末摘花
源氏十八~四十歳
約一万字ほどあります。
源氏の君にはいつの頃からか、時おり見る夢がある。
覚えのない寂しい場所に一人佇んでいる夢だ。
そこには何もない。音もない。光もない。自分以外に誰もいない。
孤独に耐えかねて涙しても慰める者さえいない。
ある頃からそこに、影がよぎるようになった。
それは美しい女人の影の時もあれば、見るからに不吉な得体の知れぬ何かの時もある。
源氏の君は女の影は口をあけて眺め、不吉な影からはなるべく身を隠そうとした。
最初のうち影はまったく君に興味を示さなかった。だがある夜、ふと女の影に触れてみようとしたところ事態は一変した。
女は源氏をふり向き、薄く笑った。いや、影なので顔はわからないのだが笑ったような気がした。彼は慌てて笑い返した。
その時別の影が現れた。例の不吉な影だ。それはおぼろな輪郭を更に滲ませて、ふいに女に重なった。
とたんに女の影は何か恐ろしげなものに変わった。
全てがあやふやな、影としか言いようのない姿なのに口もとだけが鮮明に浮かんでいる。
薄く形のいい女の唇だ。しかしそれがにぃーっと開かれると、そこに鋭い牙がのぞいた。
脅えた源氏は逃げようと思った。思ったのだが腰が抜けた。そのままその場に座り込んで動けない。
影はゆっくりと近づいてくる。言葉は聞こえないのだが、何か恨みごとを囁いているようでもある。
彼は叫ぼうとした。しかし声は出ない。
女はゆるゆると腕を伸ばしてくる。それはすでに影ではなく白くたおやかな美しい腕だ。なのにたとえようもないほど恐ろしい。
――――――――お恨み申上げます
くぐもった、誰の声ともわからぬ声が響き、恐ろしい手が自分をつかもうとぐい、と目の前に突き出された。
とたんに何かが現れ、その腕に飛びついた。
女の影は怒り狂い、それを投げ飛ばした。
あっけなく地に落ちたそれは、一瞬のうちに体を反転させ再び女に飛びついた。
どうやら獣らしかった。
しかも醜い獣だ。
醜い獣は牙を持たない。爪さえ持たない。
女の影はそのどちらも持っている。しかも美しい。恐ろしいが凄艶な美貌であることがなんとなくわかる。
女はいくども源氏に向かって腕を伸ばす。だがそのたびに獣がそれを阻む。全身でぶつかっていき、何度も何度も床に打ち付けられている。
獣は、毛皮だけはつやつやと黒く美しかった。
しかし打ち付けられたせいでその下が裂け、きれいな毛並みは血にまみれている。
それでも獣は飛びつくことをやめない。
骨の砕ける音がした。
獣は足を引きずっている。
けれど女が襲いかかるたびに立ち向かう。
「もう、やめろよ!」
たまらずに源氏は獣に叫んだ。
「ズタボロじゃないか! 死んじゃうよ!」
なのに獣は立ち上がる。源氏はほとんど怒って叫んだ。
「すぐに逃げろよ! 見捨てていいから!」
獣が驚いたように首を曲げて自分を見た。実に醜い。醜いが毛並みに埋もれた瞳だけは何か懐かしいようなやさしい光を宿している。
女が牙もあらわに自分を目指して飛びかかってくる。
獣はまた飛んだ。ためらいもせずに。
「…………って夢なのだけどね」
私邸である二条院の東の対の簀子で、ゆるやかに流れる遣り水を眺めながら語る相手は乳母子の惟光である。気やすい上になかなか血の巡りのいい男なので気晴らしにはちょうどいい。
彼も幼い頃より仕える相手であるから、世に評判の光源氏に物怖じすることなく気軽に応える。
「美女に襲われるとはうらやましい限りですね」
「なにが。怖いだけだよ。リアルでも一度似たようなのを見かけたけれど、おかげで大事な人を失ったし」
彼のトラウマになっている事柄が出てきたので、惟光は慌てて方向を変える。
「でも普通は逆ですよね。襲ってくるのは獣でしょう」
「夢だからね。何でもありさ」
肩をすくめる源氏の君は男から見ても納得の美しさで、そりゃ女難の相も出ようってもんさと内心惟光はうなずいている。
「しかし醜いってのはなんだろうね…………おや、牛車の音がする」
耳のいい源氏が気づいて間もなく、慣れた軽い足取りが案内も請わずに渡殿を渡ってくる。簀子の人影に気づいて少し速度が上がった。
「よお惟光、おまえも来てたのか」
なかなか魅力的な若女房がはすっぱな口調で声をかけた。彼は顔をしかめてその女を叱った。
「殿の前でしょ。言葉を慎めよ」
「かまわないよ。おまえたち二人は兄弟みたいなものだから」
女は源氏の君の別の乳母の娘で、大輔の命婦と呼ばれている。
「よっしゃあ、じゃ通常のしゃべりでいかしてもらうっス」
「私の前ではいいけれど、内裏でその口調ではないよね」
「あら、まさか。そんなことあるわけがありませんわ」
命婦はしとやかに使い分けると、すぐにもとの口調に戻った。
「ねえっスよ。あんな気ィ張るところで無理っスわ。里でさえ気ィつかってるぐらいなのに」
「うちの女房の前でそんな口きいたら凄く叱られるよ。言葉づかいには特に厳しいから」
用心しつつ源氏は辺りに視線を向けるが、乳母子だけの気楽な様子に配慮したのか他に人はいない。
「はあ、そうですか」
「もう何かといえば『そんなことでは亡くなられた更衣さまに顔向けできません』だからね。肩こるよ」
「殿が心配かけるのがいかんのでしょ。いいんスか? 左大臣邸に行かなくて」
源氏は大きくため息をついた。
「めんどい」
「またまたあ。奥様大変な美女で才女って聞いてますけど」
「間違いじゃない。だけどめんどい」
憂うつそうな源氏を挟んで二人の乳母子は苦笑をかわす。それがいかに贅沢な悩みか知らない貴公子に、世知長けた大人のわけしり顔な目を向ける。そのことに気づいた源氏が反撃に出た。
「どうして里でまで気を使うんだい? 一番気楽な場所だろ」
「里っつーてもうちのママンは再婚して筑前行ってるっすわ。ご存知っしょ。だからダディの里なんスけど、彼は女作ってめったに戻らない。ま、あっしがいても気にもしないとこだから気楽じゃあるんだけど、さすがに姫君の前でこの口調はちょっとマズいし」
「なに! 姫君!」
急に源氏が勢いづいた。
「素性は? 美人か?」
やれやれと命婦は口をつぐんだが、せかされてしぶしぶと開いた。
「亡き常陸の宮が晩年にもうけられた姫さまです。顔とかキャラは知りません。あまり人づき合いもせずに琴だけを友にひっそりと暮らしてますよ」
「白居易は詩と琴と酒を三友としたけど、酒を友にするレディーはごめんだが琴はいいねえ。ぜひお近づきになりたい。彼女の琴聞かせてよ。確か亡き常陸の宮は楽のたしなみはかなりあったし」
「それほどのお手並みじゃないと思うっスけど」
「いや、聞きたい。月夜がいいな。おまえもいっしょに来てよ」
目をきらきら輝かせながら話を進める源氏に、二人の乳母子は心底げんなりとした顔で再び視線を交し合った。
月は十六夜、頃は春。白梅の香がひときわ悩ましい夜に、やつした狩衣姿の源氏の君は命婦の里の対の屋にある彼女の部屋に腰を落ち着けた。
若公達のわがままにあきれながらも拒むことのできない彼女は、しぶしぶと寝殿に出向いて琴を勧める。格子も下ろさぬまま梅の香を楽しんでいた姫君は素直に言葉に従った。
実はあまり上手くない。しかし琴の琴は格のある特別の楽器なので音自体が趣を持っている。その上命婦はバカじゃない。ほんの少し聞かせるとすぐにやめさせ、後を引く感じに演出した。
荒れ果てた由緒ある邸に心細く住むむ姫君。いまや弾く人も少ない古風な楽の音。曇りがちな春の月。源氏の気分はひどく高まっていく。命婦に恨み言を言いつつ次の女の約束のために立ち上がった彼は、更に心を煽られることとなる。
見るも無残な透垣だがほんのわずかに折れ残った箇所に佇む男がいる。「うわ、他にもいる」とびびりながらこっそり立ち去ろうとすると、その男がふいに近づいてくる。
「いっしょに内裏を出たのに行方知らずになるなんてね。薄情だよ君は」
文句をつけるその男は頭の中将。よきライバルとして競いあう仲で、源氏の正妻の兄でもある。
ぷっ、と噴き出し「ストーカーか」と突っ込むと、中将の方も笑いながら「忍び歩きには私のようにできのいい従者を連れて行くべきだよ」と言い返すのだった。
恋敵の存在に刺激され、二人はせっせと姫君に文を書くが結果ははかばかしくない。社交辞令の一つさえ返ってこない。
一人なら脈がないとさっさとあきらめただろうに、互いに勝ちを譲りたくないとムキになっている。
そのうち春がすぎ夏も終わる。その間わらわ病みをわずらって祈祷に行ったり、人に知られたくない深い恋に乱れたりと色々あったが、それでも時は過ぎていく。
ついに秋になった。なびかぬ姫に苛立った源氏は、命婦を呼び出して責め立てた。
「いくらなんでもあんまりだろ。こんな扱い受けたことがないよ」
そりゃまあ、あなたが坊やだからさ、と内心含むことがないわけでもない彼女も、表面は取り繕って「姫さまはひどくシャイなので」とどうにかなだめる。源氏はひたすら言い募る。
「絶対むちゃしない。色恋関係なくお話したいだけだよ」
いや、あなたそういう人じゃねーし。必ずやばいことになると命婦もわかっている。わかっているがその姫君に親はいないし凄まじく貧乏。イチかバチかに賭けてみたって悪くないんじゃないの、と彼女は考える。
かくして手はずは整えられた。
八月二十日過ぎ、月は遅いが星はきらめき、松の梢を吹く風は心細くなるような音を立てる。風情はOK,時やよし。命婦は源氏を寝殿に案内した。自分は直に姫君に近づいて源氏の君の訪問を告げる。
世慣れぬ姫は驚いて「お話なんかできないわ」と奥の部屋に入ってしまわれたが、なんとかかんとか言いくるめてどうにか向かいの部屋に源氏を入れた。
もちろんコトはおこった。おこらないわけがない。しかし源氏も困っている。
――――――――いくら深窓の姫君だからってひどすぎる。
彼は女の扱いに長けている。初めての経験に泣き崩れる姫君などむしろ好物だ。だがこの姫君にそんなありきたりの反応はなかった。
茫然自失の様子ではあった。そこがいい、と何とか思い込もうとしたのだが自分の心はごまかしきれない。味気なさと色気のなさにため息が出る。
失望のあまりできるだけ早く届けなきゃいけない後朝の文さえ夕方にしぶしぶ書いたほどである。
返事も凄まじかった。古びた紙に古びた書き方。気分は萎えるなんてもんじゃない、ドン引きである。
それでも、相手の身分だけは充分に高い。ヤリ捨てしにくい立場である。しゃあない、責任とって世話することにしようと、源氏の君は悲愴な決意を固めた。
――――――――また、あの夢だ
音も光もないその場所に、今日は影さえよぎらない。
寂しくなってあたりを見回すと、いつぞやの獣が離れた所に控えている。
――――――――本当に醜いな
そう考えると、獣は彼の内面の声が聞こえたかのようにしょんぼりとうつむく。
源氏は黙ってその様を見ている。
獣は、下を見たまま顔を上げない。
「とにかく最悪。そうじゃなくても特に忙しい時期だったのに」
「はあ、頭の中将と舞われた青海波がえもいわれぬお美しさと評判でしたが」
「そっちはいいんだよ。この私がはずすわけがないだろう。成功して当然なんだ。じゃなくてあの姫君のことだよ」
「あの姫君とおっしゃられてもたくさんいますな。どの方のことでしょう」
「亡き常陸宮の姫君だよ。命婦も恨むから行幸が終わった後には多少通った。そして大変な目にあってしまった」
「はて、どのような目に」
やはり二条院だが、さすがに雪降るこの季節、東の対の廂の間で象嵌の火桶を近づけて、源氏は惟光と語り合っている。
西の対では子供たちの楽しげな笑い声が響いている。最近引き取られた幼い姫君のために集められた女童たちだ。けれどここまでは届かない。
「まず、どんなことがあっても他言しないと誓え」
「そんな大げさな。だいたいわたしは口は固いほうです」
「いいから誓え。相手の名誉にも関わるし、人に知れたら私も恥をかく」
「わかりました。誓いますよ。で、なんなのです?」
源氏の君は身を乗り出さんばかりにして、それでも小声で呟いた。
「例の姫君は…………絶世のブサイクだ」
惟光は仰天してわが主を見つめる。
「絶世の?」
「うっかり見てしまったのだ。実にひどい。座高が高く胴長で、色は白いがなんか青みがかかったような妙な白さで、気味悪いぐらいに長い顔。体もガリガリで肩なんか衣の上から見てもわかるほどとんがっている。何よりひどいのはその鼻だ。あれは普賢菩薩の乗り物だよ」
「と、言いますとパオーンですか?」
「そのパオーンだ。しかも先っぽが赤いんだ!」
激昂する源氏を見て惟光は、憤慨する割にはよく眺めていると感心する。自分ならさっさと目を反らすだろう。
「おまけに服装もひどい。細かくは言わないが黒てんの皮衣を表着に着ているのだよ。いったいどういう趣味だろう」
黒てんの皮衣はもともとは貴人しか手に入れることのできない貴重な品であったが、渤海との交易が絶たれて長い今、時代遅れとしか言いようのない物である。
惟光は脳内にブサイクなマタギを思い描いて大いに同情した。
「しかも頭も残念で、態度は田舎くさくも年寄りくさくもあって、ロクな長所がないんだよっ」
「そりゃあひどいですな。もちろん通いはおやめになりますね」
そう尋ねると源氏は更に苦い顔をした。口を閉じ眉をしかめて不愉快そうに何か考えている。
やがて美しい顔を歪めたまま吐き捨てるように言った。
「あそこまでひどいとそうもいかない。イヤだけど」
「しかしそんないいとこ一つない女人のもとへ通えますかね」
「ああ、一つはあった。髪だけは誰にも負けないほど美しいんだ」
だからって何も行くことはあるまい。時おり下人に暮らしの品だけ渡してやればいい。惟光はそう思うが、主人の決意にけちをつけることはしなかった。
絶世の姫君は非常識でもあった。年の暮れに源氏が宮中の宿直所にいると、半笑いの大輔の命婦が世にも迷惑なプレゼントを携えてきた。
「いや、さすがのあっしも超恥ずいんですがね、返すわけにもいかず、処分するわけにもいかず。しかも正月用らしいっスよ、これ」
この時代、男の衣装を調えるのは正妻の役割だ。ましてやそれが正月用のものなら尚更である。もちろん源氏は左大臣の娘が押しも押されもせぬ正妻である。
頭痛がしてきたが何とか対応し、返礼の品としてかえって立派な衣装と共にもらった超悪趣味な品はちゃっかり返品したのだった。
黒い獣はうつむいたままだ。
「おい」
源氏は常になく荒っぽい口調で声をかける。
「話せないのか?」
獣はびくっと震え、ふるふると首を横に振った。
「ふん」
つまらなさそうに横を向く彼を、獣は横目でちらりと眺めた。
その卑屈な態度に腹が立って、源氏は立ち上がり、もっと離れた場所にその身を移した。
人生色々ある。源氏はその中でも一番の底辺期を過ごした。
時代は移り変わり兄の世となった。帝たる兄は優しかったが周りは厳しかった。息子が生まれたが正妻が死んだ。父である院も亡くなった。兄の寵姫に手を出したことがバレ、なにかとヤバかったので自主規制して須磨に隠棲した。そこから更に明石に移った。そこで時を過ごすうちに、ようやっと風が自分に吹いてきた。
都に戻っても何かと忙しかった。兄たる帝は退位するし、次の帝の後見だし、政敵に睨みをきかせたり身近な相手に恩恵を与えたりと動き回り、同時に親しい女性にも目を配る。明石の方では女の子が生まれたので祝いだ乳母だと手を尽くし、深すぎる縁の六条御息所の見舞いにも駆けつける。忙しいが張りのある時期を過ごしていた。
二十八歳で京に戻り、年があけて二十九、その年の四月ごろ、花散里のもとへ出向いた折に森のようなところへ差し掛かった。
―――――見覚えのある木立だな
しばし考え、ぽんと手を打つ。
―――――あの姫君の邸だ
今の今まできれいさっぱり忘れていた。
車を止めさせ惟光をやると、心細い暮らしながらどうにか生きてはいるらしい。
「まさかいらっしゃるのですか? よもぎの露でびっしょりですよ」
「ほってもおけないだろう」
行く春を惜しむ名残りの雨が降り注ぐ。そこは都の中では他に見かけぬほどの荒れようで、恋の道行きというよりサバゲーに参加するような面持ちで源氏は姫君のもとへと急ぐ。
―――――いるし
荒廃しきった寝殿に、今も変わらぬ不器量な姫がいる。
信じられない、人の住む場所じゃないぞと思いつつ、どうにか上手く取り繕って、見捨てるつもりはないと彼女に告げた。
離れた源氏に気づいた獣は悲しそうな顔で立ち上がり、のろのろと四つ足でどこかへ去ろうとした。
驚いたのは源氏である。確かに獣は正視できないほど醜い。だからといってこの獣が消えると自分はここに一人になる。
「おい、待てよ」
慌てて呼び止めると獣は足を止める。源氏は腹を立てて乱暴に言った。自分が先に離れたことはもちろん棚にあげた。
「また襲われたらどうするつもりだ」
大そう厚かましいセリフである。けれど獣は怒るどころかほんの少し嬉しそうに見えた。源氏は冷たい声で獣に告げた。
「こっちに来い…………私を置いて行くな」
言った後で顔をしかめ、ふんと横を向いた。
獣はおずおずと近づき、少し離れた位置で足を止めた。
源氏はいかにもイヤそうな顔で、きれいな指先だけをわずかに動かして獣を招いた。
近寄った獣は意外なことに香りだけはよかった。それでも申し訳なさそうに立ちすくんでいる。その背に強引に手をかけて座らせた。
そのままぐい、と抱きよせる。
獣は驚いて硬直している。
「おまえが好きだからじゃない。寂しいからだ」
勝手な言葉をつぶやいて、やわらかな毛並みを撫でている。
腕の中はほんのりと温かい。獣は少し目を細めた。
「二条の東院に移した。あんなあばら家、修理したけど人の住むとこじゃないよ」
「そりゃあご親切に。あっしも少し安心できるってもんでさあ」
「見たくもないけど離れすぎていると心配だ。おまえもほんと、やっかいな者を押しつけてくれたよ」
大輔の命婦はにやりと笑った。
「あっしは姫さまと付き合ってほしいと頼んだことはありやせんぜ」
源氏はそれに答えず、憂うつそうに外を眺めた。
彼の人生は安定期に入った。四町にも及ぶ壮麗な六条院は完成し、おもだった女君と秋好む中宮はそちらに住むことになった。しかし常陸宮の姫君は二条院の東に据え置かれた。
それでも人目につく限りは丁寧に扱っている。大切な女たちに配る春の衣装さえ、ことさら優美な品を与えられた。
ただしプライベートな場では侮蔑の対象である。その垢抜けない対応や容姿はとことん揶揄される。
それでも、まれに訪れた時に寒々しい様子であれば、皮肉を言いながらもかまわないではいられない。ほとんど腐れ縁のような間柄である。
「まったく、昔は髪だけはきれいだったのに」
戻ってから更に衰えた容姿をくさすと、手近な女房たちがくすくすと笑う。源氏は下の身分の女たちが馬鹿にすることさえ止めようとはしなかった。
女の攻撃は年々激しく巧妙になった。
相変わらず源氏はなすすべもない。
女の影がいくつかに分かれ、口々に呪いの言葉をつむぎ始めてもただ耳をふさぎ目を閉じて、ひたすら存在を否定しようとするだけだ。
源氏は確信していた。いつものように獣が現れ自分を守ってくれることを。
期待を裏切らず獣が駆け寄り彼の前に立ちはだかった。
しかし影の数は多い。一つの影が彼の腕をふいにつかんだ。
「ひっ」
思わず目を開け影を見ると、薄く微笑んだその姿がなぜか慣れ親しんだ女に見えた。
はっと息を呑み見回すと、どの影もみな知っているような気がしてくる。
再び目を閉じ悲鳴をあげると、獣が飛びついて払ってくれる。何度も何度も立ち上がり、執拗な影よりも根気よくぶつかる。
獣はいつもより弱って見える。そして血まみれだ。美しい毛皮もいつの間にかすすけたような白髪に変わり果てている。
痛ましすぎて、そして見苦しすぎて源氏はその目を獣から反らした。
「起きろ、バカ者」
女の声が耳元で叫ぶ。すわ攻撃かと飛び起きると、確かに影が目の前にいる。いまだ夢を見ているらしい。
後ずさって逃げようとすると影が肩を掴んだ。
「逃げるな。話を聞け」
ずいぶんと乱暴な口調だが、いつもの影の様子とは違う。おまけにその手は温かかった。
「どうせ目が覚めると忘れているんだろうけど、それでも聞け。あの人の扱いが悪すぎる」
「あの人って誰です?」
「おまえを守ってくれている人だ」
「誰のことですか」
「そんなこともわからんのか」
影は機嫌を損ねたようだ。たおやかな姿で自分の愛する人に似て見えるほどだが、やたらに口が悪い。もしかするとこちらの身分を知らないのかもしれない。
「あなたはご存じないかもしれませんが、こう見えても私は皇子なのですよ」
「おまえより知ってるわ、バカ。私はすげー忙しいんだぞ。こんな暇ないんだ。だがおまえがいくらなんでもあんまりだから、無理を重ねて顔出したんだ」
「顔出てませんよ」
「やかましい。これが限界なんだ」
相手はひどく怒っている。だけどなぜだか怖くない。むしろ慕わしいような気分さえする。
「一人で払える業じゃないんだぞ! なのにあの人は全てを捨ててたった一人で守ろうとしている。何の見返りもないのに」
「いったいなんのことですか」
「うるせえ。なぜ彼女が何一つ持たないのか。見せてやるから覚悟しろ」
そういうと影は両手を空にかざした。
優しい光が辺りに満ちる。
光の真ん中に美しい姫が一人いる。長い黒髪の、見覚えのない美姫だ。
「代わりに何をよこす」
感情を一切含まない何者かの声が尋ねた。姫は答える。
「あなたが望むものを全て」
「…………よかろう」
謎の声は承諾した。そして姫の全てが引き剥がされていく。
その美しさが奪われた。姿も奇妙に歪められ、座高が異常に高くなる。顔も伸び、桜色の膚も奪われる。程よい肉づきもガリガリに変えられ、優しく美しい微笑みも消えていく。
「まだだ。足りない」
洗練された身のこなしも失われ、溢れるばかりの知性も、穏当な態度も常識も魅力的な手蹟も服の趣味さえ盗まれる。
醜くなった姫は涙ぐんではいるが、一切それに逆らおうとはしない。
「取りすぎたな。面白いものをつけてやろう」
先の赤い長い鼻がつけられたとき、彼女はさすがに涙をこぼした。それでも苦情は言わなかった。
だがつややかな髪が揺れ始めた時小さな叫びをあげ、慌てて自分の口をふさいだ。
「ほう。それが最大の未練か。よかろう。しばし残してやろう」
元の姿によく似合った美しい髪だけが残された。
姫は醜い自分の姿を両腕でかき抱いて震えている。身の丈に余る黒髪もそれにあわせて揺れている。
――――あの髪は
失われた何かが揺らぐ。今ではない遠い時代に、自分が指で梳き、体に巻きつけた誰かの髪。思い出せない前世の記憶。
「あの人が払っても払っても業ばかりためやがって。見ろ、あの人はそれさえも捨てる。どうせ長くはもたないのに」
限界までその身を挺した姫は、限界を越えた時その髪を捧げた。
「やめろ! やめてくれ!」
源氏の叫びは届かない。姫君は、唯一のこった美しいものを失った。そしてやさしく源氏の方を見て、むむ、と強張った笑いを見せた。
泣き濡れる源氏に、しばらく厳しい目を向けていた影はふいにそれをやめ、ほんの少し微笑んだ。
「おまえには腹が立つ。だけどあの人の暮らしの面倒を見たことだけは評価できる」
「…………怖い人に叱られますから」
影はちょっと首をかしげ、それから楽しそうな声を出した。
「もしかしてあいつか」
「誰のことを言ってるのかわかりませんが、たぶんそうです」
くっくっくっと影は笑い、そのまま急に消えた。
光も音もない場所に傷だらけの獣と彼だけが残った。
源氏は獣に近寄り手を伸ばした。獣は慌てて逃げようとした。汚れる、とでも言いたげな目をしている。
彼はかまわず抱きしめている。
「ごめん」
獣はふるふると首を横に振った。
「目が覚めたらたぶん私は忘れてしまう。本当にごめん」
やさしく懐かしい瞳が自分を見る。
「それと、ありがとう」
まるで照れてしまった美しい姫君のように獣が赤くなるのがわかった。
末摘花の登場は長く、源氏十八歳の頃からおよそ二十二年に及ぶ。最後の登場は若菜の上で、長く病みついていることが言及される。
末摘花の退場した若菜の下から、壮麗な六条院の崩壊は始まる。