光源氏登場
源氏七歳。ただし一話より少し前の話です。
弘徽殿視点
「今は母を亡くして可哀相なこの子を誰も憎めませんよ。可愛がってやってください」
御簾内に連れ込まれた子供は美しかった。私には二人、そう悪くもない顔立ちの娘がいるが比べ物にならないほどに。
苦笑が口元を緩める。
わざわざそのような紹介をせねばならぬほどこちらを恐れているのかと。そして私が憐れな子供を憎むような人格の主だと思うのかと。
三人も子をなして何一つわかってはくれぬ。いや、もともとそんなお人柄だ。勝手に期待しても仕方がない。
人を呼び、唐菓子を子供の前に運ばせる。彼はおずおずと私を覗い、手を伸ばした。
折り取って一つ口に含むと、表情が変わった。
扇を取り落しそうになった。
二の宮(光源氏)は品のある美しい顔立ちで、その時の雰囲気は儚げだった。生い立ちを思うせいか寂しい色合いをまとっているように見えた。
が、その笑顔は実に明るく、無垢なるもの、いや正直に言ってしまえばあほの子っぽい無邪気さがあった。
――――これは
この笑顔には覚えがある。遠い昔のことだ。
「賢い子なんですよ。学問も得意だし、楽器の類も優れていて……」
目の前の男はこの笑いを持たない。それは失われて久しい。
だが初めて会った時、私の心を奪ったのは確かにこの、何も考えてないのじゃないかと疑うほど明るい笑顔だった。
息子である東宮(皇太子)の方が顔は主上に似ているのだが、笑みだけはこの子供の方がそっくりだ。
「………果物も食べる?」
尋ねると首を横に振った。
「いえ。甘い物のあとに食べると酸っぱく感じますから」
なかなか賢い言葉を述べて思いっきりドヤ顔をした。なるほど。これなら猛々しい武士さえ微笑んでしまうだろう。
私もつい、笑ってしまう。
その様子を見て子供は更に、にぱあっ、と擬音をあてたくなる笑いを見せた。
内裏は彼の庭と化した。
全ての御簾が彼のために開かれる。
主上とともに訪れることもあれば一人で駆け込んでくることもある。誰もが拒まなかった。
あまたいる女御・更衣は彼の姿に真の自由を見たのかもしれない。
何者にも捕われず何者にも縛られぬ帝よりも放たれた夢のような存在。愛らしい小鳥。
女たちは自らの持つ最上のものを惜しげもなく与えた。ある者は秘伝の香を伝え、ある者は和歌の極意を教えた。
もともと非常に優れた資質を持った彼だ。砂地に水が浸み込むようにその全てを身に着けていった。
後になって思うのだが、あの光源氏という存在はわれわれが作り上げてしまったのではないだろうか。
どんなに才を持った者であったとしても、通常の育ちで並みの教育を受けていたのなら限りがあったと思う。
しかし彼は後宮の女たちの持つ全てのもので磨かれていった。
私でさえ例外ではなく、伝えたものがある。
「琴もけっこう得意なんです」
「ほう。聴かせてもらおうか」
その年頃にしては相当な腕前を披露した。
褒められるための待ちの表情を見つめてわたしはにやり、と笑った。
「なかなか悪くないな」
「ええ、それだけですか」
不満そうな彼をそのままに、和琴の琴柱を好みの位置に立てた。
かき鳴らすと目が丸くなり、口をあんぐりと開いた。
短い一節を弾き終えると彼は詰め寄らんばかりの勢いでねだった。
「もっと! もっと聴かせてください!」
請われるままに一曲を終えた。あらん限りの賞賛を述べる彼に、私は鋭い一言を与えた。
「お前の母もこの程度は弾けた」
目を白黒させたがふいに食ってかかった。
「慰めはやめてください! この音が尋常のものでないことぐらいわかります。生きながら異界に運ばれるようなこの比類ない音を出す者がわが母であろうと他にいるとは……」
「私は嘘は言わない」
彼の目を覗き込んだ。
「全く違う質の音ではあるが、わが技量に匹敵したのは唯一お前の母だけだ」
見開かれた瞳はふいに潤み、みるみる涙があふれ出た。
私は女房を呼び顔を拭かせた。
子供をなだめる言葉を私は持たない。
だから再び和琴に向かった。
月影さやかな更衣の音。遠い昔のあの音をうつし世に招いた。
「………今のがお前の母の音だ」
「…………………」
「和琴だけではない。筝も琵琶も、たぶん琴の琴もすべて極めた女だった」
少年はしばらく声も出せなかった。が、しばらくして勢い込んだ。
「教えてください!楽器のすべてを」
私は静かに首を横に振った。
「なぜっ。やっぱり人が言うように本当は私が憎いのですか!」
やはり口さがないものはいつの時代もいる。
「いや」
正面から彼を見下ろした。二の宮は少しひるんだ。
「師から学べばよい。それ以上のことは教えられない」
「先生なんかあなたの足元にも寄れません。お願いです。ぜひ……」
「私とおまえの母が師と違うとしたらそれは技術ではない………魂だ」
極限までぶつかり合った心。
「魂の在り方は教えることはできない。自ら光らせるしかないのだ」
二の宮は黙って私の目を見つめ、うなずいた。
だから、彼の変化も私たちに責がある。
現れた時に彼は本当に無邪気な少年だった。あの笑いがそれを保証する。
しかし彼はいつの間にか変わった。
あの笑みは失われ、洗練された艶やかな微笑を代りに得た。
たぶんその真実の母がいたら最後まで守られたはずのその笑みは、あっさりと彼方へ消えてしまった。
女たちの寵はたやすい獲物であると最初に教えたのは私たちだ。
女たちの持つ最上のものを全てくらい尽くしてもよい、その資格がおまえにある、と思わせたのも私たちだろう。
だが彼の心に最初の影を与えたのは次の東宮と定まったわが息子であったかもしれない。
「君が二の宮ですね。母がとても誉めるから、お会いするのが楽しみでした」
優しい声で彼は少年を迎えた。
二の宮は困ったような顔で見返した。
「私の母が手放しで人を褒めることはめったにないのですよ。私など叱られてばかりです」
それでも沈黙を守る彼に女房たちが慌てて礼を強要した。
少年は素直にそれに従った。
普通帝の御子たちはそれぞれの里で養育される。連れられてきてお目見えすることはあるが住んではいない。
例外は息子だ。彼は正当に内裏に住む権利を領している。それでも、定まるまでは里にいた。
二の宮は特例だ。その母も里もなくしたために特別の恩顧を受けてここにいる。そんな例は以前にもあったのかもしれないが、全ての女の御簾内を許されたことは今までにない。
少年の心の内はわからない。
今まで他の女御の連れてきた赤子や私の娘に会った時は平常と変わらず礼儀正しく挨拶をし、可愛がってくれた。
それでもその子たちは一時的にそこにいる者で、ここに住むものではなかった。
彼は東宮により自分の存在の不安定さを思い知ったのだろう。
そしてもう一つ、私は東宮にとって唯一の母だ。
主上がどのような説明をしたのか知らぬが、多分私たちを生みの母ではないが全て母だと思え、と告げたのではないだろうか。
二の宮はその母を自ら選ぶことのできる者だと考えた。
まるでポケモンのように気分や状況に合わせて「君に決めた!」と訪れれば誰もが受け入れた。
が、それは実は自分に決定権があったわけではなく、女たちが許容したからこそのことで、決めていたのは実は女であったと気づかされたのだ。
女たちにとって出来の不出来にかかわらず自分の産んだ子は代え難い。だが人によっては帝でさえ代替えありの品だ。ましてや出来のいいだけの子供など、もっと見場よく哀れな幼児でも来たら早急に代えられてしまう立場であることに気づいたのだ。
二の宮は人の心理にきめ細かくなった。
よりいっそう相手を把握し、喜ばせることができるようになった。
しかもそれを安売りはしない。いつもは天衣無縫にふるまって、ここぞという時に相手に嬉しがらせを言う。その見極めは素晴らしかった。
ただし私は見切ることができた。
それでも彼はまだ子供だった。その時はまだ、あの光源氏ではなかった。
「私は兄上の次に帝になるのですか」
ある日無邪気に尋ねられ、周りにいた者は息を呑んだ。
あまりに賢いのでいちいち説明さえしていなかったのだろう。
そして、祖母君が存命だった時代こっそりとその望みを語っておられたのだろう。
息子が助けを求めるように私を見た。
ファーストコンタクトは別として、少年はその兄に懐いていた。
その心を傷つけたくはなかったのだろう、彼はあいまいな微笑を浮かべたままだ。
誰であろうと嫌な役目だ。もちろん私にとってもだ。だが逃げるわけにはいかない。
「二の宮が帝になるとは思わない」
私の言葉に驚いた彼に畳み掛ける。
「その能力はあると思う。が、帝は一人ではなれない。その方を守ってかしずく男たちが必要だ」
「みんな、私のことを好きだと言ってくれます」
「その通りだ。だが一の宮か二の宮か片方を選べと迫れば男たちはすべて一の宮の下に集まる」
「お母様、それはあまりに」
ひどい。自分でも思う。だがここで曖昧にしてなまじな期待を抱かせたままにする方がもっと残酷だ。
「女たちは別だ。全てを捨ててもお前のもとに集う者も多かろう。だが男たちは基本、情よりも理で動く。あるいは慣習によって動く。それは仕方がないことだ。男たちが情に左右されてはすぐに戦乱の世が訪れかねない。理性で縛った結果がしきたりだ。だから後見を持たないおまえは帝位にはつけない。それが道理だ」
涙ぐんだ少年を息子が慰めながら別室に導いていった。
「意地の悪い女だと思うだろうな」
ひとりごちた私に土器が差し出された。受け取ると提子から酒が注がれる。
「女御さま……いえ姫さまはいつも嫌な役目をお受けになる」
乳母子は干された杯に再び注ぐ。
「まさにそれがふさわしい人物なわけです。おまえも一杯呑みなさい」
「はい」
別の女房が新たな土器を運ぶ。長い付き合いの乳母子と共に酒杯を傾け、月が出るのを待った。
「今日は笛を聴いていただけますか!」
翌日、何事もなかったかのように少年が駆け込んできた。
「ああ、聴こう」
私も何も尋ねない。ただ、遠くなる彼のあの笑みをぼんやりと思い出していた。