衣
源氏十七歳
弘徽殿視点
確かに人を背負って駆けたことはある。それは十四、五年も前のことだ。
今はそれだけ年を重ねているし、走る距離も長い。背負う女もあの時の更衣よりも重い。
しかしそんなことは関係ない。なんとしてでもこの女を生きたままで内裏から退出させねばならない。
磨きぬいた廊を踏みしめて走り抜ける時に東庭に目をやると、何人もの殿上人が白砂の上に平伏していた。
「夢みたい…………」
女がか細い声でつぶやく。私は答えない。ただ速度を増しただけだ。
廊が妙に長く感じる。まるで時が止まったようだ。夕暮れまではだいぶあるのに曇天のせいか、薄闇の中に閉ざされたようだ。
なびく黒髪も背の温もりも確かにあるのに、裳がひるがえる様さえ感じるのに、私まで夢の中に入りこんだかのような気分になる。
――――自分で飲まずにこぼせばよかったのに
彼女の行動を否定しかけたが、すぐに別の解が示される。
――――いや、いったん狙ったからには何度も繰り返しただろう
因業な父を持った娘の不幸だ。自らの命を賭けねば完全には止めることができなかったに違いない。
女は死にかけている。自分の意思で招いたことだ。だがその理由を知る私は、せめてこの場で死ぬ恥からだけは遠ざけてやりたい。
宣耀殿の北廂にはまだ輦車が着いていなかった。四方をにらみつけていると目の前を扇がさえぎった。息を切らした乳母子が私の顔だけを隠す。
「こちらです!」
麗景殿の女房の声と共に輦車が寄せられる。通常は玄輝門までしか着けられないが、右大臣家の名を出して強引にことを進めてくれたのだと思う。
高欄に駆け上がった女房は私の背から女を受け取り、輦車を引く男たちに渡した。
「お名残り惜し…………」
抱えられた青衣の女御の声が途切れた。
「まだ死ぬでないっ!!」
叫ぶと彼女は必死に目を開こうとしたが、その努力もむなしくもはや女の命は風前の灯だった。
叱咤激励を繰り返そうと口を開きかけたが、そのとき凄まじい勢いでこちらに向かって駆けてくる者があった。
「女御さま!!」
私への言葉ではない。その女房の目は青衣の女御に注がれている。
彼女は残される者の不幸を嘆いたりはしなかった。抱えてきた衣を広げてただ叫んだ。
「お気に入りの小袿ですっ」
とたんに女御がかっ、と目を見開いた。
青衣の上に赤い衣が重ねられる。女御は私を見て微笑んだ。確かにそう見えた。
「すぐに八の宮さまもっ」
「待てないの……」
彼女はか細い声をわずかに漏らすと、必死に指先を動かしてその衣をつかみ胸もとに抱えた。
すぐに女御は輦車の中に運び込まれて見えなくなった。その女房は付き添って走った。
とっさのことで人が足りなかったのであろう、雑仕や滝口に引かれたそれは玄輝門をくぐり朔平門へと向かっていった。そこで牛車に乗り換えるはずだ。
「あの衣は…………」
乳母子が息を呑んだ。
「……昔お与えになったあの小袿です」
太刀をかざして身を震わせたあのやつれた女。今の彼女とは程遠い存在だ。
「戻ります」
そう告げて足早に麗景殿に向かった。
女たちはいまだ立ち尽くしていたが、私の姿を見ていくらか落ち着き麗景殿の奥に移動した。
「…………穢れを払わなくては」
女御の一人がそう言ったので思わずにらむと、ひっ、と叫んで隣にいた更衣の背に隠れた。理性的な私は穏やかに声を整えた。
「穢れになど触れてはおりません。あの女は気を張り、北廂に到っても命を保っておりました」
「その後無事に退出できたのでしょうか」
「そこまではわかりません」
みなが重苦しく沈黙を守る。が、一人の更衣が突然泣き始めた。
「かわいそうなわが友よ……」
えらく太目の女だ。昔後涼殿に住んでいた更衣だと思い出す。一時はやせ衰えていたのに、今は昔以上に丸々としている。
「私にはわかります。先ほど彼女が読んだ漢詩は、実は親友である私への思いをこめたものだったのです!」
麗景殿が驚いて「そうだったのですか」と尋ねた。太目の更衣は滂沱の涙を流しながら「そうに違いありません。さらば、わが心の友よ!」と叫んだ。
つられていく人もの女御・更衣が袖を濡らした。
私はもちろん涙など流さない。ただ待っていた。
日がわずかに傾いた頃、廊を踏む女の足音が響き先ほどとは別の女房が現れた。麗景殿の孫廂で深々と頭を下げると張りのある声で「たった今、わが主である女御が本懐を遂げました。大内裏を抜け土御門大路に差しかかるまで耐え抜きました」と告げた。
人々はどよめき、それからまた泣き声を高くした。
他者の声がやかましい。私は一人になりたかった。だがその直後に帝の女房が現れて清涼殿へ召された。
扇をかざして廊を渡ろうとすると、はるか遠くまであちこちに平伏する人の姿がある。何事かと思ったが、そうだ、忘れていた。
「この弘徽殿の女御が命じる! 面を上げよ!」
声は通り、人々はようやく顔を上げ体を起こした。
主上はひどく憤り、指示を出している最中だった。
「すぐに引っ立てて来なさい! 有無を言わすな!」
「お待ちください」
控えていた殿上人も御簾の外から顔を向けた。額に細かな凹凸がある。なんだと思ったら白砂に長く額づいた痕らしい。
「だって弘徽殿さん、これだけは譲れませんよ。青衣の女御は亡くなったんだ。たった今報告を受けました」
私は首を横に振った。
「いえ、内大臣を招集すること自体はかまいません。連れて来なさい。ただし穏便な形で」
殿上人に私も命じる。だが理性的な私ですら感情を完全に抑えることは難しかった。
「…………表面だけは」
命じられた男の顔がなぜだかひどく青ざめ、「か、かかか必ず!」と声を震わせて答えると飛ぶような勢いでその場を去った。
主上は悲しそうな顔で私を非難する。
「もっと極悪人として扱うべきだ。かわいそうに、あの人は毒を……」
「いいえ!」
強く叫んだ。
「青衣の女御は理由なく急に体調を崩されましたが気丈にも内裏を下がるまで持ちこたえ、その後にはかないこととなりました」
「だけど内大臣は」
「その方は彼女の父です」
初めてそのことに思いあたったかのように、彼は瞳を大きく見開いた。
どんな働きがあろうとも、父の名を汚せば彼女に傷がつく。
「愛する娘の死に無常を感じた内大臣はきっと突然出家なさることでしょう。その用意を整えておくべきです」
「それじゃああまりに甘すぎる!」
主上は不満を口にしたが私はやんわりと押し留めた。
「内大臣の悲しみは深く、邸を捨て遠い田舎の誰も聞かぬほど小さな寺にこもってしまうほどに違いありません」
彼の顔がぱっと輝いた。
「なるほど、それはいい手ですね。それと、相談したかったのは彼女の息子の八の宮の処遇ですが……」
「今内裏にいるのですか」
「そうなのです。たまたま来ていて」
息子に会う間もなく逝ったか。悔恨らしいものが私の胸をよぎる。そしてこの事実がまるで過去をなぞるような形に見えることに気づく。
ただし女は更衣ではなく、残された息子もそこまでは幼くはない。
「とりあえず呼んで励ますといいでしょう。青衣の方の母君はご存命ですし、どうせすぐに葬儀のために里に戻らねばなりません」
「そうですね。誰か、すぐ呼んできて。いっしょにいてくださいね、弘徽殿さん」
すぐに八の宮がつれてこられた。なかなか整った顔の少年だが、源氏と比べると表情に乏しい。事情をちゃんと理解しているのか心もとないほどだ。固く手を握り締めている。
主上は彼にしてはかなり気をつかって声をかけたが、相手にあまり反応がないので下がらせようとした。
「待ちなさい」
思わず声をかけると色のない目を向ける。
「誰か琴を、筝の琴を用意しなさい」
すぐに望みの者が目の前に置かれる。
「おまえの母は筝と琵琶を得意としていました」
子供の目にわずかな色が戻ったような気がする。
雨こそ降ってはいないが心晴れぬ曇り空、あたりの気配も人の心も湿り気が多い。
だが、それでかまわぬ。あの女は水の気配が似合いの女だった。
いつもより細い音が室内に流れる。あえかな響きは山里の霧の気配だ。道は見えない。木の葉の露が滴り落ちる。
微かな水の流れを踏みしだく馬の足音。有明の月。荒い川風が不安になるほどの響きに混じる。
寂しい景色だ。だが鄙に隠れ住む美しい姫を予感させる音が水の気をふんだんに含ませて鳴らしたてられる。
懸命に魂を燃やしたあの女の音。青い焔の色。水底を覗き込むと妖しくその色が揺らめいているが、それはいつしかゆっくりと近づいてくる。
焔は川面に広がり、きらきらしく輝く。青という色がこれほど深く、明るく美しい色であったことを初めて知った。
――――それもそうだ。空も青い
今や焔は川の上に燃え上がっている。そして更に地上にも広がり、薄暗い山が紅葉の錦よりも鮮やかに彩られる。
焔は私も主上も八の宮も包み込むが熱くはない。風のように触れていく。
空は夜空だ。だが焔はそこにも上り青く染めていく。離れるとそれは涼しげだ。
焔は名残りを惜しむように全てを包み、そして静かに消えていった。
どこか遠くで松かさの落ちる音がした。
音が終わっても誰も動かなかった。が、やがて主上が鼻をすする音が聞こえた。それがすぐに二重奏になる。全く同じ泣き方で八の宮が泣いている。妙なところが似ている。
私は二人を残してその場を去った。
「…………お待ちください」
もう弘徽殿にたどり着こうという頃になって誰かが追ってきた。廊を一生懸命走っている。八の宮だ。
彼は私に追いつくと膝をついて深々と頭を下げた。それ以上は何も言えず、もどかしそうに私を見た。
「なんだ」
尋ねても声が出ず、ただ握り締めていた手のひらを開いた。
そこには汗ばんだ手のせいで水気を含んだ筝の爪が乗っていた。
「…………母に、もらいました」
絶対に泣かない、泣くものかと決めていたのに子供はひどい。
私は彼の手をそっと包み込んでそれをまた握らせた。
「大事にしなさい」
扇を強く掴みまた歩き出す。十四年ぶりの爪は少しの傷もなかった。
頭をまた下げた少年を残して、慣れた殿舎を目指して進んだ。