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源氏夢想譚  作者: Salt
第一章
21/89

冒険

源氏十一歳

藤壷視点

 目が覚めると墨を流したような闇の中で、恐ろしくて自分の身をかき抱いた。しばらく震えていたけれど、帝もここにいらっしゃるかもしれないと気づいて必死に声をあげた。

「…………ご無事でいらっしゃいますか」

 か細いとぎれとぎれの声のせいかお応えがない。真っ青になって必死に彼を探したが、闇に呑まれたように気配さえない。


――――ここはどこなのかしら


 さっきまでいた場所とは思えない。あまりに暗くてまだ目が慣れないせいではないと思う。闇を見続けて慣らそうとした。



 いつものように夜の御殿に渡った時に、帝が私に囁いた。

「いたずらをしてみませんか」

 顔を緩ませてにこにこしている。

「どんな風にですか」

「女房たちに黙ってこっそり冒険するのです。どうでしょう」


 考えたこともない提案に驚いた。いつも付き従う女房たちは体の一部みたいなものだから、全くいない状態など想像したこともない。


「どこに行くのですか」

「遠くは大変でしょう。了承を得ていますから、とある女御のもとを訪れましょう」

 今年更衣から女御に格上げされた方の部屋をおっしゃった。

「別に仲が悪い方ではないでしょう」

「ええ」

 というかあまり印象に残っていない。父君はかなりやり手だと聞いているけれど、本人は大人しそうに見えることとか、青い衣装をお好みになっていることぐらいしか思い出せない。

 考えてみてちょっとためらった。


「なんだか怖いわ」

「大丈夫ですよ。私が守ってあなたの体には傷一つつけさせたりしない」


 不安になった私を帝は優しくなだめてくださる。いつもよりりりしくて、それと大人びた色が表情に出て、胸が少しきゅんとする。だから思わずうなずいてしまった。


 帝は嬉しそうに日にちを決めた。もうそれだけで冒険した気分になってしまった。

「……すごく、楽しみですよ」

 優しいまなざしが更に緩んだ。そう思っていただけることで嬉しくなって、私の頬も少し緩んだ。



 その夜、夜更けの藤壷へ帝自ら迎えに来てくださった。言われたとおりに与えられた香を焚いていたせいか、御帳台にいた私以外はみな眠りこけていた。


「…………行きましょう」

 帝はそっと手を差し伸べてくださる。私はその手をつかみ暗い廊を渡った。

 その日は昼間から陰鬱な雲に覆われていたけど、夜になっても変わらなかった。吊り灯篭の明かりが心細く揺れるけれど月も星も見えない。ほんのりと温かい彼の手だけを頼りに、冷たい夜の廊を渡り切った。


 ほとほとと妻戸を叩くと、女御自身が開けてくれた。驚いたがその時その殿舎は人気がなかった。

「…………お待ちしていましたわ」

 いつもと同じように青い衣をまとった彼女は、いくら聞いているにしてもこんな非常識な訪問にいやな顔一つしない。私たちを中に招き入れると新しい茵を勧めてくれた。


「寒かったでしょう。体を温めてくださいね」

 また自ら動いて薬湯らしきものを温めた土器に注いでくれる。先に帝にお渡ししたら、「少しお酒を飲んできましたので」とお断りになった。

 口に含むとほんのりと甘いけれどなじみのない香りがする。この方の里に伝わる特別なものかもしれない。


「女御さま自身が煎じて下さったのですか」

「いいえ。女房がそうしたものを真綿でくるんでおきました。土器もいっしょに」


 細やかな気配りをされる方だ。感心しているとふいに眠気が起こった。無事たどり着いてほっとしたせいかもしれないけれど、失礼だし恥ずかしい。

「…………どうかなさいました」

 青衣の方の声が妙にくぐもって聞こえる。まるで水の中にいるみたい。呼びかける声は遠い。

「…………宮さま」

 辺りがなんだか揺れて見える。青い闇が広がる。水底の気配が濃くなって、私は意識を手放した。



 手探りで触れる床はわずかに埃っぽくて、よく磨かれていたあの女御の殿舎のものとは別な気がする。空気のにおいもなんだか違う。

「…………いらっしゃいますか」

 かすれた声でもう一度叫んだ。尊い存在のあの方が同じように闇に呑まれていたら大変だ。


 それに答えるかのようにぼっ、と焔が光った。驚いたけどさっと目を反らして直視を避けた。

 闇の中に人影がある。


「誰?」

 帝だとは思わなかった。あの方の気配はもっと優しい。人影は冬の空気が凝縮したように冷たかった。


「……木は火を生じ火は土を生じ土は金を生じ金は水を生じ水は木を生ず」


 人影の口から謎の言葉が漏れた。すると同じ言葉を詠唱する者たちがいる。いつのまにか闇に人が潜んでいる。

 この言葉を合図に灯りがいくつか増え、あたりの様子が見て取れた。

 殿上が高く広い室内――――紫宸殿(ししんでん)? いえ、高御座(たかみくら)はない。とすると仁寿殿(じじゅうでん)かしら。


――――なぜ私がここに


 顔を隠さなければと扇を探ったが見当たらない。うつむいて袖で覆おうとするけれど、体に力が入らない。

「女を起こせ」

 最初の声が低く周りの者に命じる。逃げようとするのに逃れられず、私は無理に顔を上げさせられた。

「ほう。美しいな」

 屈辱で身が震える。こんな下賤の者に触れられ、顔を見られ、あまつさえ評価されるとは。


「離しなさい! 下司!」

 こんな辱めを受けたからにはもう内裏にいるわけにはいかない。自分の意思で来た場所ではないけれどそれでもこんなことで下がるのは悔しくて、相手を必死ににらみつける。


 声の主は三十路かそこらの男だった。白い狩衣を身につけ烏帽子をかぶっている。整った容姿だけれど口元にイヤな感じの皮肉っぽい笑みを浮かべていた。


「縛れ。だが体にはけして傷をつけるな」


 必死に身をよじるけれど腕も足も、真綿の入った袿で包まれ、その上から絹ひもで縛られてしまう。助けを求める声がかすれてほとんど響かない。


「誰か!」

 どうにかそれだけ叫んだけれど、目の前の男は動じず手下らしい男たちに顎をしゃくった。


「女を押さえろ」

 これ以上触れられるのなら死んでしまった方がいい。そう思って縛られた手足を振り上げて威嚇した。でも相手は無表情に近寄ってくる。じわじわと目元に涙が滲むのを感じた。

 その時だった。


「…………それぐらいにしてやり。可哀想やわ」


 下からの光に照らされた男の顔に動揺が走った。だけどそれはほんの一瞬だった。


「おまえか」

「お姫さんを離してやってや、冬のあにさん」


 灯りに照らし出された人は烏帽子を付けていなかった。長い髪をひとくくりにし先の男と同じような狩衣を着ている。若くて、割と小ぎれいな下司の男だ。


「木火土金水! 女媧が作りしものを伏義が滅す!」


 若い方の男は祓に使うような人形(ひとがた)を四方に投げた。それは空中に留まって強く光ったが、邪悪な男が様々な形に印を組むやいなや火を吹いて燃えた。


――――手の中に油と火種を仕込んでいたのかしら


 のんきにトリックを考えている場合ではなかった。私に手を伸ばした男たちはみな、若い方の人に向かっている。が、飛びついて組み伏せようとした一人が急に硬直し、声もなく倒れた。

「おまえら程度の者には歯が立たぬわ。位置につけ」

 冬と呼ばれた男がそう命じると手下たちは飛び退り、闇の中で突然青白い焔に変わった。


――――もっと人数がいてぱっと黒い布をかぶせて隠して同時にそこから用意した火を出せばこんな感じかしら


 でも考えられたのはそこまで。後は怒りも忘れて呆然と見つめ続けるだけだった。


「水金土火木! 伏義が作りしものを女媧が滅す!」


 青白い焔は勢いよく燃え上がり、渦になって若い男を襲った。だけど彼はぱっ、と人とは思えないほど素早くかわし、きれいな動きでそれを払った。

「ぎゃっ」わずかな悲鳴と共に焔は消える。けれど冬の男は動じもせず、今度は紅い炎を生み出し彼にぶつける。


「くっ……」

 完全には避けきれなかったらしく若い人が息を吐くのが聞こえた。その隙を逃さず男は連続で焔を投げつける。若い方が膝をついた。


 炎は不思議と目に見える形ではケガをさせていない。表面には火傷一つないけれど、内部をむしばむみたいだった。両手で床をかきむしるようにして苦しんでいる。その時、場にそぐわぬひょうひょうとした声が響いた。


「…………遅れましたかの」

 人のよさそうなおじいさんが前に立っている。冬の男は物も言わずにいきなり焔を投げつけたけど、彼は持っていたで錫杖(しゃくじょう)でそれを払った。

「確かに遅いわ。こやつは内側から煩悩の焔で灼かれておる。もはや逃れるすべはない」

 おじいさんはからからと笑った。

「この人程度の業など赤子と変わらぬわ。加持の力をなめるでないぞ。護身の修法!」


 言うが早いか護符らしいものをばっと宙に舞わせると、しゃがれ声で陀羅尼(だらに)を唱えた。

 むう、とうなった冬の男はそれを邪魔しようとするけれど、宙に浮かんだ護符が集まって、壁のようになったり散って生き物みたいに動いたりして手が出せない。

 若い男は回復していくようだった。


「…………聖」

 その人はようよう声を出すとのろのろと立ち上がった。けれど冬の男がまた焔をぶつけてくる。

「…………!」

 また護符が壁になったけれど、今度は焔で火がついて、宙に浮かんだまま赤く萌えた。男はすかさずおじいさんに仕掛け、彼はどう、と倒れた。


「北山の聖っ!」

「小わっぱはおのれの心配をするがよい!」


 冬の男はそう叫んでまた焔をくりだしたが、それは宙でしぼんだ。おじいさんは倒れたまま陀羅尼を唱え続けている。


「なるほど。なかなかのものだ。だがこちらにも奥の手がある。…………おまえに教えたことがあったな。最高の呪は人であると」

「あにさん、まさか……」

「至高にして最強の北辰(北極星)の力を見せてやろう。いざ!!」

 冬の人が何か叫ぶ。なんだか耳が拒否してよく聞き取れない。でも、空気が凍りつくのを感じた。その気配が強すぎたのか、今までの尋常でない経験に疲れたのか、ぼーっとしてくる。


――――目を開けちゃいけない


 自分自身が自分に命じる。ひんやりと冷たい冬の空気。私は望んで意識を手放した。



「…………あなたはあの娘をどうするおつもりです?」

 それでも少し聞こえたこともある。澱みなく冷ややかな女の声。

――――弘徽殿の女御さま?

「あまりにもあわれではありませんか」

――――それは私のこと?


 屈辱が身を灼く。后腹内親王の私が人に憐れまれている。

 怒りを杖にしてどうにか瞼を押し上げようとした。けれどかなわず、私は再び気を失っていった。



 目が覚めると、見慣れた絹の帳の中にいた。朝の光がやわらかく私を包む。

「…………お目覚めですか」

 王命婦が尋ねると同時にしとやかな衣ずれの音がして、青衣の女御が私を覗きこんだ。

「お目覚めになられて本当によかった」

 紙のように青ざめて私を見ている。


「…………なぜ、女御さまが」

 まだ声がかすれている。青衣の方は瞳を潤ませた。


「薬湯をお飲みになったあと眠ってしまわれたのですわ。わが家に伝わるこれはとても体にいいものなのですけれど、ごく稀にお酒に酔ったみたいになる方がいらっしゃることを忘れていて……」

「お休みなられた宮さまをあちらの殿舎の方が運んでくださったのですわ」

「心配なさった女御さまは一晩中寝ずに付き添ってくださったのです」

 説明を聞いても納得がいかない。


「…………帝はご無事ですか」

「もちろんですわ。心配なさってしばらくこちらにいらしたのですが、女官が迎えに来たのでお帰り願ったのです」


 彼女はわびを入れ私は礼を言い穏やかに別れた。だけどその後どうしても不信の念が抑えられずつい口にすると、女房たちに根掘り葉掘り尋ねられた。


「…………というわけなの」


 女房たちはしばらく黙っていたが、しだいに肩を振るわせ始め、ついには涙を滲ませるほど笑いこけた。


「……宮さまは以外に面白いことを思いつく方だったのですね」

「だって本当にあったことなのよ」

「ありえませんよ。帝はいたずらにつき合わせてしまったことを後悔し、とても宮さまのことを心配していらっしゃいました」

「この雅な世界で陰陽師バトルが繰り広げられるなんて違和感がありすぎますわ」


 王命婦も否定した。

「わたしと弁が宮さまを夜着にお変えしましたが、縛られた跡などありませんでしたわ」


 誰もとりあってくれない。

 でもその夜のことはどうしても夢とは思えないほどはっきりと覚えている。顔も見られたし里に下がるというと、一笑に付された。


「いくら厳しい世の中でも夢で見られたぐらいで責めらはしませんよ」


 いろんな気分がごちゃごちゃと混ざり合ってちょっと苦しい。

 私は慣れた部屋の慣れた帳台で、慣れない気分をかみしめていた。


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