元服
弘徽殿視点
源氏十二歳
風が吹いて、花が散る。
ひどくありふれた自然の摂理だ。
風が吹いて、花が舞う。
世は全てこともな……くはないッ。
年が明けて光の色が濃くなった頃に、清涼殿の東廂で源氏は元服した。前年の東宮に勝るとも劣らないほど華やかな式だった。
加冠の後には衣装を着替えて、東庭で拝礼の舞をする。並ぶ者はみな滂沱の涙だったそうだ。特に主上は。
その夜源氏のために用意された添臥は左大臣の姫君で、私が息子のために望んだ相手だった。完全な報復人事だ。報告を聞いて東宮に謝りたくなった。
彼は穏やかな性格で、私をも父をも恨まない。臣下に下った源氏が親王たちの末席につくのを見て心から心配するほどの人柄だ。だからこそキツい。
漁夫の利を得た源氏への怒りも、さっさと娘を差し出さなかった左大臣への憎しみもある。特に後者は感情部分を除いても納得がいかない。
一族の全てをになう藤原長者唯一の娘が、立太子の見込みのまるでない者に与えられることは道理にあわない。
次の代はわが右大臣家が手にすることになっているが、まともな上卿ならすかさず手を打つはずである。なのにこの男は平気で源氏に娘を捧げた。あほうとしか思えない。
主上の寵を頼りに源氏が東宮の地位につくことはありえない。
親王の位を下りて臣下となった者が東宮となった例は宇多の帝の件があるが、あれは特殊例だしその母は女王で女御でもあった。当時の状況もあれば、藤原長者の基経の異母妹淑子の持つ影の力のせいでもある。
女御腹の皇子が他にも生まれた現在、主上がそう望んでも更衣腹の彼がそうなることはけしてないのだ。
「強引なことをなさいますね」
乳母子も眉をひそめた。
「左大臣の姫君は臣下に向いた育て方はされていませんし、年の頃も東宮さまの方に合いますのに」
源氏より四歳上らしい。
「過ぎたことを言っても仕方がない」
自分に言い聞かせるようにつぶやく。乳母子は少しの間私を眺め、それからうなずいた。
痛みの中にわずかに浮かんだ安堵の色に気づいたのかもしれない。
苦く笑って回想に耽った。
期日はなかなかわからなかった。主上は容易にしっぽをつかませなかったし、のらからの連絡もなかった。
突破口を開いたのは更衣上がりの女御だ。最近、青衣の女御と呼ばれるその人はひそかに女房に文をことづけてくれた。
――――お元気でいらっしゃいますか
ただひとこと書かれたそれを見て、人を払って真意を問うと、極めて異例な訪問が予定されていることを教えてくれた。
「主上と宮さまが女房をつれずにこちらにいらっしゃいます」
日にちと刻限以外のことはことづけられた女も知らなかった。礼を述べて帰した。
その後しばし思案したが、主上が陰陽の者を呼ぶとしたらこの女御の部屋ではないと思う。あの辺りはいくら人を払っても誰かに見られやすい。
とするとどこか。後宮内を考えてみて承香殿の女御が現在里に帰っていることを思い出した。そこにはもう四人目となる男宮がいる。今回は当分は戻らないそうだ。留守番の者が多少いるはずだからそのまま使うとは思えないが、この辺りに人は少ない。そして隣の仁寿殿はがら空きだ。
――――いやな縁だな
たぶんここだろう。かつて深夜に訪れたことがあるので内部の造りはだいたいわかる。ここに当日張り込むことに決めた。
その夜遅れたのは乳母子のせいである。仁寿殿に行くことを告げたら大反対された。
「あそこは二面の化け物がでるんですよ! 女御さまを危ない目にあわすわけにはいきません!」
いつになく強く主張された。押し問答をしつつ、過去の出来事をほんの少し明かしてどうにか抑えた。
「危ないようでしたらこの身にかけてお守りいたしますから、絶対に見捨ててください。絶対にですよ」
乳母子は強い口調で言い放った。軽い気持ちでのらに会わせたことを後悔し、自分に怒っていたのだろう。彼からの連絡も握りつぶしたのかもしれない。
一方、青衣の女御の真意は何か。
本気で中宮を狙ってこの弘徽殿をつぶしに来たか。後宮の安寧を願っただけか。主上のことを心配したのか。
まったくわからないが、なかなか面白い。
冷たく暗い廊を渡り、承香殿の前を通って仁寿殿にたどり着いた。扉は固く閉まっていたが、私が触れると難なく開いた。二人で入り込むとなぜか音もなくそこは閉まった。
妙だと思う間もなく、目の前の闘いに気をとられた。だいぶ遅れてしまったらしい。
妙に明度の低い明かりが宙に浮いていた。鬼火のような光に照らされて、手足を縛られた女が呆然と争う人々を眺めているのが見えた。藤壷の宮だ。
のらは苦戦しているようだったが、倒れてもなお陀羅尼を唱える老人のためか持ち直した。薄暗いのでおぼろだが墨染めの衣を身につけているようなので、こやつが聖だろう。
敵であるらしい男は三十過ぎほどで、悪くもない容貌だった。のらと同様の白い狩衣だが烏帽子はかぶっている。彼は憎々しげな笑みを浮かべた。
「なるほど。なかなかのものだ。だがこちらにも奥の手がある。…………おまえに教えたことがあったな。最高の呪は人であると」
「あにさん、まさか……」
「至高にして最強の北辰(北極星)の力を見せてやろう。いざ!!」
敵の男はよりいっそう陰惨な笑みを深くした。男たちの間にいる藤壷が、ふいに目を閉じて床に崩れるのが見えた。
理解したのだろうか。しないほうがいい。北辰が何を意味するのかを。
男は続けた。
「彼こそが日本最上位の代名詞だ!! まさかこの男が来てくれるとはッッ。名前の言えないあの方ッ!!」
北辰はあまたある星の中心で、紫の光芒を持つ高貴な星だ。そしてそれは神格化されて天皇大帝とも呼ばれる。つまり、この世では帝のことだ。
冬の名を持つ男に魂を縛られたかのように、主上が暗い影をまとって闇の中から現れた。
のらは呆気に取られたように男の声を聞いていたが、肩を落としてため息をついた。
「あにさんもとりっぷしはったんやなあ」
それから視線を鋭くすると、男に向かって言い放った。
「確かになあ、陰陽の道筋をつけたんは海の向こうのあの国や。だけどこの国に入ってからはこっちの事情も取り入れたったことはあにさんも知ってはるやろ」
「…………なにが言いたい」
男は頬を歪ませてのらに凄んだ。
「最強の呪を前にしての時間稼ぎか」
のらは恐れずに片頬を緩ませた。
「北辰は必ずしも最強じゃ、あらへん」
「なにっ」
「この日の本の国はその名のとおり日の神さんが大神やわな」
「…………」
「そしてその神さんが女であらせらることはご存知でっしゃろ。その力を身につけたお方は今世にもおる!」
のらが派手な身ぶりでこちらを指差した。
「ルールのあるケンカがしたいから女御になったのだ!! 内裏のケンカを見せてやる!! 弘徽殿の女御さまだ!!!」
私は横の乳母子に顔を向けた。
「今なにか妙なことを言いませんでした?」
「さあ……よく聞こえませんでした」
気のせいであったか。だが招かれたような気がしたのでずいずいと奥に入ると、あちら側にいる主上が蒼白な顔を向けてきた。そこからなにか読み取る前に、冬の男が符を投げた。
「刑天の神よ! わが敵を倒せ!」
いきなり闇の中に盾と斧が現れてのらに襲いかかった。が、彼は鮮やかな身のこなしでそれをかわすとやはり符を投げた。盾と斧はそちらにとびつき無意味に闘っている。
山海経にある刑天は首を失った神なので対象を見失いやすいのだろう。
床に伏したままの老人の唱える陀羅尼が低く流れる室内で、男たちは闘う。私にも主上にも倒れたままの藤壷にもまったく触れないが、それでも飛びかった人形の一つが乳母子にぶつかりかけた。
が、私が怒りを込めてにらむとなぜかそれはめらめらと燃え上がった。
「やりぃ! その調子や、女御さまっ」
「おんかしこみかしこみ申す! 北辰の力をわが元へ!」
冬の男がそう叫ぶと主上は途惑った顔をした。が「反魂の術が仕えませんぞっ」といわれると急に真剣な面持ちで男のもとへ駆け寄った。
「うわっ!」
「いかん!」
のらと老人が同時に叫んだ。私も思わず身を震わせた。
仁寿殿の中ほどの位置の中空に扉が一つ浮かんでいる。最上級の仏像に似た質感の重厚な素材で作られ、壮麗な文様が施されている。
「あれが開いたら内裏に百鬼が押し寄せまっせ!」
ばっ、とのらが扉の前に身を移してあらん限りの符を投げる。それでも扉は少しずつ開こうとしている。
「女御さまっ、こっち来たって!」
呼ばれて近寄りなんとなく上の方に手をかざすと、扉がなぜだがばたんと閉まった。
「さすがや!」
歓喜の声を上げたのらの顔は一瞬で曇った。いつのまにか冬の男の前に金の炉が据えられている。瞬きする間に薄絹の帳もめぐらされた。
「もう遅い。反魂香の力をその目に焼きつけよ!」
帳に影が映る。ばっ、と男はその炉に何かを投げ入れた。とたんに甘く苦い不思議な匂いが立ち込めた。
「しもた!!」
その香りはなぜか懐かしく感じられた。煙はまだ上がっていない。のらがそちらに突進したが、飛んできた形代に阻まれた。
「ううっ」
「そこでおのれの未熟を悔いておけ! いざ!」
大量の煙が立ち上る。それはしだいしだいに集まって人の形になろうとしている。薄絹越しにはっきりと見える。私は青くなって藤壷のもとへ走ろうとした。ところがいつの間にか彼女は冬の男のもとへ連れ去られている。
もうダメなのか?!
絶望の色濃いのらの表情が、驚愕に変わった。
「北山の聖っ!」
先ほどまで陀羅尼を唱えていた老人は、這いずりながら敵の足もとにたどり着いている。
「!」
気づいたときには遅かった。聖は手に持った独鈷を思いっきり敵の足に突き刺した。
「ぐわあっ!」
絶叫が響き、男が床に膝をついた。独鈷は両端の尖った仏具で、煩悩を打ち砕く役割を持つ。
男の揺らぎが伝わったかのように煙は乱れ、形を保てなくなった。が、すぐにそれはまた人の形に変化する。
「バ、バカな……」
煙はただ形を模しているだけではなかった。完全な人の姿に変わっていく。
「…………お師さん」
そこに、人のよさそうな老人が温かい笑みを浮かべている。しかしそやつはのらの方を見ずに、冬の男に近寄った。
「ひ、ひぃ……」
男は腰を抜かしている。必死に逃げようとするが、老人はその肩に手をあてた。
「冬満」
「こ、殺したのは……」
「すまんかったなあ。辛かっただろう」
慈愛の笑みの奥に悲しみが見える。
「おまえが……年も上であんまり賢いから頼りすぎたわ。一人で世の中に長くいて、人と違うからと一番傷つけられたのもおまえだったのに」
脅える男の肩を優しくぽんぽんと叩いた。
「恨んではおらぬ。今のわしはただの残留思念じゃ」
「じ、実体が……」
「気合じゃ」
あっさり言うと男の肩を抱いた。
「しばらくわしととりっぷしようなあ」
「い、いやだっ。殺すつもりだろうっ」
「まさか」
限りなく優しい目で相手を見ると、微笑んだ。
「おまえの気が落ち着くまでこの地、この時を離れるだけじゃぞ」
「しかし……」
「別の場、別の時には楽しいものもたくさんあるぞよ。ぱふぇを食べて萌えあにめを見るのじゃ」
それがなんなのかはわからぬが、冬の男の気が緩んだ。途端に老人は真言を唱え、二人の姿はかき消すようになくなった。
「…………ずるい」
のらがぽつんとつぶやいた。
北山の聖は腰を痛めてしまったので、のらが背負って帰ることになった。辺り中で目を回して倒れていた冬満の部下も彼に従った。
乳母子が走って弘徽殿から女房をつれてきて、藤壷を青衣の女御の部屋に運ばせることになった。
彼女が消えた後、私は主上に向かった。
「…………あなたはあの娘をどうするおつもりです?」
暗いまなざしが私を見つめる。
「あまりにもあわれではありませんか」
彼は黙ったままでいる。品のよい顔に影が残ったままだ。
それが悲しくて責めることをやめた。また繰り返すかもしれない。それでも私はこれ以上言えない。
彼に背を向けると、後ろから小さなため息が聞こえた。
それをスルーすると微かな声も聞こえた。
「…………元服を」
……見せてやりたかったのだろう、あの女に。
私は黙って、背中の視線を感じていた。
人が来るのを待ち、わが女房に主上を託して殿舎に戻った。
季節は変わり人は育つ。昨日までその辺を駆け回る子供だった者がいっぱしの顔で内裏を闊歩する。なにもかにも変わるのだ。
それなのに昔と変わらぬ思いを胸の底へ隠して過去を取り戻そうとする男と、あきらめもせずにそれを妨げる女がいる。
無駄なことだ、好きにさせてやれと思わぬでもない。
それでも例の姫君が源氏に与えられた時、怒りと同時にほっとした自分の心理を分析すると、まだまだ情を手放せていないようだ。もう何度もそんなものは持たぬと誓ったのに。
左大臣の姫は主上の元には入内しない。そんなことにわずかに安堵する自分の浅ましさを洗い流すように花は風に散り、静かに春は去っていく。