風
麗景殿視点
源氏十二歳
風が強く吹いて御簾が揺れる。几帳まで揺らめいてひやりとしたが、孫廂に人が現れた頃にはどうにか落ち着いていた。
大人っぽい姿の源氏の君は、ゆっくりと気品ある風情で歩いて来て御簾の前にたどり着くと礼儀正しくあいさつの言葉を述べた。
「……女御さまにはよりいっそうのご指導ご鞭撻を…………」
「あら、いやだわ。こんなご立派な方にご指導なんてできないわ」
彼はちょっと困ったような顔で私を見た。
「形だけですよ。中身なんか全然変わりません。それどころか走ることも御簾内に入れてもらうこともできなくなって、つまらないです」
そういってちょっとだけ口を尖らせた。でも格好に似合わないからかすぐにそれをやめた。
「これ以上私の居場所を奪わないでください。いつも不安で心もとなくて、胸のうちを風だけが吹いているような気分です」
「まあ。でも新しい家族ができて楽しいでしょう」
温和で人のいい左大臣の一粒種の姫が彼の正妻となった。その方はとても美しく優れた方だと聞いている。
「ええ、そうなんですが……」
奥歯に物が挟まったように口ごもっていたけれど、じっと見つめ続けるとふいに表面の薄氷が溶けたように、中から何かがあふれ出した。
「絶対に内緒にしておいてください。もう、ここだけなのです、私が正直になれるのは」
「まあ、光栄だわ。もちろん誰にも言いませんわ」
光君は勧められた円座の上で少し姿勢を崩した。端正な美しさが親しみやすい美しさに変わる。女房たちがほおっと息を呑むのが聞こえた。
「はっきり言って気疲れしています。できれば行きたくないです」
「なあぜ。素敵な姫君なんでしょう」
「ええ。でも私は別の…………いえ、たとえば女御さまみたいな方がよかったな」
言葉の途中でなんだか口ごもったけれど上手につなげた。
「まあ、嬉しい。だけど一生を共に歩いていく姫君は年の頃も近くていろいろと優れた方がよろしくてよ」
「わかってますよ。素晴らしい方なんですよ。だけど優しさのかけらもなくてひどくよそよそしい。観音さまの像かなんかを妻にしている気分ですね」
私が笑い出すと彼もちょっと口もとを緩めた。だけどまたすぐに目元が厳しくなる。
「こんな風に面白がって下さる優しい方だったらよかったのに。あの方はにこりともなさらない。女房が付き合いで笑ってくれるけどかえって惨めですね」
「お年もお若いし緊張なさっていらっしゃるのよ」
「そうは思えません。年だって……たとえば藤壷の宮とほとんど変わりませんよ」
それは酷なことだわ。宮さまはあの方の妃の一人だから、童形だったこの方に気を張ることはなかったと思う。だけど入内さえ期待されていたその姫君にとっては初めてで唯一のダンナさまなのだから、どうしても恥ずかしがってしまうのではないかしら。
「私だって入内の時は緊張でコチコチに固まった氷の姫でしたわ。それを帝は優しく溶かしてくださいました。光君も気長にリードしてあげて」
「努力はしているのですが疲れてきて。三日もいれば限界です」
「でも内裏に長くいるのも大変でしょう」
元服前と違って様々なルールを守らなければならない。賢いこの方は上手にこなしているし内裏の居場所も淑景舎(桐壷)だけど、こちらだって気疲れすることも多いのじゃないかしら。
「それを心配して父上が、修理職や内匠寮に命じて二条の邸を改築してくれることになりました」
「それはよかったわ」
「古いけれどけっこう趣のある場所なのですよ。出来上がったらぜひ遊びにいらしてください」
「ありがたいお話だわ」
何かと制約のある女御の立場だから訪れることができるとは思えないけれどお誘いは嬉しい。
「これで一息つけます。女房たちも喜ぶでしょう」
「仕えていた人たちがほとんど残っているんですってね」
「ええ。左大臣の所にもとても優秀できれいな人たちが集められているけれど、やっぱり昔なじみの者のほうが気楽です」
主を失うと普通は散り散りになってしまうのに、その人たちは結束が固い。亡くなられた方がどれだけ慕われていたのかが推し量られるほどだ。華やかではないけれど落ち着いた人柄を感じさせる者ばかりだ。
「厳しいんですよ。でもどれだけ尽くしてくれているのか最近やっと気づいてきて」
「成長なさったのね」
「そうですね。いろいろなことを見聞きするうちに、うちの者は本当にいいやつらだってわかってきました」
後見もないのに帝の寵愛を一身に集めていた桐壷の更衣の元で働くことはたやすいことではなかったと思う。
「大事にしてあげてね」
「ええ、もちろんです。以前こわい方にも注意されたし」
そういって彼はまだまだ子供っぽさの残る瞳で笑った。私もつい噴き出してしまう。
弘徽殿の女御さまはほとんどオフィシャルな彼の天敵だ。隙を見つけるとストレートに批判してくるけれど、彼は苦笑いしつつかわしている。
仲良くしてほしい気持ちもあるけど、止めようとは思わない。なんだか必要なことのような気がする。
私には子供がいないからよくはわからないけれど、母という存在は優しいだけではいけないと思う。でも、私を含む後宮の女たちは可哀想で可愛いこの方を思いっきり甘やかした。優れた資質のこの方であっても少し歪んでしまうほどに。その上帝の溺愛もあった。
光君が打たれ弱いやわな男にならないでいるのは、あの雄々しい方の薫陶のたまものだと思う。
「兄上にまで気を遣わさせてしまったこともあるのですよ」
「東宮さまに?」
「そう。女房の衣装を下賜されました。楽しかったと言ってくれたけど」
優しい東宮さまらしい。兄弟の仲がいいのはとても微笑ましい。源氏の君には他にも兄弟が増えたけれど兄にあたるのはこの方しかいない。
私にも子供がいたらきっとどちらの方も優しくしてくれたと思う。
また風が出てきて御簾が揺れた。ほんのちょっとだけ隔たりなく見えた光君はりりしくて、帝に少しだけ似て見えた。
彼の帰った後の麗景殿はいつもより広く感じた。それでも訪れる者の少ない日々の暮らしが慰められて、女房たちも会話が弾んでいた。
いつもは何もすることがない。気を奮い立たせて和歌を読んだり琴で遊んだりしているけれど、あまり意味のない毎日だ。
――――もう、ここにいるべきではないのかしら
後宮には妍を競い合う華やかな女たちが必要だ。後見も薄く時めくこともない私は退場するべきなのかもしれない。
里に帰れば妹もいる。彼女と二人ひっそりと目立たぬ暮らしをした方がいい。
――――あの方の気配さえ感じることがなくなるのは寂しいけれど
会えなくても近くにいたかった。女房たちが伝えてくれる話を聞くだけでも嬉しかった。だけど、もう潮時ではないかしら。彼を慰めてくれる女たちはいくらでもいる。だけど妹には私しかいない。
――――光君を見かけることもなくなるのね
成長していく彼を見ることは楽しかった。彼が育てばその分妹も育つから、重ねて眺めてしまうこともあった。
これからは逆に妹の姿を見て光君を思い出すことになるだろう。そして彼の面影から更に帝を思い出し、邸の寝殿でちょっと涙を抑えられなくなることもあるだろう。
「…………女御さま?」
「少し疲れました。休みます」
まだ夕闇さえ降りては来ていないのに、御帳台にこもって運ばれる夕餉さえ断った。
結局私は臆病なのだと思う。決意はついたのに言い出せず、次の日も鬱々と御帳台にこもっていた。そこに意外な方からの先触れの女房が尋ねてきた。なんと梨壷の東宮さまからだった。
「お時間があるようでしたらほんの少しだけでもお会いしたいとおっしゃっております」
他よりも権高な様子の女房が、まさか断る気はないでしょうねと言わんばかりに凄みをきかす。もちろん私はそうすることなどできない。滅入っていることも忘れるほどびっくりしてうなずくと、女房が了承の意を伝えた。
東宮さまのお住みになる梨壷は一番近い殿舎だ。私の女房たちは帝がいらっしゃる時よりも勢い込んで部屋を片付け、燻らせる香もおとっときの品を選んだ。
足を運んでくださった東宮さまは廂の間に敷かれた茵にお座りになった。御簾と几帳越しだけれど源氏の君よりも帝に似てらっしゃる。でも身のこなしはとても優雅だ。
「ご迷惑をかけてすみません。ご気分は少しは上向かれましたか」
不調が知られていることに驚くと、申し訳なさそうに女房から伝え聞いたことを謝って下さった。
「間違いであることを期待しているのですが、長く里下がりをするおつもりになっていらっしゃいませんか」
「まあ、どうしておわかりになられたのかしら」
言い当てられて驚くと東宮さまは困ったように微笑まれた。
「勝手な想像なのです。後宮の人も増えて特に重く扱われる方もいる中、今はお父上の様子が芳しくないこちらの方がそうお思いになっているのではないかと憂慮していました」
帝が藤壷の方に足繁く通われていることは知っている。そしてそれが仕方がないことだとわかっている。
「お帰りにならないでください」
帝にそっくりな瞳が懇願するように私を見つめる。
「麗景殿の女御さまはこの後宮の要なのです」
「まあ、どうして。あなたの母上さまや藤壷の方ならわかるけれど」
純粋に不思議だ。子もいず後見も薄い私など意味のない存在だ。でも東宮さまは真摯な瞳で語りかけてくださった。
「私は居場所が梨壷であったせいであなたがいかにに素晴らしい方か知っています。そして父も弟もあなたを心の支えにしていることがわかっています」
「あら、かいかぶっていらっしゃいますわ。私は後見も薄く子もおりませんのに」
東宮さまはとても優しい目で私を見つめた。
「ええ、知っています。だからこそ父は安心し弟はあなたに心を許しているのです」
穏やかだけれどとても深く物事を考えている瞳だ。
「二人はあなたから向けられる純粋な好意でやっと心を保っているのです。たとえば父には私の母もまったく濁りのない気持ちを向けているのは確かですが、彼はそう信じることはできません。祖父である右大臣の立場を保つためであるとの疑惑を捨て去ることは出来ないのです。そして弟も他の方々が自分に向ける視線は本当の子供以下であることを知っています。表面よりも繊細な彼は明るく振舞いながらも他の方々に気を許してはいません」
驚いたけれど控えめに否定する。
「藤壷の宮も多少は近い立場ではなくて?」
彼女も子はいないし親王たる兄しか後見はいない。けれど彼は首を横に振った。
「宮さまは他の方に似すぎているようですから」
桐壷の更衣のフェイク、その位置づけは消えない。二人にとってどんなに大事でも最初の方の存在があってのことだと思ってしまう。
東宮さまは優しく温かい声で私に語りかけてくださった。
「あなたは誰にとってもこの後宮の灯火なのです」
「まあ。とても信じられませんわ」
「そうですか。それでは賭けをしましょう」
少し面白がっているような顔をなさる。
「帰りしだいあなたが後宮を去ろうと思っていることを父に告げます。すぐに駆けつけてきますよ」
夢のようなことを言われてついうっとりするが、私には現実が見える。
「もう長い間お会いしていませんの。もう私のことなど忘れていらっしゃると思いますわ」
東宮さまはきっぱりと否定なさった。
「そんなことはありませんよ。そうお考えなら私の勝ちです」
「まあ、何をお賭けになるの」
「そうですね。もうすぐ花橘の季節ですね。いつも母に届けてくださるその花を今年は私にも一枝くださいませんか」
「あら、そのていどでしたら賭けなどなさらなくても」
彼は楽しそうに首を横に振った。
「いえ、賭ける事が面白そうなので。こちらが負けたときの条件はどうしますか」
ちょっと考えてからお願いした。
「私の妹を東宮さまの妹のように扱ってくださると嬉しいですわ」
「わかりました。約束ですよ」
互いににっこりと笑って、親しい親戚のように別れた。
取次ぎの女房が息を切らして現れた。
「……すぐに帝が…………」
声の途切れぬ間に彼が来た。
「麗景殿さん!」
懐かしい顔が真っ青になっている。
「嘘ですよね! 私のもとから離れたりはしませんよね!」
頬が濡れるのを感じた。東宮さまに妹を頼むよい機会を逃したはずなのに心は躍った。
「…………私など、何の役にも」
帝は私の腕を掴んだ。
「いろいろなことにかまけてなかなか訪れることがなかったことを謝ります! お願いです、戻らないでくさい!」
私は焦った。
「謝らないでください。私などは後見も薄く充分に支えることもできませんから」
「関係ないっ」
帝は憤激した。
「どんなに人が増えても、めったにお会いできなくても、あなたは私の大事な方だ!」
他にもっと大事な方がたくさんいようとも、今このときばかりは彼は私だけを見ている。
「…………光栄ですわ」
自分の声が震えているのに気づいた。帝はもう言葉もなく、ただ私を抱きしめてくださった。
御簾がまた揺れている。だけど私の心はもう、揺らぎもせず、ただ一人の方に寄り添っていることだけを感じていた。