の空気と、容姿が下の者を蔑む時代の色がそのまま合わさってナチュラルに彼女は見下された。
「いくら殿舎に近くても未婚の姫さまが女房も連れずに出歩いては行けませんわ」
「そうですわ。どんな顔立ちであっても危のうございます」
「若いというだけでその気になる男はいくらでもいるのですよ」
姫は怒るでもなくやわらかに受け流している。
「ご忠告ありがとうございます。すぐに戻りますわ」
「本当ですよ」
源氏が答えてすっ、と身を現すと失礼な女房たちが飛び上がりそうになった。そちらには一瞥もくれずに彼は麗景殿の妹姫に微笑みかけた。
「ましてやあなたのような可憐な方ならなおさらです。さあ。お送りいたしましょう」
目を見張る女房たちを捨て置いて、見せつけるような優雅さでさっさと姫をエスコートする。彼女は戸惑った様子ではあったが拒みはせず、素直に麗景殿の裏へ向けて歩き出した。
「......驚きました」
「あんな人たちに好きに言わせちゃいけませんよ」
真顔で言うと扇に隠された顔が少しうつむく。
「本当のことですもの。私、可憐じゃありません。割に残念な感じなんです」
「そんなことはないです」
顔立ちも何となく想像がつくし質のよくない髪も目に見えているのに源氏は本気で否定した。
「でも」
「私が誰かご存知ですか」
妹君はほんのしばらくきょとんとすると、すぐにころころと玉を転がすような声で笑った。
「あなたを知らない方なんて宮中にいませんわ、光君」
「ならお判りでしょう。私は内裏で育ちました」
「はい」
「つまり美女なんて飽きるほど見ています」
「......はい」
「その私が断言します。あなたはとても可憐だ」
妹姫は驚いて立ち止まってしまった。源氏はそっと扇を握らぬ片方の手をつかむと、少し力を込めた。
「......あの」
「お世辞じゃないし、親しい女御さまに対する気遣いでもありません」
きっぱりと言うともう片方の手で彼女の扇を横にずらした。突然のことで三の君は顔を隠す間もなかった。
生き生きとした、けれど切れ長くはないどちらかと言えば小ぶりな目が丸くなっている。源氏はにっこりと笑いかけた。
「ほら。こんなにかわいいじゃないですか」
「............」
「私以外の人に見せたくはありませんね」
そう言って扇をすぐに直すと、手を引いて麗景殿の東廊まで歩いた。
「また、会ってください」
「からかっていらっしゃるのですか」
「まさか。私は嘘など言いません。本気で言っていますよ」
なんだかどこかで聞いたようなこの言葉をかりそめの相手に使ったことがある。だけど今、その時よりもずっと真剣に語っていた。
「約束ですよ。絶対に、また」
いつものように優雅に微笑むつもりだった。なのに、なぜだかすがるように必死な表情になってしまった。それに驚いたのかもともと素直な性格なのか、通常の姫君は初回では絶対くれない返事「はい」と答えてくれた。
この華やかな後宮では相当に格下の容姿の女君なのに凄く嬉しい。つい、にぱあと子どものような笑い方をしてしまって、慌てて顔を引き締めた。
それからしばらくは彼女のことは忘れていた。なにせ源氏は忙しい。公務もあるし父帝の私的な遊びごとにもつきあう。頭中将も話しかけてくるし、その父左大臣の過剰な接待もある。となると正妻のもとへも行かねばならないし、するとバランスを考えて誇り高い愛人も訪ねなければならない。それに加えて誰よりも深く愛している高貴な方の所にまめに回ってすげなくあしらわれる。
特に最後が問題だった。一度だけ、その方が特に用心もしていなかった頃に思いを遂げたことはあるが、その後はガードを固めて手引きをした女房と二人きりになることなど全くない。辛いが尊敬の気持ちも増していく。
————この私に声をかけられたら誰だって揺らぐのにさすがはあの方だ
そうは思っても胸の中が乾ききって、心が干物になりそうだ。光君などと呼ばれているのが皮肉のように、光などどこにも見えない気がする。
「......ご気分が優れないようなので」
取り次ぎの女房さえ何かの用で席を外していた時に寄ってしまい、目当ての方の無愛想な乳母子にけんもほろろに断られた。
————あんな見苦しい容貌でよくもこの私に冷たい態度が取れるもんだ
内心毒づくがどうにもならない。心の裡でイライラとののしっているうちに、やはりあまり外観のよくないその人のことを思い出した。
————今の人とは全然違うな。あの方はきれいじゃないけど温かい
急に胸の底に灯が点ったような気持ちになる。途端に少し元気になり、そのまま麗景殿の方に向かった。
「あいにく主人は帝のもとに呼ばれております」
見慣れた女房が気の毒そうに告げた。いつもだったらがっかりするが、今日はむしろ好都合だった。
「そうですか。それでは他の方とお話しさせてください」
「え、わたしとですか」
女房がちょっと嬉しそうに尋ねたがさらりと否定する。
「いえ。いらしている妹君と。約束がありますので」
几帳が微かに揺れたような気がする。源氏は声をいくらか高くした。
「聞いていらっしゃいますね? 約束どうり参上致しました」
「............」
「待たせてしまったのでお怒りになっているのですね」
からかうつもりでそう言うと、ちょっと焦った声が聞こえた。
「そんなことはありませんわ」
「よかった。嫌われてはいないのですね」
苦笑するような気配がある。
「あなたのことを嫌いな人なんていませんわ」
「そうでもないですよ。今だってよその女房に冷たくあしらわれたし、敵だって公言していらっしゃる方だっているし」
「まあ」
「だからせめてあなたは、優しくしてください」
ずうずうしく言い募ると、くすくすと笑い声が聞こえた。源氏は心に抱えた闇がほんの少し薄くなるのを感じた。
「毎年五月雨の頃にここで橘の花を見るのが楽しみなんですが、秋に見ることが出来るとは思いませんでしたよ」
「?」
「お話も出来るなんて例年の花より素敵です」
「......すぐに飽きると思いますわ」
「いえ、絶対飽きませんよ」
「ご冗談ばかり」
「それにあきらめません。先に宣言しておきますね」
素直な姫君はまたちょっと笑った。懐かしいような香りが立ち上って闇がまたわずかに薄れていく。源氏の君は幸せは意外に身近にあるのだなあと考えて小さくて温かな炎を点す人に向かって、また子どもっぽい笑いを見せた。
胸の中の木枯らしは少なくとも今は吹き付けるのをやめて、夏の香りが胸に広がるようだった。