花争い
源氏十二歳
藤壷視点
女房が御簾を掲げると、帝が落ち着いた様子で中に入ってくる。几帳の合間から目をやると、ほんのわずかな間だけ隔たりもなく外が間近に見える。
始まりかけた夏の気配が心を躍らす。帝も久しぶりにご機嫌がよさそうだ。
「あなたを見ていると気が晴れますね」
向けられる視線は昔の人の面影を探している。それはいつものことなのにちくん、と痛みが胸を走る。
不思議だ。最近になってそのことが気になりだすなんて。全てわかっていたことなのに。
気をそらそうともう一度外を眺めると、藤の花が優しい色合いで重たげな房を風に揺らしている。
「今が盛りですね。実に美しい…………あなたにふさわしく」
そう言ってまっすぐにこちらを見るので、恥ずかしくなって下を向いた。
ずっと年上の方へこんなことを思うのも変なのだけれど、近頃帝は表情の一つ一つが微かな憂いと影を含んで以前よりも大人っぽく見える。私に向ける笑顔さえなにか翳りが感じられる。
そして私はそんな彼を見つめると、なぜだか胸の鼓動が急に速くなる。
――――これが恋なのかしら
わからない。だけど今まで経験したことのない感情なのは確かだ。それはもう散ってしまった桜の花びらのように淡いけれど、いつまでも溶けずに心の底に潜んでいる。慣れていないからちょっと苦しい。
帝がお帰りになった後もなんだか落ち着かなくて藤の花を見ていると、よその殿舎に遊びに行っていた中納言が、女房として許される範囲の上限の速度で帰ってきた。
「どうかしたの?」と一人が尋ねると勢い込んで「花を贈りましょう!」と叫んだ。
みんな困惑して黙っていると、聞いたばかりの話を伝えてくれた。
「麗景殿の女御さまが、お里に咲く花橘を東宮さまに差し上げることになったそうです」
中務がおっとりと首をかしげた。
「そういえばあちらの方は弘徽殿の女御さまといくらかは親しいようですわね。そのご縁なのかしら」
「だとしてもあの方、大人しく見せかけて大したタマですわ。さっそく次世代のトップへ擦り寄っていくなんて!」
みんな騒然となったが中務がまあまあとなだめる。
「橘はまだ咲いてもいないでしょう。もう少し話を待ったらどうかしら」
中納言が何を甘いことをと言わんばかりのけわしい眼差しで中務に詰め寄って主張した。
「すでにわれわれに先んじて山吹の花を送った女御がおります。ちょうどこの飛香舎の象徴たる藤の花が盛りです。すぐにこれを贈りましょう!」
他の女房たちが困っているから私が止めた。
「東宮さまの元服の時こちらから絹をお贈りしたように、なにか理由がある場合はいいと思うわ。でも今までそんなことをしていなかったのに唐突に花を贈られたら、あちらの方も途惑うと思うの」
「でも、山吹の人が……」
「勇んで贈った方のほうではなくて届けられた梨壷の反応を探って。それと、麗景殿の女房とつきあいのある人はいるでしょう。そちらの方にも事情を聞いてみて」
彼女たちが急に身を引き締める。ちょっと考えて大事なことを思いついた。
「それと……帝はこのことをご存知? 自分の妃がかってに東宮さまと親交を深めることをお喜びになるかしら」
女房たちが顔を見合わせて「確かに」とうなずきあっている。
「女官の元にも誰か行って探ってみて。帝がご存じなかったとしてもすぐに噂は伝わるでしょうから、梨壷の方から知らせた方がいいと思うわ」
「さすが宮さま。賢く成長なさって、みな感に堪えません」
「ほめられるほどのことではないわ。さあ、それぞれ動いて。他の殿舎にもできるだけ話を聞いてきてね」
つてのあるものがみな立ち上がった。人が少なくなったので、日のあるうちから弁を傍に寄せて漢籍を楽しむことができたのは嬉しかった。
「本当に、あのままでしたら危ういところでした」
中納言が胸を撫で下ろしている。
「気のきかぬ殿上人が山吹の花のことを帝にお話して、その場では穏やかにお聞きになっていらっしゃったけれど、プライベートゾーンではご不快をお表しになったとか」
「その方のところにはそれきり足をお向けになっていないようです」
「花のことだけではなく、届けた女房がその部屋で最も名高い者であったことも災いしたようです」
育ちもよく才もあり特に美しい者が山吹を抱えて東宮さまのいらっしゃる梨壷を訪れたらしい。
「あちらに仕える者も断ったようですが、それでは勤めが果たせませんと相手に泣かれて仕方なく受け取ったようです」
「当初はうまくいったとほくそ笑んでいたらしいのですが、帝がご不快であると伝え聞いて真っ青になったとか」
「で、帝の元にも花や文を届けたけれどお返しもなくて」
「さすがにお気の毒だわ。どうなさったの」
人の悪い微笑を浮かべている女房も、少し眉を寄せている者もいる。
「…………困ったあげくに弘徽殿の女御さまに泣きついたそうですわ」
「見下げ果てた根性ですこと」
棘のようなものが胸の奥をつつく。
よそう。あれは夢なのだし。それに本当であったとしても悪意のある言葉ではなかったはずだ。
なのに、体中の血が逆さまに流れるような気持ちになる。
これは帝に抱くあのざわめくような感情がもたらしたものなのかしら。
「で、結局あの方のとりなしによってことなきを得たのですけれど、不満を抱く女御や更衣もいたので、この際東宮さまに花を贈りたい者はみな届けてしまおう、ということになって」
中納言はルールの説明に入った。
「参加する者は本日より二月の間に咲く花を東宮さまに届けること。ただしそれは今回のみです。お返しは秋に梨の実が平等に下賜されることになりました」
梨壷の名の由来の木になる実なのだろう。
「帝は了承なさっているの?」
「もうすでに贈ってしまった者がいるので、続けてくださいということでした」
フライングした者に合わせることになったらしい。
「それにしても麗景殿の方はなぜ東宮さまに花を贈ることになったのかしら」
「お礼らしいですよ。あの方は長く見捨てられたようになっていたので、里へ戻って二度と内裏へ参らぬ予定であったのを東宮さまがとりなされたとか」
「お優しいことですわね」
女房の一人がいくらか残念そうな声で言った。ライバルは少ないほうがいいと思ったのだろうけれど、あまり脅威にもならず評判のよいその方のことだから、それ以上のことを言い出す者はなかった。それよりも東宮さまのお人柄についての賞賛がしばらく続く。私も賛同する。お母上のような強い気性の方ではない。
「そろそろ花の支度を」
「待って、他の部屋の様子を知りたいわ」
止めると、一人が歯がゆそうに申し立てる。
「藤の盛りは限られています。できるだけ早く届けられた方がよろしいのでは」
私は譲歩しなかった。
「それでも。花の種類よりどんな女房に届けさせるかが知りたいの」
「と、言いますと?」
「山吹の人は評判の高い人を使って帝の不興を買ったのでしょう。他の方がどう出るかが気になるわ」
いく人かがうなずいた。
「あまり重みのある人を使っても帝に失礼だし、かといって軽輩でも東宮さまに失礼。難しいですね」
「まずは様子を見ましょう。藤ももうしばらくは持つと思うわ」
御簾の向こうに目をやりながらそう言ってみた。
最初に動いたのは青衣の女御だった。里の池の汀に咲く杜若をかなり年配の乳母に持たせた。
「……なかなか見事ですわね」
「辣腕のお父上の助言があったのかもしれませんが」
乳母という重い立場であるが人柄には重々しさのない方で、身分も低くはないがさして高いわけではない。適切な選択だと思う。
次にはある方が、姫シャラの白い花を美しいと評判だが身分はやや劣る女房に持たせた。
「どうにか許容範囲だと思いますが、もう少し地位の高い者を使った方がベターですね」
「先の方と比べれば評価は少し落ちますわね」
別の方は腹違いの妹に、さわやかな卯の花を運ばせた。
「帝が少々ご不快のようでした」
「従妹あたりならよかったのに」
下馬評は高くはなかった。しばし否定したあと彼女たちは話し合いを始めた。
「そろそろ頃合だと思いますが、誰が行きます?」
中務がおっとりと志願した。
「わたくしが行きますわ」
彼女も身内筋が親王で地位は中務卿だった。でも他の女房がそれを止めた。
「あなたでは立派すぎますわ」
「じゃ、わたしが行くわ」
王命婦が手をあげたけれど、この子も賛成されない。
「宮さまの筋じゃない。あなただって重過ぎるわ」
「わたしは?」
「あなたは低すぎ」
なかなか決まらない。私はちょっと考えて弁に目をやった。
「…………行ってくれる?」
彼女はうなずいた。
「あら、あなたちゃんとご挨拶できるの」
「…………できます」
落ち着いて答える彼女に尋ねた女房が鼻白んだ。久しぶりに弁の声を聞いた。
私の乳母子だけれど華やかさのない彼女は適切だとされたので、梨地蒔絵の硯箱の蓋に、藤の花の和歌の書かれた白い扇をのせその上に花を置いて運ばせた。
「…………とても喜ばれました」
報告を聞いてほっとした。それと難しい後宮政治をどうにかこなしたような気がしてちょっと嬉しかった。
「……お知らせくだされば喜んで使者の役割を引き受けましたのに」
御簾の外で光君が残念そうな声を出した。元服したあともよく訪ねてくれるけど、もう中に入れることはできない。大人っぽい姿もよく似合って、姉の気分の私も満足だ。だけどその言葉には賛成できなかった。
「他の方に悪いから、そんなわけにはいきません」
めっ、と叱るみたいに言ってみたらなぜか彼はニコニコした。
「藤壷の宮さまは特別な存在ですよ。内裏に輝く日の宮です。他と違ってあたりまえだと思います」
「お上手ね。でもそう言ってくださって嬉しいわ」
彼の顔が輝いた。
「でしょう? それに私なら、父も兄も喜んだでしょうに」
家族にも世間にも愛される彼の自信は微笑ましい。つられて笑うと光君は本当に日の光みたいな笑顔を見せ、それから急に真剣な面持ちになった。
「宮さまの御用を務めることがこの私の最大の喜びです」
なぜか帝を思い出してちょっとどっきりしたけれど、口が上手いとみんなが笑うから、私もいっしょに微笑んだ。