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源氏夢想譚  作者: Salt
第二章
30/89

白萩

弘徽殿視点

源氏十七歳

 秋の気配が風に現れて、御簾の向こうの白萩の花を揺らしていく。儚げな小さな花が耐えきれぬようにいくつかこぼれた。


「これ、顔を上げよ。聞いておるのか」


 わが妹の四の君がほんの少し目を上げたが、私がにらむと凄い勢いで這いつくばった。


「上げよと申しておるに」

「ご、ご、ごめんなさいお姉さま。私の悋気がすぎました」

「そんなことはどうでもよい」


 声は抑えているのだが、おびえた彼女が一声ごとに飛び上がりそうになる。そのせいか抱かれていた赤子がびっくりして泣き始めた。その一つ上の赤子もつられて泣き出した。乳母が二人走って来て引き取っていく。

 それでも妹のひざは空にはならない。さらに一つ上の幼児がぽかんとした顔でこちらを見ている。彼女の第一子である男の子だ。


————少し、鈍くないかこやつ


 わが血筋だけあって割に整った顔立ちの子供だが、なんだか反応がぬるい。いやけして阿呆というわけではなく、運動神経など幼児の割には優れているのだが、時折妙な反応を示すことがある。

 泣くべき時に泣かず怯えるべきときに怯えない。

 こんなことでは将来の危機管理能力の欠落を心配せねばならない。まだ幼い今のうちに世の中は恐ろしいものがあることを教えておいてやらねば。


 普段は子どもにはけしてやらないことだが、直接甥をにらみつけた。

 彼はしばらく硬直し、そのまま無表情に倒れた。


「きゃーーーーっ、太郎君さまが泡を吹いていらっしゃるーーーっ!」


 女房が絶叫し、凄い勢いで子どもを抱えて下がった。途端に妹がおろおろと立ち上がったので叱った。


「これ。まだ話は終わっておらぬ」

「でも! 息子が......」

「尊敬すべき大おばの気品と威厳に感じ入っただけです。大人でもよくあること。今のうちに耐性をつけておけばよい」

 つけ加える。


「すぐに回復する。座りなさい」

「はあ......」

 

 しぶしぶ座る妹に説教を続けた。


「聞けば相手の女は両親を亡くして心細い身の上だったとか。おまえがフルスロットルで攻撃すべきほどの相手ではない」

「だってお姉さま」


 妹は柄になく涙ぐんだ。


「今でこそ子も続けざまに生まれましたけれど、最初の頃私に一人もいないうちから相手にはかわいらしい女の子が生まれていたのです。あの不安な時期にあちらに行ったきりだったのかと後から知って私辛くって辛くって...」


 当時を思い出したのか涙ぐんで鼻をすすり始めた。


「まだ私と新婚と言える頃から通っていた女なんです。しかもあの人の生活のかかりは全てこちらに押しつけたまま、甘い汁だけを吸うように恋の上澄みだけを楽しんでいたのですもの。文句の一つも言ってやるのも当然だと思いません?」


 前東宮が位を下りられ、こやつが入内する機会を失ったのは天の配剤だ。こんな行動の規範が感情による女が内裏で敬意を払われるわけがない。


「バカらしい。わが家の栄華がわれわれによって支えられているように権門にとって娘はいくらあっても足りない玉だ。おまえには運良く一人生まれたが、これから先もっと生まれる保証はないし育て上げることも大変だ。聞けば素性も悪くない上後見の薄い女だと。おまえは便利に使える絶好の玉を失ってしまったのだ」


 潤んだ瞳から更に涙がわき起こり、泉のようにあふれてくる。妹は頬を濡らしながら小娘のように身をよじった。


「私以外の女の娘を育てよとおっしゃるのですか!」

「母がいるのに育てる必要はない。目の届くところへ置いてキープしておけばよいのです」

「それでは、その女を認めよとお言いになりたいのですか!」


 子どもの頃から誰に似たのかかんしゃく持ちだったが、今も興奮のために赤くなっている。もちろん私は肯定した。


「家のためならそれが一番の良策でしょう。増長せぬよう釘を刺す必要はあるが......」

「お姉さまだって、出来なかったくせに!」


 妹の後ろにいた女房が全て凍り付いた。こうなると妙に似たような顔になるものだな、とさめた気分で眺めた。

 四の君はしばらく赤いままだったが、急に青くなり、それから血の気が引いて紙のように白くなった。


「ご、ご、ごめんなさい......」


 黙ってそのまま眺めていると、彼女はガタガタ震え始めた。動きの止まらぬ腕を上げ、我が身を抱きしめるように交差させてそれを抑えようとするが止まらない。

 白萩の花が脆い花房を数えきれぬほど落とすまでそのままにしておいた。


 気を失いそうになったので言葉を与えた。息子と同じように泡を吹いても困る。


「.........内裏は最終決戦の場です」


 その場に至る前の女の争いなどは問題にならないほどの激戦区だ。


「状況によっては本当に死人が出ます」

「お姉さま、まさか......」


 私はまっすぐに視線を当てた。


「おまえはこの私をどう見るか」


 彼女の震えが止まった。妹はその手をひざに置いた。


「お姉さまは右大臣家のいただきに輝く一の君。正しく生まれ、正しく育ち、正しく歩む綺羅星、いえ太陽のごときお方」

「わかっておるではないか」


 妹の口元が少し緩む。


「主上が不適切な状況にいると思えば助言もします。配下の者が間違いを正そうとしても止めはしません。内裏は女の戦場。各女御更衣は一軍の将。その自覚のない者は来るべきではない場であるからです。しかし、他はどうあれこちらは人の命のやり取りはしません。それは恐れでもなければ逃げでもない。相手への憐れみですらありません。その必要などないからです」


 女房が感に堪えぬように私を見つめる。


「引き際を誤った更衣の一人が死んだことは知っています。しかしその責は自分で負うべきこと。世がどのように取りざたしようとも、かわりに背負ってやるつもりはありません」


ーーーーーしかし、


 妹には話せぬことを心の裡で続ける。当時の主上の偏愛は異常なほどだった。そして当時皇子を持つ者は私とあの女だけだった。

 わが息子の命を奪い、他の女と接することをやめれば、あの更衣の子は東宮の位を占めることが可能だった。

 それでも私は他者の命を奪うことなど選択はしなかった。


「でも、子を一人持つ後見が弱い女であることは私と同じですよね」

「帝を継ぐ者の血の流れの重さは全然違います。必要な子がおらぬ場合は考えますが、それでも最低限その母が生きていないことが条件です」


 妹がうっ、と息を呑む。


「だから故意に殺めたりはせぬと言うに。とにかく桐壺の更衣存命中は条件に当てはまらぬゆえ近寄ることなど考えもしなかったし、死んだ後は他に有力な者どもに皇子が生まれたゆえ必要はなくなった。純粋な親切心から多少はかまいましたが、本人は気に入りの場所を持つゆえ遠ざけました」


 今更わが息子に万が一のことがあっても、女御の子を押しのけて更衣の子を東宮につけることは難しい。臣下に下った者は更に遠い。


 私が恐れる必要があったとすれば、左大臣の姫が主上に入内して現在の藤壷のように扱われることだ。そうなればいかに父が政に長けていようとも、力が削がれることは間違いなかった。

 しかし主上は彼女をただの源氏に与えた。わが息の支えにしたかった私としては不満はあるが、力関係は動かない。


「その程度のことがわからぬお前は本当に内裏に向いてはおらぬ。せいぜいしおらしくしておいて夫の気持ちをつかんでおくがよい。あまり専横がすぎると父上にどんな力があろうとも捨てられますよ。頭中将はそんな男です」


 妹はひっ、と身をすくめてまたわが身をかき抱いた。こやつは夫の性格も把握していなかったらしい。


「わかったら帰りなさい。ああ、着なくなった衣が多少あるから持っていきなさい。美しく装って控えめに振る舞っておけばなかなかおまえも見られぬことはない。精進なさい」

「本当ですか? ありがとう、お姉さま」


 途端に四の君は機嫌を直してはしゃぎながら衣を選びにいった。単純きわまりないがこんなところは愛らしい。無茶を抑えれば夫の縁も完全に絶えることもないだろう。


 三人の子をつれて妹は戻っていった。帰りの挨拶の時に長子が今度は白目を剥いたが、卒倒には至らなかった。



「四の君さまの行動はほめられることではありませんが、お気持ちはよくわかります」


 身近な女房の一人が物思わし実に口を切ると、他の者も加わった。


「人にはそれぞれ分というものがあります。それを超えて気ままに振る舞う者に教え諭すことは上の者の義務ではないでしょうか」


 女房たちが真剣な面持ちで言いつのる。藤壷の宮のことらしい。最近あの女は主上をお引き止めすることや、予定がなくともお呼びすることがある。

 妙だとは思う。死んだ更衣にクリソツであるという鳴り物入りで入って来て何年もたっている。今更媚びなくともその地位は確立している。なぜ今更行動を起こすのか。

 乳母子がこぶしを握って力説した。


「入内の頃はまだ小娘で、右も左もわからなかったのが、今は分別のつく二十二歳。もし、ご譲位のことがあれば心細い身の上であることに気づいて、ここは自分の若さに賭けて強引に子の一人もかまそうと、ハッスルしているに違いありませんわ!」


 そう考えれば納得いかぬでもないが、あの宮はそんな俗な風にも見えなかったが。


「周りの女房がたきつけたのかもしれません」


 違和感を覚えながらも特に否定する根拠を持たない。いきりつたつ女房たちを手を出すなと鎮めた。過去の女の影でしかない娘にムキになっても仕方がない。


「女御さまはお優しすぎると思いますわ」

 憤激したままの乳母子が、苦い表情で言いきった。肩をすくめて受け流していると、梨壷の女房が機嫌伺いに現れた。

 その手に何か花のようなものを持っている。


「贈り物ですか?」

 女房が尋ねるとその女は首を振った。


「いえ。弘徽殿の前に落ちていました。こちらのものではないかと拾って参りましたが」

 乳母子が受け取って渡してくれた。長い蔓を持つ白い花だ。


「......夕顔ですね」

 彼女は怪訝な面持ちで首を傾げた。

「なぜ、こんな安っぽい花が」

「里の垣根に巻き付いていますが、もう時期はすぎていますよ」

 別の女房も不思議そうに見つめる。握っていた私はその謎に答えた。


「これは薄様で作られたまがい物だ」


 色のよくあった紙を何種も使って、一見本物かと思うほどに作ってある。女房たちは更に首を傾げた。


「桜や梅などの愛される花ならわかりますが、なぜこのような俗っぽい花が丁寧に作られたのでしょうか」

「誰かが手すさびに作ったものが風で飛んで来たのかもしれませんね」

「花なら貧相だろうが偽物だろうがいいですよ。しばらく前のことですが、急いでこちらに戻って来た時、妙なものを思いっきり踏んづけてしまって」


 乳母子が顔をしかめながら続けかけた。私はそれを目で止めると、女房たちに確認して梨壷の者に返した。


「誰も覚えがないようだ」

「それでは片付けておきます。申し訳ありませんでした」


 礼を示して下がる女房に息子への言葉を与え、こちらの者たちに見送らせた。

 彼女が見えなくなってから乳母子に尋ねた。


「踏みつけた妙なものとは何ですか」

「はあ、蝉の抜け殻です」

「なんだ」


 苦笑した。珍しくもない。だが乳母子は真剣だった。


「いえ、弘徽殿の磨き抜かれた廊に落ちていることは珍しいです。雅ならぬものが飛んで来たら、すぐに私たちが片付けますし。それに踏みつけたもの以外にもいくつか落ちていたのです」


 別の女房もうなずいた。


「ええ、覚えています。お耳に入れるほどのことではないのですぐに片付けましたが」

「しょこたんでも通りかかったのではなくて」


 疑問に思うほどのことではない。それでも、なんだか薄様一枚ほどの違和感が先程の花と相まって、心の奥にひっそりと積もっていく。


 視線を外に向けた。ぽろぽろと花を散らしていく白萩は、何の不思議もなく風に揺れていた。

 今日の平穏な内裏に、謎など何一つあるようには見えなかった。


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