鴻臚館(こうろかん)
光源氏七歳
弘徽殿視点
お渡りになった主上を見て、わが息たる東宮(皇太子)は微笑んだ。
しかし彼はいつものように表情を変えず、わずかにうなずいただけだった。
いつものことだ。そして息子の眸の奥にあきらめと寂しさがほんのり灯るのもまた、日常だ。
微笑む相手が息子ではなく、彼の童子だったら。光の名を持つあの少年だとしたらそれは違う。主上の顔は蕩け、綻ぶ。
東宮の眼前に彼がいる時も同じような表情を見せる。
貶められ、傷つけられても息子は憎まない。父をも、彼をも。
苛立たしい。
憎めばよい。謗ればよい。貶めればよい。
けれど息子はそのような強い感情を持てないのか恬淡とした表情を浮かべるのみ。
怒りは彼の領分ではない。それを専らとするのは私だけだ。
ならば従おう。その定めに。
「お珍しくもお渡りいただいて光栄でございますわ」
息子の前では傲岸不遜な表情を見せたその男が、途端に落ち着かなくなる。私は巌も砕く勢いで笑って見せた。帝の腰がほんのわずかに後ろに下がる。
「お健やかでいらっしゃいますか」
声の中に微かな震えが混じるのを聞き逃さない。
「ええ。王昌齢などを読んで長い夜を過ごしております」
彼は青ざめた。隠しもせずに真名(漢字)を読む強さと、美女の閨怨の詞をほのめかす厚かましさに脅えている。
なんだかもごもごと言い訳を述べる主上に切り込んだ。
「右大弁はなんと申しておりましたの」
青い色が今度は白くなる。さらに攻め入る。
「高麗人は光をどう読みましたか」
全てを知られた恐ろしさに、彼が口ごもる。私は寛大にも落ち着くための時間を与えてやる。
「ご存知でしたか」
ようよう、言葉を吐き出す。
「貴相であると告げられました。ただしあなたが心配なさるような地位につけることは適切ではないようですので、ご安心ください」
「つまり、検討してみた、ということですね」
「いえ、たまたま高麗人がそう申しただけのこと」
主上は玉のような汗を流した。私は手近な女房を呼んだ。
「布などお渡ししなさい」
自分の妻に対峙しただけで、これほど冷や汗をかく男も珍しい。
「国の者にも相を伺わせたとか」
「同じような意見でした」
「つまり帝には向かないということですね」
言葉を飾りもせず率直に言った。
「いや、あの、向かないわけではないのですが、国が乱れるとか」
「神も仏も許さないということです」
決め付けた。彼は不満げな面持ちだが、私は先に進む。
「で。あの者をどう扱うおつもりです」
出来れば春宮(皇太子。東宮も同じ)につけたいという心づもりがあったのだろう。いまだ親王宣下もしていない。
しかし、その望みは断たれた。
「………臣下に下そうと思います」
「ご英断です」
胸の内が軽くなる。これで我が息子は安泰だ。
浮かんだ勝利の色に憤ったのだろう、彼はふいに彼の者を讃え出した。
「学問も楽も世を驚かすほどの者です。並ぶ者とてないほどの礎になるでしょう」
皮肉の言葉でその兄を貶めようとしているのだ。
確かに息子にそれほどの才はない。しかし、私は彼の深さを知る。
「いつもどうりのご寵愛ですわね。しかし、そのようにつまびらかになさるのはいかがなものでしょう」
「何故です? 美に優れ才高き者を愛するのは自然の理ではありませんか」
ほう。初めて正面から私に向かう。
しかし、なさけない。私が傷つくはずと下げるその子は、おまえの子でもあるのだ。
「主上は世の理を軽んじていらっしゃる」
予想に反してこの私は落ち着いた声を出す。
彼を見据えた。やはり冷たい汗を滴らせている。
「内心どのようにお思いでもかまいません。しかし弟を重んじ兄を軽んじると、人々は気を引こうと同じように致します。それは次の御世を危うくするでしょう。情を道より先に通すことは仁とは言えません」
正論だ。子供に聞かすような。しかし諫言を好む君主などめったにいない。
拗ねた子供のように黙している彼に、私はやわらかく言葉を継ぐ。
「私を憎むのはかまいません。しかし息子を疎んじるのは筋違いでしょう」
「憎んでも疎んじてもおりません」
「他の者がそう見えるようにおふるまい下さい。それ以上は申し上げません」
私の前で、帝はいつも脅えた子供だ。それは最初の出会いから変わらない。ただ、私がそう気づいたのはあの女が消えてからだ。
賢帝と讃えられるこの男は、いつも拠り所を探している。自分を脅かす強さではなく、慎ましく支える強さを持つそれを。
私は、そうなれない。
誓って言う。悪意を底に意を述べたりはしていない。政に口を出す時は、それ相応の論理を持つ時だけだ。だが、それすらも彼は気に入らないのだ。
仕方なく私は父に手を廻し、遺漏のなきように図ってやる。情ばかりに長ける彼の御世の評価が高いのは、我が尽力のためでもあると私は誇る。賢帝の実態なんてただの形代だ。
口もとに自然と苦笑が浮かぶ。
ならば、その形代にすら愛されないこの私は何だ。
思いを呑み込み、再び帝の目を見据える。
「それでは、光に対するお言葉を宣じていただきましょう」
憎々しげに彼は私を見返しかけ、我が視線の強さを受けて下を向いた。
「そのようにします」
「ありがたいお言葉、感謝いたします」
尊大に、礼を述べた。
ふり向きもせず、彼は出て行く。
歩み寄る東宮にも声を掛けることなどなく。息子の眸がわずかに煙る。
我が息よ、情などというものを期待するな。傷つくだけだ。
言葉を呑み込み、彼の髪を撫でる。
私は、人非人だから情の代わりに権威を与えよう。
おまえがそんなものを欲しがらないことは知っている。だが、使い方によっては割に便利な立場だ。
まっすぐ私を見つめる唯一の相手が微笑む。
皮肉なことだ。おまえの顔は、あの男にそっくりだ。