闇夜
源氏十一歳
帝視点
「昨夜は実に見事な満月でしたが、今宵もなかなかひけを取りませぬな」
「管弦の調べがことのほか映えて。伝え聞く昔の琴の音もこれほどまでではなかったでしょう」
高欄に裾をかけた殿上人たちがこちらを意識したまま語り合っている。その内容を否定したくはあったが、黙ったままにこやかに御簾内にいた。
「いかがでしょう、主上」
新しい内大臣が声を張り上げた。娘の琴の音をほめさせたいのだ。私はその期待に答えてやった。
「そうだね」
とたんに得意そうに頭をそびやかす。策士だと言われるが思ったよりわかりやすい。
「いやいや、かつての遊びはこれ以上であったでしょう」
「時の薄衣を通すと現実以上に見えるもの。劣っていたとは申しませぬが、さして差があるとも思えませんな」
そんなわけがあるはずがない。あのときの音を汚す気か。心のうちが怒りで苦くなるが穏やかな表情でそれを聞く。泣こうがわめこうが何も変わらないと知ってから、偽ることが上手くなった。
十六夜の今宵、響く調べの主役は内大臣の娘の新女御だ。と言ってももともと更衣だった人だからもの珍しいわけではない。音もなかなか冴えている。並みの者と比べたら達人といっても惜しくない腕だ。
――――だけど、どうだっていい
彼女の琴じゃないのならなんだって同じだ。それは誰だって同じだ。左に控える藤壷の宮の琴さえどうだっていい。
彼女もなかなかの腕前だ。透明感のある優しい音で充分に魅力的だ。膝元に控えるわが息光はこの宮の琴を聞くと嬉しそうな顔をする。確かに年の割には見事だと思う。
――――彼女の音は他とは違った
天界から月の光を招いたようなあの音。秋の憂いも春の喜びも含んで時を忘れさせた彼女の琴の音。
そこそこ鍛えてほどほどにできる程度の者が近寄れるわけもないのだ。
音を聞くとむしろいらつく。立ち上がってわめきたくなる。
だがそんな様子は意地でも見せない。昔どおりに楽しんでいるような顔をする。
――――次は麗景殿さんを無理に誘おうかな
予定調和な遊びに亀裂を入れるのは楽しいかもしれない。
それに最近彼女にはあまり会わない。みな彼女の父君が致仕(引退)となられたためと思っているけれどそのせいではない。
優しい姉のような彼女はいつも私を癒してくれた。全てを失い過剰に女たちの間をさ迷っていた時も、この人だけは変わらない温かなともしびで、疲れたときには休みに行った。
あまりに安心してしまうのが悪い癖で、彼女との間に子供はいない。もう充分にいるからほしいわけではないけれど、一人ぐらいはいてもよかったと思う。
だけどこの頃は会うのが怖い。心のうちに抱えたこの闇を見透かされそうな気がして、なるべく会わないようにしている。
それでも手放すつもりはない。この人があの殿舎で暮らしていると思うだけで何らかの歯止めになっている。強欲な私はそのささやかなともしびさえ失くしたりはしない。
「次の曲を」
新女御の父が促し、竜笛に琴の音が導き出された。ムダなことだ。何も感じない。
ちら、と藤壷の宮に目を向けると少し困った顔をしたが、そのまま見つめ続けると筝に手をかけた。
満足そうにうなずいてみせる。女御の父は不満そうな顔をしたが、殿上人たちは計算を始める。
――――やはり藤壷の方に対する寵愛は深い
――――内大臣は今は時めいてはいるが、いつまで続くことか
――――あまり肩入れしすぎるのもまずいかもしれぬ
――――しかし、藤壷の方の後見は親王。その力には限度がある
声なきその声を聞いているうちにふいに面倒になって左大臣に目を移した。彼はにこにこと曇りのない笑顔を向けてくる。私も微笑み返す。
彼に感じる親愛の情を他の人には持てない。藤原長者なのに生臭い政やはかりごとと無縁の温かな人だ。私の姉の夫でもある。
彼には何人もの子がいるけれど、姉との間の子は二人だけだ。一人は大事に育てられている姫で、もう一人はここに控えている臣下だ。まだ若いが有能で父にない覇気のある人だ。端の方にいるがどうどうとしていて自信ありげだ。
気に入りの左大臣の息子だから目をかけてやっている。彼も忠実に仕えるが、実のところこの人が一番気を配る相手は私ではない。
光とも仲がいい。しかしまだ童形の源氏だ。すでに世に出たこの人はちょっとからかうように対応している。
そして彼が自分の主と決めているのは東宮だ。表に出すことはないがそれは感じとれる。
みな現在の帝である私におもねるが、中でもはしこい者はもちろん東宮に媚を売る。次の世が来たときの布石をしておきたいらしい。
――――そうカンタンに譲る気はないが
でも、左大臣の息やいくらかの臣は損得抜きで東宮に心をつくす。
――――それも気に食わない
東宮は誰にでも優しく、私や右大臣、そして弘徽殿さんには逆らわない。
見ているとイライラしてくる。そんな卑屈な態度で国のてっぺんが勤められるのかと言いたくなる。
彼の将来なんてカンタンに目に浮かぶ。外祖父と母による傀儡政権。それしかない。
私のやり方は間違ったかもしれない。それでも自分の意思で人を愛しそれを貫いた。彼にそんな気概は見あたらない。
私と同じような顔で、似たような声でふがいない現状に満足するな! それが帝というものだと思っているのか!
内心の怒りを閉じ込め薄い笑いを含んだままでいると宮の筝が終わった。私は誰よりも先にそれを誉めそやす。その必要があるからだ。
「本当に素敵でした」
彼女を見つめたまま光がうっとりと同意する。それに対して東宮が「どちらも素晴らしい腕前ですね」とやわらかく補足する。
藤壷のみを称賛したわれわれを愚弄する気か。
眉間に皺を寄せた私を見て、とたんに周りが藤壷を褒めちぎる。満足げにうなずき、それから新女御にも言葉を与えた。
「あなたも精進しましたね」
目を反らさずににっこりと微笑んで見せる。
とにかく藤壷の優位さえ確立できればいいだけで、この女御に恨みはない。
彼女は口の端を上げ、頭を下げた。不満のかけらも見せない。
「私の周りには楽を極めた方が多くて幸せです」
そう告げると女御の父が少し顔色を変えた。この場にいないもう一人の、そして最大の力を持った女御のことを思い出したのだろう。
新女御のデビュー戦を飾ろうとしたこの男は、弘徽殿さんの出席を阻止しようとした。もちろん彼女か右大臣の力を持ってすれば簡単に破れることだ。
しかし彼女は最近ではめったに正式な女楽には出ない。自分のもとへ人を集めて催しを行うことはあるけれど。
この件で面白かったのは新女御だ。遊びが決まった後会った時「弘徽殿の女御さまもいらっしゃるのですか」となぜだか顔を輝かせた。否定するととたんに萎れた。その父と逆の反応だった。
腕くらべを望んだのだろうか。確かに以前よりだいぶ上達しているが、あちらの腕前には及びもつかない。
弘徽殿さんの琴のことを考える。
以前その価値に気づいていなかったとき、私の大事なあの人に責められた。
「あの凄さがわからないヤツに誉められてもな」
そういって彼女は聞き方のコツを教えてくれた。もとから音の遊びは好きだったけれど、おかげで世界が広がった。
彼女が称えた弘徽殿さんの音は別格だ。もちろんあの人の音ほど私の心を惹くわけではないけれど、他の人と比較などできるわけがない。
でも私はそんな心根を隠して藤壷の音を気に入り、人柄を愛し心底彼女を寵愛しているふりをする。全ての人がその立場を受け入れるように心を砕く。
宮は賢く優しい人柄で、最初から入内していたとしてもそれなりに大事にしたとは思う。でも最愛の相手になることは絶対になかった。なぜなら彼女は、仕方がないから私を好きでいてくれるだけだからだ。
あの人は違った。他の誰とも違った。なさけなくてみっともない素のままの私を好きでいてくれた。
他の方も、たとえば麗景殿さんなんかは本当にこちらを好きでいてくれると思う。
そして弘徽殿さん。私はこの人がこわい。そしてたぶん憎い。彼女の名を聞くと血が逆流する気がする。
なのに。逆流した血はいつも熱く泡立って、どうしても彼女を単なる一人の女御として軽く扱うことができない。
それは彼女の父が権力を持っているからではなく、ましてや彼女が東宮の母だからではない。ああ。それだけは絶対にない!
弘徽殿さんはいつも強くてお不動さまのような人だ。だけど私はあの人の涙を見たことがある。それはとてもきれいに輝いて彼女の頬を滑り落ちた。
桐壺の更衣が亡くなり、私がわれを忘れた時に確かに見た。一瞬、死んだあの人のことを忘れるほど清らかな涙だった。
だけどそれはすぐに消え、強く冷たくいかめしい女がその場にいた。私はまた取り乱したが何かが心の底に残った。
まるで夢のように淡い一片の疑惑。彼女は私のことを本当に好きなのではないだろうか。
そんなことがあるはずがない。あの強くてこわくて頭のいい人が私なんかを好きなわけがない。そんなフリをしてだまそうとしているだけだ。
何度も否定してみるが薄絹のようにそれはまとわりつく。
記憶の底にいるあの晴れやかな姫君が、一瞬だけ今の彼女に重なる。
けれど私は昔のあののんきな男ではない。素直に笑いかけることもできず、意地の悪い態度をとったりする。
彼女は容易に本音を表したりはせず、始終冷静だ。だけどまれに彼女の傷を感じると、私の心は歓びに満ちる。
――――まだ、私の言葉に傷つくほどには興味をもたれている
自分でもよくわからない。憎しみだけを持つなら、最近覚えたように穏やかに表面だけ礼を尽くし、心の底で切り捨てればいい。
なのに私は彼女を傷つけ、喜び、後悔して癒そうとして拒まれ、また傷つける。
音の遊びが終わり、殿上人たちがどちらの妃を残すか気にかける中、まずはにっこりと藤壷をねぎらい、その上で新女御を残した。これは彼女のための会なので宮を下げることにはならない。私は空気を読むことが得意なのだ。
がっかりした藤壷の女房たちの中で、当の宮だけがほっとした表情を浮かべることを目の端に刻む。
ちくり、とわずかに胸が痛むがすぐに治まる。彼女の中身はいらないのだ。
「月にふさわしい楽しい遊びでしたね」
光が弾むような声でそう言い、視線をめぐらせてまた藤壷の方を見てにっこり笑った。
「ああ、そうだね。次は光も笛で参加するといい」
「私程度の腕じゃ恥ずかしくって」
「そんなことはない。光の笛は年の割には見事だ。ああ、でもまだかなわない相手もいるね」
左大臣の息に目を向けると、少し得意そうにそれを受ける。とたんに光がぷくんと膨れる。
「すぐに追い越しますよ」
左大臣の息が余裕ありげに光を見るので、彼もすぐに大人っぽく表情を整えてそれを見返す。私は二人をにこにこと見つめているもう一人の若輩者に目をやった。
「……まあ、もう追い越している相手もいるね」
東宮の冠がわずかに揺れた。だが彼はそれをすぐに止め、上品な姿勢を崩さない。それが小憎らしいが横で典侍が散会の合図を待っていることに気づいたから、うなずいて立ち上がった。
静けさを取り戻したころ上局から、夜着の上に青系の色の小袿をはおった女御が夜の御殿に現れる。他の人と同じく美しい人だ。先ほども青みのある衣装だったので、心の中で青衣の女御とあだ名をつける。
なにもかも面倒で黙っていると、彼女はそっと微笑んだ。
「……きれいな月でしたね」
その瞳をじっと見返す。
「月? 月なんてなかったよ」
女御は驚いてとっさに東の方に目をやるが、塗籠のように閉ざされたここは隣の二間との境が閉めてある限り外は見えない。
賢い人らしく口を閉めたが瞳に疑問が残っている。うっすらと笑ってそれに答える。
「空に浮かんでいるあれは月じゃないよ」
さすがに瞳が大きくなるが、何か戯言を言っていると思ったのだろう、尋ねようとはしない。だけど私はひたすら本気だ。
「あれはニセモノ。本当の月はずっと昔に消えてしまったんだ」
何か言いたげに彼女が口を開きかけ、ためらってまた閉じた。その様子が面白くて顔を近づけると、たきこめた香の中にほんのわずかに水のにおいがする気がする。
「でも心配しなくてもいいよ。本物の月を取り戻すから。あなたの琴はなかなかだからちゃんと練習を続けてね。本当の月を見ながら音の遊びをしましょう。その時は弘徽殿さんも呼ばなくちゃ」
不安そうに見つめる彼女にそっと内緒ごとを告げる。
「形代は用意できたから、きっともう少しだよ。楽しみだね」
なんだか私まで若返った気分で、うきうきと彼女に笑いかける。青衣の女御は衣より青ざめて、私の方を黙って見ていた。
や帝