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源氏夢想譚  作者: Salt
第二章
29/89

夕顔

源氏十七歳

 いつも傍に控えている惟光(これみつ)が、ここしばらく休んでいるのはその母が病気だからだ。

 彼女は源氏の気に入りの乳母だ。一時は命さえ危ぶまれるほどだったが、出家させてからはどうにか持ち直したようである。

 源氏の君は少し考え、内裏の帰りに見舞いに行くことを決意した。問題の多い人格ではあるが老人には優しい。六歳まで祖母のもとで育ったためかもしれない。


 乳母の家は五条にある。源氏の私邸のある二条や左大臣邸のある三条と違って一般人の多い住宅地だ。ここを下って六条あたりとなるとまた雰囲気が違って、わざと人から離れたような高雅な趣がある。


 源氏の君はふと眉を寄せた。その地にすむ優雅きわまりない年上の恋人を思い出したのだ。

 彼女のことを考えると心の奥が重くなる。

 決して嫌いになった訳ではない。ただ、ほんの少し疲れただけだ。彼女に会うと破綻のない美しさで、いつも追いつめられている気分になる。

 彼自身も容姿も振る舞いも最上と賞賛されるし、スペックの高さは自分でも認めるが実はけっこう見栄を張っている。だから、あの隙のないベストオブ貴婦人の前ではいっさい気が抜けない。彼女に見苦しい様を見せるぐらいなら、いっそ山奥の寺で出家する。それほどの方だ。


———だけど、あの方がホグワーツに入るとしたら間違いなくスリザリンに入寮するだろう。絶対だ


 自分自身は入るならグリフィンドールのつもりの源氏の君は心の中で決めつけた。

 そう思ってしまうのも無理はない。完全無欠のかの人は、どことなく蛇を思わせる女君だった。光る瞳を持つ美しく神々しい蛇。それは夜と昼の挟間をしなやかに行き来する。


 ため息をついているうちに、車は乳母の門前に着いた。だが鍵がかかっているので、待っている間に辺りを見回すと、西隣に新しい檜垣(ひがき)の家が見える。その上に半じとみがいくつか上げられている。

 家内にかけられた簾もまだ新しくて涼しげに白い。

 その奥に美しい額つきの女たちの影が見える。

 気になって物見の窓から伺えば、あちらもこっちを見ているようだ。


———ボロい牛車で来たから誰かはわからないだろうけど


 ちょっと気恥ずかしくて目をそらすと、板塀に名も知らぬ植物の蔓が青々と心地良さげに這っている。そこに可憐な白い花が、女が微笑むように開いている。


遠方人(おちかたびと)にもの申す」


 古い歌をつぶやいてみるとSPであるところの随身(ずいじん)が察して、「夕顔」という名を教えてくれた。こんなしょぼい垣根なんかに咲くものらしい。


「切ない定めの花だね。一房折ってきて」


 と命じると、彼は勝手に門に入って折りとった。そこへ黄色の生絹(すずし)(練らずに素のままの絹)の単袴(ひとえばかま)を裾長く着たかわいい女童が香を強く薫き込めた白い扇を差し出した。


「これに置いて渡してあげて。枝も貧相な花だから」


 受け取ったときにようやく乳母の家の門が開いた。




 十分に乳母を慰め、その身内に感銘を与え、出てきた途端にもらった扇を広げた。女性が使い慣れたものらしい。それに、


「もしやあなたは源氏の君ではなくて?」


 という意味に取れる和歌が書かれている。字はさりげなくて品がいいが筆跡は変えてあるらしい。面白く思って、自分も字体を変えてお愛想程度に返事を持たせた。


 その家に住む女を惟光に調べさせたが、よくはわからない。持主は名ばかりの受領らしいが田舎にいるそうだ。その妻は若く派手好きで、彼女の姉妹は宮仕えをしているようだが夕顔の女はそのどちらでもないらしい。

 五月頃から忍ぶように暮らす者がいるそうだ。けれど家の者たちさえ知らされていない。若い女たちが申し訳程度にしびららしいもの(平安メイドエプロン)をつけて仕えているようだ。

 夕日が奥まで差し込んでいる時、憂いがちに文を書く女性が垣間見えたが、とても美しかったと聞いた。


「なるほど」


 源氏は目を爛々と輝かせた。やる気満々である。

 惟光は呆れたけれど「若いし、全くその気がないのもつまらないものさ」と考えた。


「まあ、手は打っておきました。ちょっと文なんか書いてみると、なかなかイけてる返しをする若女房などおりましたよ」

「やるな惟光。もっといけ。がんがん言い寄れ。素性だって知りたいし」

「は。仰せの通りに」


 主従の息はぴたりとあっている。趣味と実益を兼ねる仕事に惟光も弾むように答えた。



 女のもとを訪れた男は明けきらぬ間に帰るのが作法だ。それはわかっているが若い源氏の君はまだ眠り足りない。霧も深いことだし、もう少し寝ていたい。

 しかし六条の御息所の高雅な邸ではそれは許されない。無理に起こされて退出を促される。

 先を行く紫苑色の衣装を着こなした中将の君という女房の腰つきが実に悩ましい。御息所が見送っているのを知っているにもかかわらず、目が離れたところでちょっかいをかけてみる。

 朝顔にかこつけた和歌を詠んで誘っても、慣れた様子で素早く主人の側に立った返しをする。女房のレベルは非常に高い。

 かわいい侍童(さぶらいわらわ)を呼び、朝顔を折らせて源氏に差し出させる。絵にしたいほどの情景だ。

 こんな風に端々まで神経を行き届かせているのはもちろん御息所の手腕だ。その知性も教養も美意識も、極限まで磨かれている。


―――重いし


 くどき落とすまでは夢中だったのに勝手なものだ。けれどその傲慢なまでの若さと美しさが彼をさらに輝かせているのは確かだ。

 無謀なまでの自信が彼を恋の冒険に飛び込ませる。負の条件は無理にでも正に書きかえる。その心の奥にどれほどの闇を抱えていようとも、彼はまだ、憂い顔だけではいられない。


「どうも頭中将に縁のある方らしいですよ」

「人妻さいこー!」

「調べても素性がわかりません」

「かえってそそられる」


 何のかんのと従者をなだめて女に会うことに成功した。



「……狩衣(ジャージ)ですか」

「ブランドジャージだし」


 もちろん上質な絹で作られた品だが、今までと比べるとずいぶんとカジュアルだ。下の品の女ともくびっているのかもしれない。


「あと、これを見てくれ。狩衣に色を合わせるのと黒とどちらがいい」

 艶のある練衣を顔にあてる。どうやら覆面にするらしい。

 ちょっと引きつつ惟光は黒い方を選んだ。


「殿は色が白いからなんでも合いますが、こちらの方がワイルドでいいのではないでしょうか」

「うん。優雅さは十分だしね。目の所を朱泥で囲んでくれ」


 印をつけさせて女房に渡す。彼女は呆れながらも素早くハサミを入れ、まわりを上手く縫ってくれる。細長い裾を頭の後ろで結ぶと顔の上半分だけを覆う仮面が出来上がった。


「全面だと怖いし、下だけだと恋を語るに不自由だ」

「確かに。下だけにしたら強盗みたいですねえ」


 用意万端整えて、件の女に会いに行った。ばれるのがイヤで歩いていこうとしたので、惟光が自分の馬に強引に乗せた。

 無理を重ねて会った女は、そんな苦労を忘れさせるほどの魅力があった。



 夜も昼も、源氏は彼女のことばかり考える。胸の奥の大事な思いも、ここしばらくは休憩だ。

 女の気配はやわらかい。押せば引くし、踏み込めば逃げる。あどけない雰囲気だが生娘というわけでもない。強く抱きしめると素直に従う。


―――心の澱がすべて溶かされるようだ


 それほど高貴な身の上でもないはずなのに、とことん心を絡めとる。元いた頭中将の時のようにふいに消えてしまいそうで不安で仕方がない。前世からの縁のせいにして、無理に二条院に引き取ろうかとも思う。


「ねえ、もっと気楽な所へ行こうよ」

「変なカンジ。こんなフツーじゃない扱いされているのですもの。恐いわ」


 子供っぽく言いながらじっとこちらを見つめる彼女に源氏は微笑みかけた。


「どっちが狐かな。私にだまされてみない?」

「いいわ。だましてみて。隙があったら私もだましちゃう」


 にっこりと笑う彼女は抗いがたい可憐な様子で、すごく美人だというわけでもないのに源氏の心を弾ませる。


「分かった。じゃあ手始めに。季節外れの珍しいものをもらったので持ってきたんだ」

「まあ、なあに?」


 小首を傾げて見つめる様は小鳥のようでもある。

 源氏の君はもったいぶりながら端近によると、隋身にあらかじめ用意させた袋を手に取って戻ってきた。不思議そうに見つめる女に笑いかけると、突然その袋を逆さに振った。


「まあ……」


 女は呆れて涼しげな光を目で追う。ホタルは部屋を飛び交って、薄物のみを身につけた女のからだの線を露わにする。一つ二つ飛び違って彼女の胸元にさえ止まる。

 見苦しく焦ったり振り払うこともせずに、彼女は薄くほほ笑んだ。幾多もの青白い光が彼女の姿を闇に浮かび上がらせる。その動じない様子に誘われたように源氏が手を伸ばす。

 女はしばらく覆面の男を見つめ、ゆっくりとその身を預けた。




 八月十五夜の明るい月の光が、板葺きの屋根の隙間から差し込んでいる。貧乏くさい家の様子も珍しくてキョロキョロしていた源氏は、隣家の声が耳に入る。明け方が近いらしい。


「うげー、寒っ」

「今年は商売もイマイチだし田舎の行商もダメっぽいから不安やわ」

「北隣さん、聞いてはる?」


 他の女が一緒にいたら恥ずかしさのあまり舌を噛みそうだ。しかし夕顔の女はおっとりと気にしていない感じに見える。

 石臼はごろごろ、白妙打つ(きぬた)の音や雁の鳴き声、呉竹のざわめきや虫の声さえ近すぎてやかましい。だけどそんな事が気にならないほど彼女に夢中だ。

 白い(あわせ)に薄紫のやわらかな衣を重ねて、けして派手じゃないのに気をそそる。「もうちょっと気取ってもいいかも」と無理にケチをつけてみようとして、「いいやもっと気を許してほしい」とさっさと否定する。


「ねえ、この近くで夜明けを見ようよ」

「急すぎるわ」


 と言いながらも逆らう様子もなくて、結局は素直に従う。

 彼女の女房の右近や隋身を呼んで用意をさせた。



 青みを増した空からふいに月が雲間に隠れた。夜は明け始めている。

 源氏は牛車を近くのなにがしの院の西の対につけさせた。

 管理人が慌てて場を作ろうが、門さえ荒れ木立は深く霧さえ出ている。露も人の袖先を濡らす。

 女は空を見上げておびえているが、女房の右近は昔を思い出してちょっとうっとりしているようだ。部屋は意外にきれいに用意された。

 粥など食べて右近をさがらせ、日が高くなるまで二人で眠った。



 庭はひどく荒れている。古びた木立は人を拒むように生い茂り、前栽は秋の野のように雑草に埋もれて池さえも水草のはざまに沼のような水をわずかに見せるだけだ。管理人の住む部屋もここからは遠い。


「気味悪いぐらいになってるけれど、鬼が出たとしてもこの私なら許してくれるさ」

 そう言って源氏は初めて覆面をほどき女に顔を見せた。


「夕露に濡れて咲く花の縁でここにこうしているわけだけど、どうかな、露の光のような私の顔は」

 と源氏が言うと女は流し目で彼を見た。


「光っていると見えた夕顔の露は、たそがれ時の見間違いだったのね。それほどでもないわ」

「……まったくあなたって人は」


 源氏にとってこんな女は初めてだった。内気で恐がりなのか大胆不敵で蓮っ葉なのか、まるでわからない。その言葉は彼を誘い、惑わせて夢中にさせる。


―――もちろんスリザリンじゃないけれど、グリフィンドールってわけでもないしレイブンクローでもハッフルパフでもない


「私も顔をさらしたことだし、名前を教えてよ」

「宿もない海人(あま)の子よ。教えないわ」


 また古歌に絡めて逃げられる。分類不能な謎の女は面白そうに笑い、源氏はわれを忘れて抱きしめた。

 日は燃え尽きるように暮れていき、華やかな黄金と茜色の名残をしばし空にとどめた。やがて薄鈍色の闇が少しずつ広がり、すべてをぬばたまの夜に呑み込んでいく。


 女が奥の方は暗くて恐いというのですだれをあげて端近に寄り添っていたけれど、闇の深さに驚いて格子をおろして明りばかりを華やかに灯した。


 自分を探しているはずの内裏の使いもどうでもよかった。恨んでいるはずの他の女のことさえ煩わしいだけだった。ただ目の前にいるこの愛らしい女のことだけしか考えることができなかった。


「世界中に二人っきりだったらいいのに」

「あなたのお世話なんて私きっとできないわよ」

「私が君の世話をするよ。海人の子って言い張るのなら魚だって釣ってくる」

「あなたに捕まるような間抜けなお魚なんていないわ」

「言ったな、こいつ」


 じゃれあってふざけあって熱を高めあって、宵が過ぎるころに互いに衣を取り替えて二人で眠った。



 湿り気のある闇が凝縮して人の形をとった。それは静かに二人にいざり寄る。

 源氏は二三度寝返りを打ち、はっと気づいて枕上に目を向けた。

 そこにはひどく美しい女の姿があった。


「私が素晴らしいとお見受けする方を尋ねずに、こんなつまらない女を寵愛するとは。何と口惜しいこと」


 怪しい女は夕顔の女を揺り起そうとしている。

 源氏がとりつかれたような胸苦しさを感じて目を覚ますと、明かりも消えて真の闇だ。

 ヤバイと思って魔除けに太刀を抜き、枕上において右近を起こす。

 彼女もおびえたまますり寄った。


「渡殿へ行き宿直人(とのいびと)を起こしておいで。紙燭(しそく)を持って来いと」

「無理です! 暗すぎて」

「子供じゃあるまいし」


 源氏は無理に笑って手をたたくが答える者はいない。

 困っていると夕顔の女が苦しみだした。汗もしとどで意識が危うい。


「とても恐がりなのに、どんな思いで…」

 右近が真っ青になった。


―――昼でさえ儚げに空を見ていたのに。かわいそうに


 武勇の誉れなど縁のないお坊ちゃんだが、女が苦しむさまを見て奮い立った。


「私が行くよ。彼女を守っていて」


 西の妻戸を押し上げてみると渡殿の火も消えている。風だけがわずかに音を立てている。

 数少ない宿直のものはすべて眠っていた。


「起きよ! 紙燭をともせ! 声を上げ弓を鳴らして魔を払え! 寝ている場合か、惟光はどこだ!」


 管理人の息子がそれに答える。


「朝方お迎えに来るそうです!」


 運良くこの男は滝口の武士で、少しは心強い。ここを任せて急いで女のもとへ戻った。

 右近は恐ろしさのあまりうつぶせに寝ていた。

 女の方を探ってみると息もしていない。ぐったりとしたまま倒れている。

 ようやく明かりが届いた。受け取って照らし出すと枕元に先程の女の影がわずかに映ってすぐに消えた。


 ぞっとしたまま彼女を揺するが、夕顔の女は冷たく変わり果てている。源氏は女をかき抱いた。


「お願いだ、死なないで! 私を残して行かないで」


 彼は忘れたはずの幼い少年がいることに気づく。母にも祖母にも先立たれ、不安で心細かったその少年が自分の中で震えている。


「惟光を早く呼べ!」


 命じる合間の視線も惜しいと、すぐに女に瞳を戻す。

 遺骸は美しくて、死んだとも思えないほどだがもはや腕の中で力なく横たわっている。

 女房の前だという一片の見栄が、彼の涙をせき止めている。

 それも惟光が現れるとあっという間に破れた。


 道々事情を聞いてきた有能な部下は、てきぱきと事を運ぶ。


「管理人には知らせない方がいいでしょう。殿はすぐお帰りください。このかたは、私の父の乳母が東山辺りに住んでいるので、とりあえずそこに連れて行きます」


 悲しみのあまり力の抜けた源氏に代わって惟光が遺体を上敷きにくるんで車に乗せた。人形のように可憐に見えた。艶やかな髪が包みきれずにこぼれていた。


 彼の馬で二条の邸に帰ったが、どのような道筋を通ったかさえ覚えていない。茫然自失のまま御帳台に倒れ込み、見舞いに来た頭中将さえ邪険にあつかった。待つのはただ惟光ばかりだ。



「全ていいように計らいました。安心してください」


 日が落ちてからようやく戻ってきた惟光に、源氏は涙をこぼしていい募った。


「もう一度だ! もう一度だけ彼女に会いに行く!」


 ただでさえ汚れに触れ、人の噂も心配で、これまでの処置を整えるためにも丸一日大変な苦労をしたのだ。そんな勝手なことを言われても困ると眉をしかめた。


「お願いだ! 馬で行くから!」


 誰の馬だよ、と内心突っ込みながらも無下に止めることはできなかった。


———あの方はね、何でもできて明るいように見えるけれど、とても寂しい方なのだよ


 母の言葉を思い出し、惟光は黙って頷いた。



 月の光で凍てついたような鳥部野は死者の都のようだった。尼も法師も骸に仕える。

 夕顔の女はわびしい板屋の中で最上の位置に横たえてられていた。右近が直したのか黒髪が美しく流れて滴るように見えた。


ーーーすごくきれいだよ


 死体は恐ろしいものだと思っていたのに、白く清らかで透きとおってさえいるように見える。源氏のかわした(くれない)御衣(おんぞ)だけがそこに色を添えている。


「夜が明けます。急いで帰らねばなりません」


 惟光にせかされ、心が切り取られそうに思えた。

 源氏はまた馬で帰り、途中鴨川の堤でふらふらと落馬した。




「......結局あの人は誰だったの? 海人の子だって行って素性も教えてくれなかったけれど」


 騒ぎで寝付いてようやくいくらか回復した頃、どさくさにまぎれて連れ帰った右近を呼んで尋ねてみた。


「三位中将である父を持った方でしたが、両親ともに早く亡くなりました」

「頭中将の縁があったというのは」

「彼がまだ少将であった頃に見初められて通われていたのですが、去年の秋頃彼の正妻側の方から恐ろしいことを言われてとてもおびえていたのです」


 恐がりだった彼女の一面が胸を打つ。


「女のお子様も一人あったのですが、未だ少女めいたところを残している方でした」

「年はいくつ?」

「十九になられました」


———年上だったんだね


 とてもそうは見えなかった。素性を聞いた後でさえ彼女は謎ばかりに思えた。



 夕暮れの空に雲が流れる。やっと色づいた紅葉がその雲に向けて手を振るように風に震える。

 空を眺めていた源氏の君は虫の音を妨げる惟光の足音に首を向けた。


「こちらにいらしたんですか」

「うん」

「もう勝手に消えないでくださいね。連日あちこちから医者だ薬師だ山伏だと騒がれて大変なんですから」


 源氏は力なく頷いた。


「うん」

「本当ですよ。今朝は頭中将から豪華陰陽師三点セットまで持ち込まれました」

「なに、それ」

「よりましと陰陽師に人形のセットです。法師セットの方がよければ...」

「どっちもいらない」


 秋の空気は清らかで、人の思いもわずかに冷ます。

 源氏は正面から惟光を見つめた。


「四十九日になったら、お前の兄さんに経を読んでもらって。それだけでいい」

「わかりました。依頼しておきます」

「あんな人は初めてだったんだ」


 惟光は自分よりよほどモテそうな男に真面目な顔で声をかけた。


「そのうちきっとまた素敵な人が現れますよ。だってあなたは光源氏じゃありませんか」

「そうだといいけどね」


 ふと笑うとどこかで家鳩が鳴いている。源氏はまた空を見た。

 天は高くどこまでも遠く、どこまでも離れて広がっていた。

 


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