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源氏夢想譚  作者: Salt
第一章
16/89

麗景殿の受難

源氏十一歳

麗景殿視点

 東宮(とうぐう)さまの元服(げんぷく)の話を聞いたのは、里の一室でだった。


南殿(なでん)紫宸殿(ししんでん))でそれは重々しく見事にとり行なわれました」

「国をあげての祝い事ですが、滞りなく終わったようです。母君さまからお祝いのお礼とお返しがありました」


 ささやかな品をお送りしたのだけれど、受けていただいて嬉しい。


「それと………お見舞いのお言葉もありました。また落ち着きましたら改めて使いを出しますと」

「おめでたい折に思い出さなくてもいいのに。律儀ね、弘徽殿(こきでん)女御(にょうご)さまは」


 内大臣である私の父が倒れた。命はどうにかとりとめたけれど、居室に寝たきりで言葉も不明瞭になった。寿命を延ばすために高僧を呼んで出家をした。

 とたんに魑魅魍魎(ちみもうりょう)がはびこった。お役目を果たすこともできず仏の力にすがるだけの存在は、その地位を返上するべきだと喧しい。

 私の身内はさんざん抗ったが、ついには屈せざるを得なかった。


「あれだけ殿にお世話になったのに」

「言うもこと欠いて、致仕(ちじ)の大臣とおなりになっても女御さまの身分は変わりませんから、ですって。あたりまえではありませんか」

「そんな当然のことさえ恩を着せるように。なんてことでしょう」


 みな憤っているけれど、どうすることもできない。やるせなく視線を宙にさ迷わせた。

 もし、帝との間に和子がいて今ひざ元にすがっていたとしたら、私はどんなに強くなれただろう。みなを励まし、父を元気づけ諸官を呼びつけて家の存続を画策したに違いない。

 けれど私は素腹の女御で、どんなにたくらもうと虚しいだけだ。


 さして寵愛の深くない者さえ帝との間に子をもうけている。お会いすることはたびたびありながらも得ることのない私は、どれだけ彼と前世の縁が薄いのだろう。


「お姉さま」


 妹の声にはっとする。いけない、これ以上彼女を不安がらせては。


「大丈夫よ。心配させてごめんなさい」


 微笑むとほっとしたように固くなっていた表情を緩める。この子にはいつも明るい日差しの中にいてほしい。そのためにもしっかりしなくては。

 背筋を伸ばして前を見た。それだけで少し運さえ前向きになったのか、帝の使者が文を持って訪れた。


「父上のことはご心配でしょうが、ぜひ内裏(だいり)に戻ってくださいと書いてくださったわ」


 あいかわらず優しい方。入内(じゅだい)の頃からずっと思いやってくださる。


「留守居の者からも届いているのですが、なにやら気になることが書いてあります」


 驚いて耳を傾けると、留守だというのに何かと理由付けて男たちが立ち寄るとか。


「どういうことでしょう」

「さあ……。何か意味があるのでしょう」


 また不安になってきたけれどその様は出さない。できるだけ落ち着いた様子で内裏に戻る支度を命じた。



 道行(みちゆき)は今までよりも寂しかった。手足のように仕えてくれた者たちのほとんどが現れず、私の家が力を失ったことを知った。それでも麗景殿(れいけいでん)は今までと変わらずに整えられていて、閑雅(かんが)(おもむき)を失っていなかった。

 磨いたような白砂が清らかに光る。御簾(みす)も新しく変えられていて青々としている。

 留守居の者をねぎらうと一人が顔を曇らせて最新の情報を伝えてくれた。


「……以前からいる更衣(こうい)の一人が、女御に昇格することが決まりました」


 予想はしていた。臨時の除目(じもく)で父の後に決まった方の姫がすでに更衣(こうい)として入っていたのだから。


「女御さまがいなかったら、この後宮にいることすらできなかったのに」

「ひとこと釘を刺してやりますわ。あのことは元からいる者はみな覚えていると」


 かつて内裏で刀を振り回したあの更衣がその地位につくのだと聞いた。


「やめて」


 首を横に振った。そんな浅ましいことはしたくないし、彼女の父はやり手だ。娘に不利な噂を振りまく女房を排除するためにはどんな手でも使うだろう。

 こうなる以前から後宮の勢力は変わりつつあった。新しくいらした藤壷の方が大きな位置を占め、結果としてその兄上が重視され始めた。だけどしょせん親王(しんのう)、名さえ重んじておけば(まつりごと)を左右することはなかったけれど。


「今回あの方の父君がお役についたのは左右大臣のバランスの下に成り立ったともいえますわ」

「右大臣側の方ではありますが身内を通じて左大臣側とも縁をお持ちです」

「藤壷の方の兄上にも擦り寄っています」


 暗躍する人々。今までそんなことを気にせずにいられたのは父の庇護のもとにいたからだと改めて気づかされる。彼の力が失われたからには自分一人で歩かなければならないことも。



 (くだん)の方は華やかな儀式をとりおこなって女御になられた。人も羨むうようなきらびやかな装束を身につけた姿をわずかに垣間見ることができた。格別寵愛が深いわけではないけれど、身分に応じてお呼びが増えた。

 新しい人はともかく、秘密を守った人の中には面憎いと思った者もあるらしく、さっそく古参だけの女子会が開かれた。


 以前より人数が減っている。女御の一人は病が(あつ)くなり立場を捨てて出家してしまった。更衣も一人、御子を宿したまま亡くなられた。新しい人は増えたけれど今回は呼ばれていない。弘徽殿の女御さまもいつものようにお見えにならない。


「ようこそ、新しい女御さま」


 かつてふくよかだった人は今はやつれている。だけど瞳だけはギラギラと嫌な光を見せている。


「お出でいただいて光栄ですわ」


 どう考えても新女御にとって楽しい会になるはずがない。だからいらっしゃらないと思っていた。けれどその女御はみなの前に手をつき頭を下げた。


「みなさまのご厚意を持ってこの場にいることを許された身です。お応えしないわけがありませんわ」


 顔を上げるとたじろぐほどの明るさでにっこりと微笑む。きれいだ、と私は思い他の方も気圧された気配がある。


「なにをおっしゃいますやら。時に見捨てられた私たちは昔のことなど一つも覚えていませんわ」


 もう一人の女御が凄みをきかせて挑みかかる。けれど相手は「感謝いたします。みなさまお優しくて」と軽くかわした。

 憤った女御が何か言えとばかりにこちらをにらむ。私は恥じて下を向いた。


――――こんな場に来なければよかった


 かつてを知る者が人を(おとし)めるためだけに設けた会になぜ来てしまったのだろう。

 そもそも無意味だ。本気で引きずりおろすには弘徽殿の女御さまの承諾が必要だ。たとえ殿方に昔のことを吹き込もうとも、彼女が「そんなことはありませんでした。一人だけ身分が上がったことに対する古参の者の嫌がらせでしょう」と言ったのなら逆転して立場を失う。


 このわずかな間に新女御は攻め込んだ。するすると元ふくよかな更衣ににじり寄り、あっという間にその手を取った。


「それよりも私は今幸せです。ようやくお会いできたのですもの」


 意表を突かれた更衣は一瞬固まって彼女を見た。とても真摯な表情の女御がそれを見返す。


「寂しかったわ。会ってくださらないのですもの」


 更衣はふん、とそっぽを向く。


「女御さまの身分に上がられた方に格下の者がすがるのも見苦しいでしょうから」

「なにをおっしゃるの」


 彼女は瞳を潤ませた。


「そんなの関係ないでしょう。昔私が琴のことでご迷惑をかけてそれを許していただいた時に思ったの。この大きな心の方と一生友でいたいって」


 涙が目の端から滴り落ちる。ぬぐいもせずにそれをこぼし、掴んだ手を強く握り締めている。

 その様を見ていた更衣の目にもしずくが宿った。


「そこまで思っていてくださったなんて……」

「あたりまえでしょう。身分がなんだというの。私たちは生涯友達よ」


 いまや更衣も滂沱(ぼうだ)の涙だ。


「ありがとう、心の友よ……」

「嬉しい……」


 新女御の心のうちはわからない。まったくの真心から出た言葉なのかもしれないし、ただ単に味方や情報の手綱を失いたくないためなのかもしれない。でも、更衣を見て思った。これがチョロインってやつかしら。


 こほん、と別の女御が咳をした。


「お仲がよろしくてうらやましいこと。その交際術はお父さま譲りなのかしら」

「いいえ。心からみなさまをお慕いしているだけですわ」


 女子会では身分を強調しないために女御も更衣も小袿(こうちき)姿で集まる。女房以外は唐衣(からぎぬ)()もつけない。彼女は藍染の(はなだ)に白を重ねていて、青みを帯びた衣のせいできめ細かな肌の白さが際立って見える。


「父も今は多少お引き立てを受けてはおりますが、非才の身ゆえいつまで持つかわかりませんわ。長くご評判の女御さまのお家の足元にさえ近づけませんわ」


 一見引いたように見せて時流から離れた相手をディスった。


「あらあら、今一番輝いているお父上に失礼ですわ、ねえ麗景殿の女御さま」


 嫌味を言いつつパスを投げてくる。でも、何とか無難に終わらせたい。


「せっかくの女子会ですし別の楽しいお話にしましょうね。私もほんのしばらく父の心配を忘れさせていただきますわ」


 にっこりと道筋を決めると他の方はあえて逆らおうとはしなかった。



 そのとき件の女御が私をどう見たのかは知らない。しかしその話を伝え聞いたはずの彼女の父はくみしやすしと見たらしい。それからすぐに彼の手足となって動く男が現れた。もともとは父の配下の者だった。


 

「なんですって!」


 取次ぎの女御が叫ぶ。寸時に冷静さを取り戻して拒絶の対応を取った。


「そのような言葉で女御さまのお耳を汚すわけにはいきません。すぐにお帰りください」

「今日はこのまま帰りますがね」


 にやにやと白砂の上の男は笑った。


「また何度でも参りますよ」

「ご遠慮申し上げます」

「それじゃまた」


 敬意の欠片も見せずに男は下がった。


 女房たちは耳に入れたくなかったと思うけど、訪れた男は声が大きい。しっかりと聞こえていた。

 女御をやめて引き下がれと彼は告げた。子もいず力ある後見もない私が後宮で大きな位置を占めるのは無意味なことだと。

 私に父以外の身内がいないわけではない。しかし温和すぎる性格の者が多く、それなりに老獪(ろうかい)な知恵を持つ父と違って大した力を持たなかった。身分もまだ低い。


 女房たちは怒り狂った。


「なんと恩知らずな」

「すぐに内裏中に噂を広めてやりましょう」

「…………やめて」


 声に力が入らない。それでも彼女たちは全て私を見た。


「あの女御さまはこのことを知らないと思うわ」

「それでもこの度のことで得をするのは彼女ですわ!」

「彼女の父君が命じたに違いありませんっ」


 穏やかだった女房がみな声を荒げている。


「それはどうかしら」


 人聞きの悪いことについては上の立場の者はいちいち望みを口にしないことが多い。下の者は勝手におもんぱかる。特に新参者はそれが激しい。



 男は何度もやって来た。


「いや、こちらの方もなかなか頑張りますねえ。いいでしょう、わたしも鬼ではない。女御さまであり続けることは認めましょう。どうです、殿舎(でんしゃ)だけでもお譲りいただけませんか。そうしていただければ当方もそれなりの配慮はいたしますが」


 けんもほろろに帰した後、女房たちが進言した。


「帝におっしゃってみるのはいかがでしょう」

「無理だわ。口ではとてもかないそうにないもの」


 それに昔桐壺の更衣のために場を移った更衣があちら側についた。過去の例を都合よく使うに違いない。


 一人の女房がふいに目を輝かせた。


「弘徽殿の女御さまにお話してみてはいかがでしょう」


 みんながいっせいに活気づく。それを否定することは辛かった。


「…………いけません」

「なぜです。きっとご尽力くださいます」

「今最も世に力を示しているのは右大臣さま、そしてその方を思いのままに動かすことのできるのが弘徽殿の女御さまですわ」


 彼女がことを納める力を持っていることは確かだ。お願いすればたぶん「わかりました」とひとこと言ってなんとか取り計らってくださるに違いない。

 なのに私はどうしてもそうすることができない。情けないほど小さくて傲慢(ごうまん)矜持(きょうじ)が、たとえこの場を追われようともその選択だけはさせてくれない。


「あの方だって和歌の件では女御さまを頼りになさったではないですか」

「それはまったく別の話。私も漢詩を作らなければならないのならためらいなく女御さまを頼るわ」


 しかし私の進退や殿舎の移譲は(まつりごと)だ。無理に争おうとは思わないけれど妃はみなライバルでもあるのだ。それを知らぬふりをして他の妃にすがればその者は敗者だ。いえ、私はとっくに負け犬だけれど、それでも意地だけは持ち続けたい。

 女御の立場を失うよりも、女御の資格を失う方がいや。


 じわじわと包囲網が狭められる。

 身内の従者が他の従者に喧嘩を売られる。女房の親がいやがらせを受ける。下仕えの者が何人も辞める。一つ一つは小さくても重なるとダメージは大きい。

 それでも私の女房はよく耐えてくれた。

 だけど妹の乳母の里が盗賊の害にあったとき、もはやこれまでと覚悟を決めた。


 今までは白砂の上にいた男を初めて簀子(すのこ)に上げた。


「何でもご難が続いたようですね。ご愁傷様です」


 男はまた大声で言い、嫌な笑いを見せた。

 私の女房はこめかみを震わせながら言葉をつないだ。


「お申し出の件ですが、こちらの方でも前向きに考えさせていただこうと思います」

「そりゃあいい。なかなか賢明ですな」

「しかしこちらも大きく譲歩するわけですから、そちらにもいくつか話を呑んでいただきたい」


 彼女はこちらの者に手を出さないことなどの他、私の身内の昇進を妨げないことなどささやかな条件を出した。が、男は鼻を鳴らした。


「そんな話は聞けませんなあ」


 憎々しげな顔でせせら笑う。激高する女房を居丈高に脅し始めた。


「最初から大人しく出ていれば考えてやらないでもなかったが、今更すぎるな」

「女御さまの前でなんと無礼な!」


 脅えたのか女童(めのわらわ)の一人が部屋から飛び出す。


「ろくな後見を持たぬ女御など女御とは言えませんなあ」

「おのれ下司(げす)! 下がりおろう!」

「下司に侮られるようではこちらの方もたかが知れる。黙ってこの殿舎から出て行け。なあに、三日ほどは待ってやりましょう」

「断る!」

「いいのですかあ。下のお嬢様はお元気そうですね。それが続けばいいのですが、心配ですね」


 災厄が男の形でそこにいた。彼は足さえ崩してにやにやと笑う。御簾と几帳(きちょう)越しとはいえ垣間見て気が遠くなりそうになる。いいえ、そんな場合ではない。

 彼に対応していた女房は泣きそうな顔で振り返って私を見た。決断しなければならなかった。


「女御さまに直にお言葉を賜りたい。どうお考えです? あなたが我を張るために一族も仕える者も一様に迷惑をこうむるこの状況を」


 せめて妹が誰かに嫁ぐまではこの由緒正しい殿舎の名を持つ女御でいたい。父の助けさえないあの子を守るためにも。そう思っていたのにこのままではかえってその身を危うくしてしまう。


「さあ、お決めください。色よいお言葉をいただくまではこの場から離れるつもりはありませんよ」


 男はずいずい遠くからにじり寄り、上体を御簾の切れ目に突き入れた。

 まだ几帳があるけれど体が震える。だけど必死に脇息(きょうそく)で身を支えて相手をにらむ。男は几帳の方へ手を伸ばした。


「どれ、女御さまのご尊顔を拝ませていただこうかな」


 その時だった。

 遠くから虫の羽鳴りのような音が響き始め、それは見る見るうちに近づいてきた。

 流石に男が驚いて振り返る。


「いったい何…………ぎゃっ!」


 音よりもわずかに早く円座(わろうだ)が御簾の割れ目を越え、回転しながら男の顔にガン、と当たった。

 周りの女房が思わず立ち上がる。そこに雷鳴のごとき大音声が響き男の名前がフルネームで呼ばれた。


「動くな! そのままで待ていっ!!」


――――また最長距離を伸ばされたわ


 弘徽殿の女御さまの円座は簀子も孫廂(まごびさし)も越え(ひさし)の間まで達した。男がいなかったら母屋まで飛んだかもしれない。


「ひ、ひいいいっ」


 男はとっさに逃げようとした。だけど腰が抜けたのか身動き一つできない。

 弘徽殿と麗景殿は向かい合ってはいるけれどかなり距離がある。けれど女御さまを中心とした一団はあっという間にこちらにいらした。


 檜扇(ひおうぎ)で顔を隠したまま、彼女は廂に足を踏み入れた。男は全身を強張らせたまま逃げることもできない。

 彼女はいつも誰にとっても、弘徽殿という名の事件だ。


「こ、こ、こちらの方が、こ、後見が不確かになったので、で、で、殿舎を譲りたいと……」

「嘘をつくなッ!!」


 ちはやぶる神の稲妻、そんな異名を聞いたことがある。


「う、う、嘘ではありません」

「おまえはこの私が最も得意としていることを知っているか」

「す、す、全てですっ」

「中でも一つあげれば楽の遊びだッ。本気になれば凡人には及びもつかぬほどの音さえ聞き分けることができる。女童が知らせに来たので耳を傾けた。おまえの声は大きい。何を言ってるかまるっとお見通しだっ」


 私の使い立てる女童は弘徽殿メンバーの片隅にいる。

 男ははいつくばって床に頭を何度も打ち付けた。


「申し訳ありませんっ。申し訳ありませんっ」

「帝の妃の一人である麗景殿の女御に、何たる無礼ッ! 彼女を(おとし)めることはこの私を貶めることと同じだっ」

「ふ、ふ、不心得でありましたっ。どうか、どうかお許しくださいっ」

「許さんっ!!」


 響き渡る大音声に彼女以外立っている者はいない。


虎子(おおつぼ)(平安トイレ)の用はすませたか? 仏に念仏は? 殿舎のスミでガタガタ震えて命ごいをする心の準備はOK?」

「ひ、ひいい、ひいい――――――――――――っ!!」


 絶叫していた男が急に静かになった。彼女の女房の一人がいざり寄って扇でつついた。


「気絶しています」

「手の者を呼べ。それと回収しやすいように白砂の上へ蹴り落とせ」


 有能な女房たちがたちまち動いた。女御さまは視線を巡らせてこちらを見た。自然と私の口もとはほころんだ。


「……感謝の申しようもありませんわ」

「あなたのためなんかではないのです」


 つん、と横を向く。


「帝の妃を愚弄する態度も許せなかったし、それに、あなたがこの殿舎を出られるのは困ります」


 なぜかしらと不思議そうに見ると、少し赤くなった。


「他の方がここに入ったら二度と円座を投げることができません」


 彼女は横を向いたままだ。


「だから、このようなことがあったらどうどうと助けを求めてください。私のために」


 なんだか私まで赤くなってしまった。だけど彼女の元でこちらの女童が不安そうにしているのに気づいてできるだけ穏やかに微笑んだ。


「…………戻ります」


 弘徽殿方の女房はみな立ち上がった。女御さまはしずしずと進みかけ、何か思い出したようにふいに振り返った。


「もし私がすぐに駆けつけられない場合は」

「はい」

「とりあえず相手にあなたの楽をご披露なさい。私はあなたの音の根底がわかりますが、そうでない並みの者にはいい防御となるでしょう」

「ああ、それはいいですね。いっそリサイタルなどいかがでしょう。最後にうちの女御さまが登場してとどめに和歌を詠む、という形も入れて」


 女御さまの横にいた女房が小さな声で明るく進言してにらまれるのが見えた。



 やがて夜の闇が訪れる。秋の終わりのこの季節、灯火がいかに華やかでも少しもの寂しい気配に満ちる。帝もいらっしゃらない。それでも今夜だけはちっとも寒くない。


「格子を下ろしましょうか」

「もう少しそのままにしておいて」


 女房が尋ねたけれど私は首を横に振った。

 御簾越しに遠く弘徽殿の吊り灯篭(とうろう)が揺れるのが見える。

 それはとても温かい色だった。私は長い間その光を眺め続けた。





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