書
藤壷視点
源氏十一歳
帝の急なお渡りで、片づけが間に合わなかった。前ぶれの女官といっしょにいらっしゃったのだもの、そんなの反則だと思う。
漢籍を眺めていた私は知らせを聞いて驚いて手をすべらせてしまい、転がった巻物は床に広がっていった。慌てて拾おうとした女房の手元もすり抜けちょうどいらっしゃった帝の目に触れた。
ただでさえこの趣味に批判的な女房たちは舌打ちでもしそうな顔だ。乳母子の弁だけが黙々と紙を巻いている。
彼はちょっと驚いた顔をしたが、私の横の茵(平安座布団)に座ると、ちょうど巻き上がったそれの方に手を向けた。拒むわけにも行かず弁が渡すと、周りの女房がいっせいに彼女をにらんだ。
「王維ですね。お好きですか」
優しい声で尋ねられる。いまさら隠しても仕方がないので、にっこりと笑ってそれを認める。帝は穏やかにうなずいた。
「私も最近になって学問を進めているのですよ。宮が学友になってくださると心強いです」
「詳しいわけではありませんわ。殿方と同じようには読めません」
「そうですか。どれ、拝見」
止める間もなく立ち上がり、二階厨子の方へ行くとそれを開いた。その勘は正しい。確かにそこに私の蔵書がしまってある。冷や汗を書いていると中をざっとあらためられた。
「基本をしっかりと押さえてありますね」
「どちらの意味でも恥ずかしいわ」
女性なのに真名(漢字)を読むことも、それほどの学才はないことも。
「いえいえ、立派なものです。いつでも中宮になれますよ」
「からかわないでください。もっと極めた方がいらっしゃるでしょうに」
軽くにらんで見せると苦笑を返された。
「あちらの方は極めすぎですよ。学者だってかなわない」
伝え聞く話によるとその教養はすさまじく、史記なんかどの部分でも暗唱できるほどで九流十家(諸子百家の主なもの)の全てに通じているそうだ。
「以前、祝い事のときに見事な四六駢儷体(対句の多い華麗な文体)の漢詩を作ってくれました。わかりにくいと伝えると、今度は元白体(比較的カンタン)で作りなおしてくれました」
「すごすぎますわ(小並感)」
ちょっと呆気にとられてしまうほどだ。私程度のささやかな読書など、足元にも寄れない。
「光ならいつかは匹敵できるほどに行きそうだけど、そこまで学問を極めようとしたら体を壊してしまいそうなので止めているのです。学者にもある程度で抑えることを命じています」
帝は過保護な父親の顔になって彼を気づかった。
こんな時の彼はなんだか温かくて好き。私に対してもとても優しいけれど、それよりも親身な感じがする。
「ですからあなたもこちらの趣味は彼には内緒にしていてくださいね。尊敬する藤壷の宮が学問にいそしんでいると知ったら、むやみやたらに勉学に励みそうなので」
「もちろんですわ」
そうじゃなくても恥ずかしくてとても言えない。
帝は私の答えに満足して、もう一度ゆったりと隣の茵にお座りになった。途端にいつものように少しだけ気づまりな気分になる。
どこか子供っぽいところがおありになるけれど、帝はとてもいい方だ。入内前におっしゃった娘のように世話をするという言葉は嘘ではなくて、暮らしのことや身の回りのことなどそれは細かく整えてくださる。
ここに来るまでも不自由なほど困ったことはなかったけれど、荘園からの届け物が明らかに目減りしていたりして、それほど華やかな暮らしはしていなかった。今では帝は一言もおっしゃらなくとも、仕える人たちが配慮してくれて何事も滞りない。
だけどいつも微かな違和感を感じてしまう。蜜の甘さを期待していたお菓子が実は甘葛で味をつけていたような、そんな違い。
彼が私に昔の人の面影を見るのは仕方がない。時おり本当にその人だと思ってしまうのか、好みを間違えたりするのも許容できる。
でも、時たま目にする妙に冷たい視線、探るような測るようなそんなまなざしに気づくと、心の底から冷えてしまう。
私がもっと年上で、最初から入内していたらこうではなかったと思う。そうだとしたらこの方を心から愛せただろうか。
わからないし仮定自体が無意味だ。それよりも最初にお会いした時の素直に感情を出されたこの方を思い出して、ちゃんと好きでいようと思う。
「それにしてもなぜ最近になって学問に励まれていらっしゃるのですか」
「いろいろ調べたいことがあるのですよ。学ぶと情報が増えるのがいいですね」
「ええ。何についてお調べですの」
何気なく尋ねると、ちょっと間があったがにっこりと微笑まれた。
「そうですね。武帝についてとか、いろいろですね」
前漢の帝を調べて政の参考になさるのかしら。ご立派なことだと思う。
「帝こそお体に気をつけてくださいね」
「ありがとう。でもあなたもです。お疲れになるようでしたら、全部取りあげてしまいますよ」
からかうようにおっしゃったけど目が本気だ。この方は私を過剰に気づかってくださる。
以前も割れた土器のかけらが目立たぬところに残っていて、うっかり指で触れてしまってほんの微かに傷ついた時など、危うく女房が罷免されるところだった。そのお怒りの様は尋常ではなかった。
「ええ、もちろん。どうせささやかに読むだけですわ」
彼はにっこりと笑って脅したことをわびた。この笑顔は好きだ。少し翳りを含んだ大人の顔。わずかに含んだ苦味が男らしいと思う。ちょっと見惚れてしまった。
「こんなに大事にされている方は他にいませんよ」
「そうね。今日も下賜された物が多いわ」
女房たちが語り合っているのが耳に入る。私は脇息にしどけなくもたれたままそれを聞く。
「氷魚も連日届きますね。宮さまが特にお好きなわけではないのですが」
「たぶん、以前の人のお好みでしょう。でも逆ならともかく内親王さまが更衣の好みに引きずられるのも妙な話ねえ」
それでも亡くなった人は私の地位を脅かしたりはしないので、みなどうにか受け入れている。
――――どんな方だったのかしら
容姿ではなく人柄が気になる。帝がああも執着なさるなんて、その更衣は人とは違うはずだ。身分さえ関係なく彼の心をとりこにした女。
体が弱かったって聞いているから、はかなげで可憐な人だったのかしら。それともセクシーで色香がこぼれるようなタイプなのかしら。
気にしたって仕方がないのに心が揺れる。私はその方と比べると未熟なのかもしれない。
御簾の向こうに見える景色まで、急に冬の色合いが増したような気がする。
「でもありがたい話だわ。恐い話が多いこの頃、気を配っていただいて警護も手堅いことは」
王命婦が廂の間から奥へ戻りながらそういうと、中納言もうなずいている。あら、と思って尋ねると中務がおっとりと答えた。
「いえ、盗賊ではありません。もののけの類ですわ」
内裏で怪しいものを見たとか、すすり泣く影に会ったとか、外でも鬼が渡って行ったとか、百鬼夜行が通るとか本当とは思えない話が囁かれているそうだ。私も自分では見かけたことがないので信じられない。
「この場は大丈夫でしょう。宮さまの指先一つ傷ついても帝がお怒りになるほどですから」
「ええ。でも念のために弘徽殿の女御さまの手蹟をもらいに行きましょうか」
一人が今にも駆け出しそうにしたが別の者が止めた。
「およしなさいな。こんな時だけ頼るのはみっともないし」
彼女の書は邪をはらう効果があると評判だ。だけどこの部屋には一枚もない。
「そうよ。それに血筋から言えばずっと上の宮さまの手蹟の方が効果があるんじゃない」
王命婦が反感をあらわにした。いえ、私の書は下手ってほどではないかもしれないけれど、地味だしなんだか弱々しくてそんな力はなさそうだ。
立ち上がりかけた女房はまた座ってしまった。でも、いくらか不安そうな表情だ。
「以前もそんな噂が流れたことがあったらしいわね」
「ああ、二面のもののけね。聞いたことがあるわ」
「夜な夜な承香殿の馬道を駆け抜けて内裏に入り込み、人を狙うって噂だったわね」
「怖い顔と優しい顔があって、怖い顔ににらまれるとへそを取られるそうよ」
「雷様と混ざってない?」
「わたし、眠らされて一生目覚めないって聞いたわ」
「あ、わたしは人形に変えられるって聞いたけど」
ひとしきりオカルト話に花を咲かせると、結局「でも、まさかね」で終わってしまった。それでも私を心配させないように、今日の宿直は予定よりも多めになった。
だから絶対安心だしそもそも信じていないのだけど、なんだか少しだけ不安になって弁に頼んだ。
「今夜は御帳台(平安ベッド)のすぐ横にいてね」
無口な弁は力強くうなずいて、傍にいてくれた。私は安心して眠りにつくことができた。
訪れのない静かな夜。誰にも気を使わずにゆっくりと眠った。