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源氏夢想譚  作者: Salt
第一章
20/89

陰陽師

源氏十一歳

弘徽殿視点


このイベントはタグにあるサスペンスではありません。

 陰鬱な雲がどんよりと空を覆っていたが、気づくと時雨が白砂を濡らしている。女の涙より細い雨が音もなく景色にひびを入れている。


 雨の日はいつも衣が重い。冷えた床に流れる髪も乱れがちになる。部屋で働く女房たちも心なしか表情さえくすみがちだ。

 が、そこへ情感とは無縁の女が飛び込んできた。


「今度の春に光君の元服が決定らしいですよ」

 女房たちはいったん微笑みかけてから慌てて顔を引き締めた。別にかまわぬ。鷹揚にうなずいてそれに応えた。


「臣下に下った以上早い方がよい」

 官吏の人生は長い一本道だ。スタートはなるべく早目がよい。それと父たる主上がその地位にいる間にできるだけ上がっておかねば、次世代、つまりわが息の代に安易な昇進などさせるつもりはない。


「ええ。この度はさすがに地味な式となるのでは」

 女房の一人がそう言ったがどうなることか。内蔵寮の中身を使いまくったあやつの袴着のことを忘れてはいない。

 しかし彼はもはや東宮の位置をけして脅かさぬ立場になった。ならばかまわぬ。存分に盛りたてるがよい。


「加冠の役は左大臣のようですね。髪上げは大蔵卿、後見代理はいつものように右大弁と決まったようです」


 まあ順当な配置だ。血縁の深くない左大臣をこの役にあてることは大げさだが、主上の気持ちとしては仕方のないことかもしれない。愛する息子を臣下に下ろさなければならなかったわけだから、最大限に飾ろうとするのも無理からぬことだ。

 この世で最も価値ある飾りは人である。身分は高ければ高いほど望ましい。臣下の筆頭で名家の育ちで見場もよい左大臣などその最たる者だ。


「よろしい。あの童形がどう変わるのかを見てやりましょう」

 人によってはとたんに地味な容姿と成り果てる者もいる。まあ、あの容貌ならそうマズくもならないだろうが。


「あまり早くあの可愛い姿を変えるのももったいないですよね……いやあの、…………最近の都の噂をご存知ですか」

 自分の感想をごまかそうとした乳母子が、強引に別の話題を持ち出した。「知らぬ」と告げると勢い込んでいくつかを披露した。


「あやかしだのもののけだのを内裏で見た者がいるようです。女御さまのお手蹟を求める者もまた増えました」

「そんなものは気の迷いで見るのです」

 事実私は一度も見たことがない。


「女御さまの気高き様には気おくれするもののけも、並みの者の前には現れるのかもしれませんね」

「だいたい季節はずれです。それにおまえは見たことがあるのですか」

 乳母子は首を横に振った。


「いえ。わたしにはよい陰陽師がついておりますから」

 何度か話は聞いたことがある。

「あの妙な男ですね。陰陽寮の者なのですか」

「いいえ。あの者はのら陰陽師です」

 まじまじと彼女を見つめる。なんだそれは。


「陰陽寮に属さぬ者なら、そう名乗るわけにはいかないでしょう。呪術師とでも言えばよいのに」

 彼女の頼る者以外にも、最近民間でしか働かぬものがその名で通している。律令に違反する行為だ。


「ところが多少の根拠があるのですよ。十五年ほど前に陰陽寮の下役の男がアラ還でその地位を退こうとしまして」

「アラ還とはなんです」

「アラウンド還暦、つまり六十前後ですね」


 その男はまったくの庶民であったが高い能力を有しており、そのため血筋だけの者から便利に扱われていた。もちろん辞職願はなかなか受理されなかった。だがその男も一筋縄ではいかず、卓越した情報収集能力でつかんだヤバ系のネタを使って、どうにか意志を通すことに成功した。


「式神を使ったらしいです」

「そういう名目の子分のことでしょう」


 理性的な私はうさんくさいものは信用しない。ただしそう見せかけることが必要な立場があることは理解している。乳母子はその件については固執せず流した。


「その者が無理に退職したのは夢があったからです。自分のように身分は関係なく能力を持つ子供を集めて育成したいと考えていました。なお引き止める陰陽寮の者と掛け合って、できのいい子をそちらに送ることと引き換えに多少の予算をぶんどりました」

「ほお」

「で、彼は能力のありそうな子がいれば全国津々浦々、どこへでも出張鑑定いたしますとめいうって、事実優秀な者どもを集めました」

「おまえのところの者はその中の一人なのですね」

「はい。老師のチルドレンは、現在陰陽寮で活躍している者もいれば、のら陰陽師として民間のみで働く者もおります。その場合も手法は老師から受け継いだことが主ですから、陰陽寮を基礎としていることは確かです。しかし……」


 彼女は顔を曇らせた。


「能力を開花させた者の中には悪しき心を目覚めさせた者もいるようです。最近、老師が行方を絶っているようです。わが手の者はそのことをひどく心配しております。まさかとは思いますが、内裏でのこの種の噂もそれに関しているのではないでしょうか」


 そもそもそんな事実があるわけがないと思っているのでそれについてはコメントしない。だがこんな妙な噂が広がる時は人々の心に何らかの不安が住み着いているときだと推察できる。


「…………主上に何か変わったことは」

 尋ねると他の女房が答えた。

「対人的な意味合いにおきましては特に。お呼びになる者も順位どおりですし」

「その他では、最近学問を進めていらっしゃるようです」


 首をかしげた。今まであまりそんな様子はなかった。


「使用テキストは?」

「漢書をお読みになっている姿が何度も目撃されています」

「白氏文集にも熱心に目を通していらっしゃいました」


 久しぶりに血が凍りつく感覚を味わった。


「漢書はどのあたりを読んでいたかわかるか」

「列伝をお読みになっていたようです」


 漢書の内の列伝は七十巻もある。だが彼の読んでいた物は第六十七巻に違いない。


「白氏文集というとあの……え―と、相撲とり」

 眉間を寄せた私の前で乳母子が妙なことを言い出した。


「なんのことです?」

「え―と、はっけよい……はっきょい…………あ、思い出しました。白居易の作品集です!」

 そんなことみな知っているわとどなりたくなったが、時間のムダなのでスルーする。女房の中でも学識の深い者が顔色を変えた。


「…………李夫人ですか」

「理不尽? なんです?」

 乳母子を黙殺してうなずく。


反魂香(はんごんこう)について調べていたのでしょう」

「ですが……なぜ今さら」


 漢書の列伝の「外戚伝」第六十七巻上に、寵愛する李夫人を失った武帝が方士(道士)によって反魂香を焚き彼女の魂を呼び寄せたことについての記述がある。白居易の「李夫人詩」にも同様のことが書かれている。

 それについて調べることがあの女を失った頃ならわかる。だがもう八年もたった今、ふいに思いつくことは奇妙だ。

 乳母子は顔を曇らせた。


「悪しき陰陽師と何か関わりがあるのではないでしょうか」

「それはそちらののらに確かめてみるように」


 別の者には主上近辺を調べさせることにした。彼自身がそんな下賎の者を使いだてるとは思わないが、配下の者は彼の意に添って動くに違いない。目に付くことがあるかもしれない。



 主上は慎重に動いているようだった。特に不審な点は見つからなかったが、陰陽寮の方で事故があった。ちょっとした出火だが火の中になぜかあった竹が爆ぜて、下役の二人ほどがかなりのケガを負った。

 その日のうちに連絡があったが私は泰然と翌日に里に下り、付き添った殿上人が内裏に戻ったあと忍んで乳母子の里に向かった。


 夜が更けたころ、庭に揺れるかがり火の下に一人の男が訪れた。乳母子の使うのら陰陽師だ。

 まだ若い。三十路よりだいぶ前だろう。チルドレンの中では最年少らしい。顔を上げさせると下賤の者にしては目元が涼しく、ひんやりとした知性を感じさせる。髪を根元でひとくくりにしているだけで垂らし、烏帽子さえかぶっていない。が、女と見まごう程の容姿なので違和感はない。白い狩衣を着ている。


「お呼び立てして申し訳ありません。都の異変は結界が緩んだためだと思われます。どうもわが身内が関わっているようです。陰陽寮でケガをした者は兄弟子です」

 なかなか正直な男であるらしい。しかし何らかの技を使って孫廂に出た乳母子にしか聞き取れないようにしゃべっているらしく、耳のいい私でさえ音が拾いにくい。

 だから直答を許したが辞退しようとした。


「口の聞きようも知らぬ山がつ(田舎もの)ですので」

 冬の早朝に銀の鈴を振るような声だ。

「かまわぬ。そのまま知ることを述べよ」

「そうですか。それでは遠慮なく。お師さんの行方は相変わらず知れませんわ。で、兄弟子の冬満(とうまん)ちゅう者ンが、とある殿上人の端くれの下にいることがわかりました」


 冬満は優れた能力者で師匠にも迫るほどだったが、心根のほどがいまひとつわからず、害を避けるために野に下されたがそのことに不満を持っていたらしい。


「ぶっちゃけ陰陽寮でバリバリやりたかったんですわ。でもその道を閉ざされてしもうて、あがいてどうにか元受領に取り入ったらしいです。どうもそこで思いもかけぬ大物つかんだようですわ。あにさんハッスルしはってなんか金に糸目をつけずどえらい輸入品を取り寄せたちゅう噂が立ちました」

「その品とは」

「反魂樹の根の汁を煮詰めて玉の釜で練り上げたものどす。これを金の炉で焚いたもんが半魂香ですわ。けど、これ自体は別に害もないし虚しいだけのもんですわ」


 漢書にあるので知っている。亡くなった者の姿を煙が示すだけで言葉を交わすこともできず、すぐに虚しく消えていく。


「あにさんよう知ってはるはずなのになんでまた、と思ってるううちにわしいつものとりっぷ始まってしもて、そこで考えついたんよ」

 耳慣れぬ展開に驚いていると、軽く説明が入った。

「わし、もともと憑坐(よりまし)上がりなんですわ。いろんな人寄せるうちに言葉も混ざるし、意識だけ飛ぶようになってしもて」


 時に異界に飛び、取り付いた者を利用してこの時代の謎をとくことがあるらしい。私は信じないがそう思い込むことによって普段の何倍もの力を発揮することができるのだろう。以前聞いた奇妙な言葉などはその力を高めるための自己演出に違いない。


「あ、でも今回は自分で思いつきました。わしが誰かに入り込むように死んだ者ンの魂を呼んでそれを生きた体に入れることができたらと」

「とりっぷの意味ないじゃないですか」


 横で乳母子がのんきに不満を口にする。だが私は思いあたることがあり総毛だった。

 あの女が亡くなった時おこらなかったことが今おこるその理由。主上はあの女の形代となる生身を手に入れているではないか。

 几帳の合間からのらを見つめる。涼しい目元に温かな光を浮かべている。


「……おわかりになりましたか」

「ありえないとは思う。しかし本気でそう信じる者もおり、そう信じ込ませる者もいるのであろう」

「わしもそんなことできるんやろかと懐疑的な気分ですわ」

 のらは憂いある表情で目を伏せた。


「この様子ではお師さんもあかんかもしれんし。わしが直接対決するしかないでしょなあ」

 ややつり気味の形のいい目が軽い口調とは裏腹に、真剣な決意を光らせている。


「強いのか、そやつは」

「最強ですわ」

「じゃあ他の兄弟子に協力してもらえばどうでしょう」

 乳母子が勧めるがのらの笑みが苦くなった。

「そう思うて手配した式神は全て燃やされました。全国各地に散っておりますので、カンタンには連絡さえ取れんのです」


 わが父の力を使えば元受領のもとからは排除できるだろう。しかし陰陽寮のありさまを見れば隠れればもっとマズい手を打つかも知れぬ。


「捕らえて閉じ込めてしまいましょう」

 乳母子が更に進言したがのらはうなずかなかった。

「難しいですわ。それにそう取り計らった時点で、名前の言えない高貴な方の依頼を言って回る危険性があります」

 主上の恥を広げさせることになる。このままでは彼の地位すら危うくなるかもしれない。


――――好都合ではないか


 彼には院に退いてもらい、安全な環境で余生を送っていただく。政は息子を正面に立て父と私で補佐する。論理的に考えるとこれがベストだ。

 しかし……


 彼が失意に陥ることに耐えられない。いや、たくらみを打ち砕いてもそうなるだろうがそれは仕方がない。私の個人的な怒りもある。

 だがあの方が、さんざん守られてやっと輝く私の主上がその地位を退き、臣下にも省みられず失意の毎日を送るのかと思うと胸が痛くなる。


――――まだだめだ


 長期に帝位にあればそれだけ敬意も加算される。少し長めについていただいて俗なことは全て私たちが引き受ければ、名君の評判さえ持つことができるはずだ。


 それなのに胸の奥で別の野望がかま首を持ち上げる。

 傷ついた彼が私だけを頼り、それを受けて帝位を退いた彼とまるで並みの夫婦のような暮らしを送ることだ。

 遠い昔の日のように彼が私だけを求め、頼り、愛することを夢見てしまう。そのためなら息子の補佐さえあきらめることができる。


 憑坐でもないあの女の体に、亡き女の魂を宿すことなど不可能だ。ほっておいても主上のたくらみは挫折する。

 だから、私のやるべきことはカンタンだ。何もしなければいい。噂が飛ぶにまかせ、彼の評判が落ちるままにし、退位に追い込まれることを待つだけでいい。だが…………


 底抜けに明るい笑顔が脳裏をよぎった。

 斬り付けられたような気分になって思わず傍らの脇息に力を込めると真っ二つになって割れた。乳母子とのらがぎょっとしたような顔をするが放置して思索にふける。


 それが最善であることはわかっている。だが私は、望まぬ退位を彼に迫りたくないのだ。


――――すでに失われた笑み一つのために、絶好の機を逃すか


 心の鬼が囁きかける。


――――さまたげれば恨みを買うことは明白なのに


 ただでさえ憎まれている。が、今ならまだ間に合う。退位させて味方を奪い、傷ついた彼に優しく手を差し伸べれば。


 折れた脇息を更に砕いた。造りが甘いのか欠片がとんで几帳が倒れた。さらしたこともないわが顔が男の前に表わされるがしょせん陰陽師、言いふらしたところでその技によって垣間見たと思われるだけであろう。問題ない。のらは目を丸くして恐れ入っておる。


 揺れるな! わが心よ。それはムダな夢想だ。

 弱った相手につけ込んで奪う愛情など虚しすぎる。

 私はあなたの唯一の女になりたい。心からそう願う。

 しかし、その感情の底にあきらめはいらない。


「…………支援が必要ならば言いなさい」

 男は人懐こく微笑んだ。


「ありがたいわあ。お日さまの力を持つ方に手伝ってもろたら心強い。よろしゅうお頼みしまっせ」

 妙なことを言われたが、ギョーカイ用語であろうから無視して具体的な行動を詰めようとした。

「で、何をすればよい」

「なんにも」

 真顔になると内裏でもめったに見ないほどひんやりと整った顔だ。


「その時その場にいてくれるだけでよろしおす。それで充分ですねん」

 露わにされたわが美貌に胸打たれ、この私さえいればいかなる強敵と相まみえようとも励まされると言いたいのであろう。下賎の者の割にはなかなか審美眼が優れておる。


「わかりました。日時が決まりしだい知らせなさい」

「はいな。近場にいるも一人のあにさんは頼りになりひんけど、一人あてになる方にも声かけてみます。陰陽の者ではないんやけど」

「何者です」

 私の問いにのらは涼しい瞳で答えた。


「とある聖です。験のある行者でけっこうな引きこもりですが、悪しき者ンを倒すためなら協力してくれはるかもしれまへん」

 よくわからぬが味方が増えるのはいいことだ。私はうなずき、男を下がらせた。



 内裏に戻るとすぐにお召しがあった。その夜の主上は機嫌がよかった。白い練絹の夜着のまま横笛などをたしなまれていたようだが、夜の御殿に私が上がった時にはすでに片づけてあった。


「笛の音がしました」

「あ、まだ練習中なのです。もう少し上達してから助言してくださいね」

 ちょっと照れたような顔でそう告げると、その手を差し伸べてわが手をつかんだ。

「……弘徽殿さん」

「はい」

 動悸が激しくとも顔に出すことはない。だけど手の震えをとめることは努力を要した。主上はまっすぐに見つめてくる。


「また、女楽をしようと思うのです」

「はい」

「今度はあなたも出てください」

 気がのらないので断ろうとしたが、彼の目があまりに必死なのでうなずいた。


「……あなたがそうお望みならば」

「ありがとう、弘徽殿さん」


 彼は私に身を寄せ、すがるように腕を回した。なじんだ温もりが染み入ってくる。


「光の元服の話はお聞きになりましたか」

「はい」

「その前後に企画しましょうね」

「公式の宴があるはずですね」

「それはまた別です。昔のような遊びをしましょう」

 ぎゅっと固く抱きしめてくる。夜着に程よく焚きこめた香は臣下の誰もが真似できないほど上品だ。


「ええ」

「弘徽殿さんはやっぱり頼りになる」

 主上は安らいだ懐かしいような表情で甘えるみたいにその顔を私に押し付けた。


 ええ、なりましょうとも。

 しかしそれはあなたのお心に添ったものではありません。

 私はあなたを傷つける。あなたの望みを砕いてしまうでしょう。


 恨まれることは充分に承知です。

 それでも、私はあなたの盾でありたい。


 閉ざされた部屋に、冷たい雨の音がした。

 今宵もまた、都に時雨が降りしきる。

 髪が重くなるのを感じていた。

 

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