誘い
光源氏十七歳
弘徽殿視点
まだ里に下りて来るには早すぎる時鳥の声を確かに聞いた。届けられたばかりの橘の花に誘われたのかもしれない。さわやかな香が御簾の外にまでこぼれていく。
「例年のことですがありがたいですね」
乳母子が白い花びらの縁をそっと撫でている。
「なんだか懐かしい心持ちになります」
変わらぬ花の香は送り主に似て、人の心をやさしく和ませるものだった。
「花が届いたそうですね」
先触れから多少の間を置いて、東宮(皇太子)がゆったりと板床を踏んで弘徽殿に現れた。
「いい香りだ」
さっそく茵の傍に橘を挿した大甕が寄せられる。彼はちょっと目を細めて花の香を楽しんでいる。
「いつかの騒ぎがなければ私の部屋にもいただけたでしょうね」
「そうだとしても、やはり他からも送りつけられていたはずです」
「ええ、たぶん。ここにも他の部屋から届けられたのではないですか」
「そうでしたが返品しました。理由のない贈答品などもらうつもりはありません」
次世代とつながりたい者たちが、息子にやたらと花を贈った年がある。一度限りとして受け取り、以後は断った。すると翌年さっそく私のもとへ持ち込まれたがその場で返した。
東宮は穏やかな笑みを浮かべて私を見た。
「さすがは母上。他の者ではそうきっぱりと事を運べませんし、相手も聞き入れませんよ。私もその時花を運んだ者たちとは未だに縁がありますしね」
花こそあきらめたが各々の女房が梨壷の取次ぎになっているようだ。不思議に思って彼を見る。
「聞き入れぬのなら女房に持たせて相手の部屋に返しに行けばよいではありませんか」
彼の笑みが深くなる。
「そうできる者は意外と少ないものですよ。私は本当に実の母が母上でよかったと思ってます」
思わぬことを言われたので目を合わせていられなくなって横を向いた。
「あちらこちらからいただけなくなっても花はいいものですね。季節の移ろいも花に彩られて際立ちます」
「あなたも立場上、昔のように気楽に遠出ができないから、見ることのできる花にも限りがあるでしょう」
彼は私の周りの女房たちに静かに視線を流した。
「代わりにみなさんの衣装で花を楽しめますよ」
女房たちが嬉しそうに微笑む。花とは思えぬ乳母子までそのつもりになっている。
――――かの光源氏なら、みなさんが花ですからと追従するであろう
息子はそんな見え透いたことは言わない。それでも女房たちはちょっと艶を増したように見えた。
彼は何事も過剰にならぬように気づかっている。バランスを考慮し、日のあたらぬ者にもわずかな喜びがあるように配慮する。なかなか優れた資質を持っている。
だから帝になった折りには政の中心となるように勧めてみた。ところが彼は首を横に振った。
「いえ、それは右大臣や母上にお願いします」
「なぜです。年の頃も充分で、いつその時がきても困ることはないでしょうに」
彼はこの春に二十歳となった。
「ええ。ですが私は母上ほど学に優れているわけではありませんし、この形のほうが人の気持ちをなだめやすいと思うのですよ」
「どういうことです?」
東宮は少し身を寄せてそれに答えた。
「政ではどうしても排除するべき者や勝利者が出るでしょう。それを帝の立場の者が決定すると、ある者は過剰におごり別の者は過剰に落ち込む気がします。右大臣や母上になら上げられても用心し、下げられてもありふれたことだとあきらめられると思うのですよ」
見よ、この細やかさ。やはり帝となるべく育てられた者は違う。
「わかりました。では悪役に徹しましょう」
「そんなつもりではないのですが……ありがとうございます」
「その態度あなたの父上にも見習ってほしいものです」
彼も昔よりはだいぶ本音を隠すようにはなってきたが、これほどの域には達していない。やはり生まれついて疑いなきまうけの君(皇太子)として育った者と、状況によっては別の可能性があった者の差なのかも知れぬ。
息子は困ったように首をすくめ、薄情な父をけなすこともせずただ私の言葉を慣れた感じで受け流した。
梨壷に戻る行列は次期帝にふさわしい品位と美を見せて、女房たちは口々に誉めそやした。
息子の世は近づいてはいるがその割りに待たされる。もちろん私や父が強要すればすぐにでも実現できるが、私のどこかがそれを拒んでいる。
――――帝を退けば仙洞御所(上皇住居)に移らねばならない
求めるのなら、そこには私の部屋も用意されるはずだ。しかし内裏と違って小さく他者に動向を悟られるその場所で、他よりも低く扱われたとしたら、果たして私は平静でいられるだろうか。
否ッ! 絶対に無理だッ。
いやそのように扱われるわけがないが、主上は過剰に藤壷の宮に情を示して見せる。
そのこと自体に妬みはない。むしろ憐れみさえ感じている。それは彼女への気持ちが最初の女からの派生で、本人そのものを欲しているわけではないからだ。
しかしだからといってそれ以下に遇されて許すつもりは皆目ないッ。
「気をつける相手は藤壷ばかりではありませんよ」
乳母子が釘を刺す。
「最近は、あの内大臣の女御が地味に位置を上げてきています」
「ほう。どのようにして」
あの青衣の女御が動いたか。乳母子は心持ち不機嫌そうにつぶやく。
「まるで埋み火のような女ですね。消えたかと思うといつの間にかまた燃え上がっている」
不満を口にした後に集めた情報を披露した。
「五年ほど前に例の妙な事情で漢学を進められた主上が、その後傷心を紛らわせるために更に深く学び続けられていたのですよ」
「ほう」
ならばわが元で学べばよいではないか。その思いを目線だけで読み取った彼女が、いやいやと片手を振った。
「あまりに学識深い方を前にすると素人に毛の生えた程度のものは気後れするものですよ。藤壷の宮も多少はなさるようですが、こちらは年齢がネックとなってうかつなことは語れない。あの女はその隙間に上手く入り込んだのです」
疑問を持った。
「あの女御が漢学に優れているとは聞きませんでしたが」
「ええ、元々は。しかしあのやり手のお父上が学ばせさせたらしいのです……中宮とするために」
慣れた日々の暮らしに沸き立つこともなかった血潮が、急に渦巻き遡ってくる。乳母子はそれに気づかぬように話を続けた。
「今では相当のものらしいです。気を張るような相手ではなし、主上はあちらに通われた折りにその手の話を楽しんでいらっしゃるとか」
「あの方には男皇子もいらっしゃいますからね、用心なさった方がよろしいです」
息子にはまだ子がいない。もし位につけば親王の一人が次の東宮となることが必須だ。
「あの方の御子と言いますと……」
「八の宮様ですね。八歳となられていらっしゃいます」
「お人柄などは知りませんがなかなかきれいな顔立ちです」
一度見かけたことがある。もう五年も前のことだ。月の早い夕暮れ、興にまかせて筝を弾いていたときに軽い足音が響いた。
この私が曲を奏している折りに邪魔立てする者は主上以外にいない。不審に思って指を止めると、三歳ぐらいの幼児が御簾前に座り込んだ。
「……この子は?」
「着ているものからして下の者とは思えません。お目見えに来た皇子さまのお一人では?」
女房たちが名や母を尋ねたが黙っている。ひどく無口だ。なかなか整った顔をしている。
「琴が好きか?」
尋ねるとこくん、と首を振った。
子供のために琴を弾いたことがないわけではない。その子の元に茵を運ばせてそこに座らせ、親しみやすい曲を弾いてやった。
子供はまったくの無表情だったが、時たま指先が少し動いているのを見ると楽しんでいるようだった。
弾いている内に女房を動かし探らせると、やはり連れてこられた皇子で八の宮だった。普段はひどく大人しいのでちょっと目を離した隙にわが殿舎にまで遠征してきたらしい。
菓子を与えた後にその女御の部屋のあたりに連れて行かした。相手は察して謝礼の訪問があったが覚えがないと突っぱねた。
「わたくしも覚えていますが、子供の頃の源氏の君と違ってまったく感情が見えませんでしたね」
「ああ、あのお子ですか。さすがに品はありましたが少々子供らしさに欠けるように見えました」
「ですがあの頃はまだ三つでしたからね。初めて一人で動いて緊張なさっていたのでしょう」
里で育った少年の噂までは耳の早い女房たちもまだ聞きつけていないようだった。
その話をして幾日もたたないころに帝のもとから誘いが来た。女官が礼儀正しく伺いを立てる。
「ささやかな漢詩の集いをもうけようと思っています。ぜひ参加をお願いします」
乳母子が問いただした。
「それは後宮の者たちが集うのでしょうか」
「はい。ただし三人だけです」
私と藤壷の宮、青衣の女御の三人だけが予定されている。他に漢学に長けた者はいないらしい。直接尋ねてみた。
「殿上人の集いのように漢詩を作るのですか」
それなら得意としている。ところが女官は首を振って否定した。
「いえ、女御さまがその道に長けていることは存じておりますが、他の方はそこまでは身につけていらっしゃらない。公平であるように、唐国の詩人の既存の作をそれぞれあげて話し合うだけの穏やかな会です」
ちょっとがっかりする。他の女御たちもどうせ学ぶのならそこまで極めればいいのに。
それでもうなずくと乳母子が了承の意を伝えた。
「わが主はその催しに加わるにやぶさかではありません。しかし集まる場所はどこでしょう」
女官は長々しく礼を述べ、その場所を告げた。
「麗景殿が予定されています」
ちょっと驚いたが乳母子も目を丸くした。
「あちらの方が漢学を学ばれているとは存じ上げませんでした」
女官は落ち着いた態度でそれに応えた。
「いいえ、麗景殿の女御さまはお聞きになるだけで参加はされません。あくまでオブザーバーとして場所を提供なされます」
そろそろ五月雨の始まる季節だ。気晴らしとしても悪くはないし、他の女たちの漢学の程度を測るにちょうどいい。それに麗景殿なら訪れたことがないわけではない。
「……では当日よろしくお願いいたします」
女官たちは腰低くこちらに礼を尽くし主上の元へ戻っていった。