取次ぎ
源氏十一歳
藤壷視点
王命婦がこちらに出てこなくなって、若女房たちは憤っている。
「あれだけミエミエに手伝われて勝てないわけがないでしょう」
「金の力で夫君を取り戻したのですわ」
聞くところによると、牛車好きのその人をあちらの女房のもとに返すために弘徽殿の女御さまはとても高価な車を賜ったとか。にわかには信じられないほどの厚遇だ。
「そんなのフェアじゃありませんわ」
「でも……彼女も少しやりすぎたかもしれませんね」
中務がちょっと困ったように裏の方角を眺めながら言う。そこには壁があるだけだけど、それを透して王命婦の局を見ているような顔をする。
「妻として共存する道もあったはずなのに、それを厭って一歩でもあちらに足を向けたら死ぬと脅したそうですから」
「最初に捨て身の攻撃で落としてから、相手は一度も戻れなかったと聞いています。文さえ渡さず書かさず、子供の顔を見に行くことさえ許さなかったとか」
年長の女房たちは同調する。彼女のことは心配だし、弘徽殿方の打った手にも怒っているけれど、わが身になずらえてみると完全には同情し切れないのかもしれない。
殿方の心は女より軽いそうだから、いつ他のもとへ動くかと不安になるのかしら。自分の相手にあんなやり方をされたら許せないと思ってしまうのかも。
「でも……それだけ相手のことを好きってことでしょう」
「そんなに情熱的にあの子から愛されて、戻りたいなんて思うのは不実ですわ」
夢見がちな目をした若女房はほとんどが命婦の行為を支持する。彼女たちにとって恋が絶対の価値基準で、それ以外は些事なのだろう。
私は年こそはこちらの方に近いけれど、その意見に賛同もできない。そんなことを望めない立場のせいかもしれないけど。
帝は足繁くこちらにいらっしゃる。兄以外にさしたる後見もない私が内裏で不自由な思いをしないように気を配ってくださる。
それでも他の方への訪れをやめたわけではないし、やめられても困る。女たちの恨みを一身に背負うことはできない。ただ一人の女だけを愛することができるのは、物語の中の男か身分の低い者だけだと思う。帝だって、私に似ていたという桐壷の方を守りぬくことは出来なかったし。
「……命婦は里に戻っているの?」
「いいえ。局にいます」
沈んだ顔で告げる女房を見てなんとなく悟った。相手の思い出が色濃く残る場所には帰りたくないのだろう。
「気晴らしにここまで来るように誘ってみて」
朋輩を呼びにやったが断りの言葉と共に戻ってきた。気分が優れないのでお許しくださいと拒まれた。
勝気な彼女がこんな風になるなんてよほど傷ついているのだろう。
「今からでも、妻の一人でいいからとすがればいいのに」
「できないと思うわ。それに、そうしてまでほしい相手なのかしら」
「どんなに好きでも、自分の誇りと引き換えにするほどは迷っていなかったのでしょうね」
女房たちは冷静に恋の程度を測る。中の一人が事情をこっそり打ち明ける。
「自分の身をもって思い通りにした相手が『あなたが死んだとしても帰ります』と宣言してその通りにしたらしいですよ。ここまで言われてすがることはできないでしょう」
「わたしなら手のひら返すわ。ナンバー2でいいから傍に置いてって」
「あの子には無理でしょうね」
皇の血を継ぎ他者よりも美しい彼女はひどく誇り高い。朝臣程度にそんなことを言われて許すわけがない。それに男の方もその矜持に賭けていると思う。彼女は私の女房だから敵にまわすと困る相手だけど、そのプライドがみじめな嫌がらせなどをさせないと。たぶんその読みは正しいと思う。
「それに彼女がその人に攻撃を仕掛けたら、十中八九右大臣側に駆け込みますね」
式部と言う年長で頭の切れる女房が先読みをする。女房の恋バナさえ権力の分布図を変える可能性があることを理解しているみたい。兄がまるで頼りにならないから、そんなことまで考えてくれる女房がいることはありがたい。でも大半はただ物語みたいに考えている。
その気持ちもわかる。私だって彼女の恋が気になって仕方がなかったもの。
「とても落ち込んでいるでしょうから、みんなも気を配ってあげてね」
全員が了承したけれど、王命婦はなかなか姿を現さなかった。
静かに雨が降っていて、湿り気のせいか髪が重い。くゆらせた香の煙さえ低く漂っている。
御簾越しの空は陰鬱な色で心を濡らす。帝がいらしてもなんだか気が晴れず、早めにお帰ししてしまった。
いつもならこんな時、王命婦が強い視線や言葉でうっとおしい気配を払っていると思う。彼女がいないせいかこの部屋は雨に閉ざされてしまったみたい。
白砂を打つ雨の音に耳を傾けていると、軽い足音が聞こえてきた。御簾の向こうに人影が浮かぶ。
「ご機嫌伺いに参りました」
愛らしい声に部屋は活気づく。端近にいた女房が御簾を掲げて少年を中に入れた。
停滞など無縁の勢いで彼はにじり寄り、言葉などよりも熱気をもたらす。くるくる変わる表情が、よどんだ空気を一瞬にして払う。
「今日はいつもより静かな感じですね。人が少ないのですか」
平絹の几帳の前にいったんは座ったけれど、すぐにそこを乗り越えて身内のように傍に来た。私は未だにこのことに慣れなくて少し赤くなる。
「一人いないだけでそれほど変わりはないのですが」
女房の言葉を聞いて源氏の君は視線をめぐらせる。彼女たちを一人ずつ確認するとにっこりと笑った。
「王命婦がいませんね」
それなりに数の多い私の女房の名前まで覚えてていることに感心する。横にいた弁も黙ったままうなずいている。
「ええ。よくおわかりですね」
おっとりと肯定する中務の言葉を聞いているとき、ふと思いついた。もう三日も里にも帰らずこちらに現れることもできない私の女房を動かす手段を。
「源氏の君、お願いしたいことがあるのですけれど」
彼は嬉しそうに私を見て微笑んだ。
「何なりとお申し付けください。お役に立つことができたら幸いです」
厚い雲が少し動いて、わずかな裂け目から光が漏れる。その光のように彼は冴え冴えしい。自慢の弟を見つめる姉のように彼を眺め言葉を続けた。
「ええ。王命婦のもとへ行っていただけませんか」
「はい。でもなぜでしょう」
「少し落ち込むことがあって局に引きこもってしまっているのです。こちらに誘い出してくださると嬉しいのですけれど」
彼は少し考えて、それから大人びた顔で私を見た。
「…………恋を失ったのですね」
帝に似ず勘がいい。うなずくと瞳に年よりも深い色を宿して裏の方へ目を向けた。
「すぐに行きます。あの人がこもるなんて相当めいってますね、気の毒に」
身を起こすしぐさは俊敏で若さが匂い立つけれど、ほんのちょっと憂いを含めた同情の顔はいつもより男を感じさせる。少しどぎまぎしてしまう。
軽い足音が教えた局の方へと消えていった。
その時彼女の隣の局の者もそこに下がっていたけれど、意外な場所で聞く少年の声に耳をそばだてていたから、内容もだいたいわかる。彼は驚く王命婦を優しく言葉でくるみこんだ。
「私はまだ恋を知らないけれど、それはとっても甘美くて凄く辛いものだと聞いている。命婦は勇敢にもその恋に飛び込んで戦ったのでしょう。凄いことだと思うよ」
「…………誰だってすることです」
「ううん。命婦のような恋は誰でもはできないよ。みんな臆病だし傷つきたくないもの。あなたはとても強い。今は傷ついて休んでいるけれど、またしっかりと立ち上がることができると信じてるよ」
「無理だと思いますわ」
「いいや」
光君は声を強めたそうだ。
「私の知る王命婦はいつも強くてきれいだ。今、藤壷は火が消えたみたいだよ。あなたがいないから」
彼女は黙って躊躇していたらしい。源氏の君はそれを強く押した。
「ねえ、私のために出てきてよ。沈んだ藤壷なんていやだよ。ここはいつも明るく華やかな場所であってほしい。そのためにあなたが必要だ」
「でも…………」
「相手の人はどんな人? 私よりずっと魅力のある人?」
「いいえ、とんでもない」
「じゃあ、いいでしょ。そんなやつのことより私の事を考えてよ。私があなたが出てくることを望んでいる。それで充分じゃないか」
かたん、と音がして掛金が外れ、やがて戸が開かれた。
「ああ、やっと会えた」
「……光君…………」
「少し痩せてしまったね、かわいそうに」
涙の気配がしばらくあり、源氏の君はそれを優しく慰めていたそうだ。
「さあ、いっしょに行こう。宮さまもお待ちかねだ」
「…………でも」
「手を引いてあげる。逃げちゃダメだよ。一人寂しく戻るのはイヤだから」
やわらかな衣擦れの音が響く。二人はゆっくりと身舎に向かった。
その後のことは実際に見ている。うつむく若女房の手を引く嬉しそうな少年。とても微笑ましい図だった。
「王命婦」
声をかけると彼女の肩がびくりと震えた。
「あなたがいなくて寂しかったわ」
おずおずと目を向ける彼女を微笑んで迎える。
「もうこもったりしないでね。いつも傍にいてちょうだい」
「…………ご迷惑でなかったら」
「そんなはずあるわけないわ。可能な限りずっとここにいてね」
彼女の目が少し潤んだ。それを見てから視線を動かすと、得意気な少年がほめ言葉を待ちかねてうずうずしている。
「ありがとう、源氏の君」
「どういたしまして。いつでも頼りにしてください。宮さまにご奉仕するのは私の喜びです」
落ち着いた言葉と裏腹に、瞳が弾んで踊りだしそう。もし彼に尻尾があったらちぎれるぐらいに振っているのかもしれない。
女房たちも頼りになる方だと誉めそやす。さすがにちょっと照れてはにかんだような顔を見せた。
気を取り直した後の彼女は本当に強かった。仕事で例の朝臣と顔を合わせなければならない時もあったけれど、過剰に反応することもなく冷静に対応していた。
「大人ねえ」
若女房が感心する。
「わたしだったらとてもあんな風にできないわ。にらんじゃう、きっと」
「以前だったらわたしもそうよ」
命婦がわずかに片頬を歪める。苦い表情が前よりも似合って見える。
「だけど、源氏の君と比べたら大したことのない相手じゃない」
「あら、彼まだ子供でしょ。しかも元服前の」
「ええ。でも並みの男よりずっと素敵よ」
「…………ショタに走るのはどうかと思うわ」
「そんなことじゃないわよ! 先が楽しみな方だと言いたいの」
抗議している彼女が面白くてみんなからかったけれど、でも言わんとすることはよくわかっていた。源氏の君はこの件で株を上げ、みんなはなおいっそう彼にかまいたがったけれど、彼の取次ぎの役は自然と王命婦に決まった。
「いらっしゃいましたよ」
中務の声を聞いてふり向くと、命婦が御簾を掲げて源氏の君を通している。
「ありがとう命婦。今日もきれいだね」
ごく自然な彼の声に、彼女の頬が赤くなるのが見えた。
女の視線に磨かれて少年は成長する。私はまた姉の顔で、それを楽しく見守った。