内裏戦争
源氏十一歳
弘徽殿視点
あまりに遅い。私は返ってきた文を片手に握り、苛立ってそれを破きそうになっていた。
「もういいっ。別口で進める!」
だとしたらどの姫君を選ぶべきか。
息子である東宮の年は十四で、元服にはけして早過ぎない年だ。いや多少遅いといってもいい。しかし諸般の事情で準備が整っていない。
仮にも将来帝になる者の元服だ。充分に気を配ってやりたい。だからその添臥も最高の女を選んでやりたかった。それで白羽の矢を立てたのは左大臣の正室腹の娘だ。
彼女の母は主上と同腹の姫宮だ。実際に手の者に確かめさせたが、容姿も申し分なく美しいらしい。が、何より気に入ったのはその気性だ。
「この上なく高貴に育てられ、権高にさえ見えるほど曲がったことを厭う性質です。知性もこの上なく高く、楽の技術、手蹟なども人に見劣りすることはありません」
そのまま弱点も正直に伝えられる。
「ただし和歌だけはあまり得意としてはいらっしゃらないようです」
「それは全然かまいませんッ。さして重要な能力ではない!」
「あと、お年は一つ上です」
「むしろ望ましい。帝を支えるにはその方が向いていると言えます」
実感だ。
このようにほぼ理想的な姫なのだが、左大臣はなんのかんのと言い訳をしてきてなかなか承諾しない。一粒種の姫を手放したくないのだろう。
しかしここまで最高級の姫となると、東宮の他にふさわしい相手などいない。もったいぶらずにさっさと承諾すればいいのにあのとろい男は決断できない。時間がかかりすぎる。
「となりますと……ふさわしいほどの高さの者がなかなかおりません」
「女御さまの兄君のご令嬢はいかがでしょう」
一人が進言したが首を横に振った。
「兄はまだ大臣ではない。おまけにその娘はあまり出来がよくない」
身内のよしみでもらってはやるが、添臥として選びたいほどの女ではない。
難航する原因のひとつは大臣の娘の不足にある。それには理由がある。適切な娘のほとんどを、あの方が自分のものとしたからだ。
「それでは皇の血の者はいかがでしょう」
「ああ……って、ここでも奪われているのかっ」
愕然とした。年齢的にもふさわしい唯一の后腹の姫宮は、主上に入内して藤壷の宮と呼ばれている。
「どこまで息子の邪魔をするのだ、主上はっ」
もはや情など求めぬが、それにしてもあんまりだ。ことごとく必要な女を奪っている。もっと下の身分の者さえ評判の高い者は入内させているか女官として召している。
残った唯一の適切な相手である左大臣の姫は承諾を得られない。
結局、さんざん検討して妥協して添臥を決めた。
そうなると心配になることがある。いや口を挟みたくはないが息子に残念な思いはさせたくない。
言いたくなくて逡巡していると、顔色を読んだ女房の一人がそれを察した。
「東宮さまはすでにお付き合いの仕方を学ばれていらっしゃいます」
驚愕した。重要なことなのに把握していなかった。
「殿舎の者です。名は……」
「名は言わなくともよろしい!」
その者の顔が見られなくなるではないか。私はコホンと一つ咳払いをし、気を落ち着けてから聞くべきことを聞いた。
「容姿、年齢、人柄などよく選んでありましたか」
「もちろんです。極めて適切な者がお相手いたしました」
有能な私の女房だ。きっとふさわしい者が選ばれたであろう。私はそのまま流そうとしてふと違和感に気づいた。
たいていはここにいる女がいない。
とたんにぞっとした。まさか。いや、いくらなんでもそんなことが…………
鼓動が高くなった。聞きたくない。聞きたくないがこの疑惑を胸にしまいこんだまま日々を過ごす方がよっぽどイヤだ。
意を決して彼女たちに聞いた。
「それは………………私の乳母子ではないでしょうね」
全員が一瞬かたまり、それから首と手を凄い勢いで横に振った。
「ないない」
「ありえませんよ、いくらなんでも」
「われわれは東宮さまにけして悪意などもっておりません」
ひどい言い様だ。だけどほっとした。
彼女たちはそのまま続けた。
「その後のメンバーにさえ一度も入っておりません」
「確実に丁寧に除外しております。と言うか最初の者以外は梨壷の女房です。報告は受けておりますが」
だいぶ気が楽になった。東宮のその手のことは政だ。把握しておくべきなのだがどうもイヤだ。
「その後のメンバーとは?」
「はい。元服後を見据えますと、このままでは想定外の容貌や人柄の姫君が入内する可能性があります。その際失礼があってはなりませんので、多少トレーニングの意味を含めた女房も入れてあります」
「もちろんストレスが溜まらぬように、特に際立つ者も配置しております」
ほう。なかなか考えてある。
「して、首尾は?」
女房たちは少し表情を緩めた。
「完璧です。ディ・モールトです。どの人とも首尾よくこなされた上、その後の対応も関係のない女房に対してよりもほんのわずかに優しいという理想的な様相を示されています」
「外観の芳しくない女房に対してさえ変わりません」
「好みが特殊というわけではないのですか」
「いえ。むしろ美意識はひどく高い方でいらっしゃいますが、それでも美貌を持たぬ相手にも同じように接していらっしゃいます」
「該当の者は『今まで身分下の臣下にさえ低く思われていたのに、このように遇していただけるとは』と感激し、いっそう忠誠を尽くしております」
私はうなずいた。
「よろしい。それでは後は本人の意志にまかせ、監視もほどほどにしなさい。よほどの事情があるとき以外報告はいりません」
「はい」
どうにかこの件を終えることができていくらか気持ちも安らいだ。だがすぐに、また別のことが気になる。
「ところであやつはどうしたのです」
乳母子は今日は休みの予定ではなかった。彼女が断りもなく姿を表さないことは珍しい。
女房たちの何人かが顔を見合わせて言いよどんでいたが、一人が少し苦いものを含んだ顔つきで答えた。
「私的な理由で休んでおります」
私の目を見て続きを語った。
「…………夫君を略奪されたようです。しかも今最も内裏で人気のある若く美しい女房に」
「それは誰です」
「王命婦と呼ばれる、藤壷の女房です」
どよめきがおこった。普段は乳母子以外は冷静なタイプが多いのだが、今はさすがに興奮を隠せない。
「仕掛けられたのだわ」
「確かに隙がありすぎるけど」
「なんて恐ろしい。この殿舎の唯一のアキレス腱を的確に狙ってくるなんて」
騒然とする部屋の中で私も苦い気分になる。
帝の寵愛を争う後宮にあっても、中でも至高の位置に君臨する弘徽殿に働く女房たちは安易に男どもの玩具となる存在ではない。以前私が多少の不快を示したことがあるので、男女の仲であるからもちろん別れる者もあるが、それなりの礼を見せて離れるようである。
「もう一人の妻とするつもりなのでは」
「だとしても、まったく連絡もなく放って置いているらしいわ」
「こちらから直に夫君に接触しましょうか」
一人が私に伺いをたてた。うなずきかけたとき妻戸が大きく開いた。
「………………その必要はありません」
乳母子が普段と変わりのない姿で現れた。私の茵(平安座布団)の前で深々と頭を下げると「遅れて申し訳ありません」と謝った。
「二度とこのようなことがないように気をつけます」
表情は硬い。そしてよく見ればいつもより化粧は濃い。それでも昔のように部屋の端で泣いていたりはしない。
黙ってうなずいていつもの仕事に戻らせた。
私は事情を聞かないし、彼女は特に語らない。ただ、宿直の予定は全て解いた。
「一切差しさわりはありませんが」
「こちらがある。うっとおしい。決着がつくまで夜は入るな」
「はい」
短く答えて無駄口を叩かない。部屋はいつもより静かで広い。
そのためか彼女が下がった時、弘徽殿を東西に貫く馬道で同輩と語る言葉が切れ切れに聞こえた。
「…………そう。文の返しさえないの」
「それはいくらなんでもあんまりじゃない。うちの人も他に妻はいるけど、遅くとも……ごめん…………」
空さえどんよりと曇りがちの日だった。乳母子は小声で何か答えていたが、やがて強い口調で言い切った。
「完全に負けたら、わたしここに通うこともやめるわ」
同輩も驚いてそれを留める。
「どうしてよ! 関係ないじゃない」
「藤壷の女房に負けてうちの女御さまに恥をかかせるわけにはいかないわ。ううん、他の人はいいのよ。だけどわたしはあの方の乳母子だから」
相手が泣きながらそれを止める。
「あなたなんか勝てるわけないじゃない! 相手はとびっきりの美少女だって聞いたわよ! あなたみたいな若くもない変な女じゃ絶対ムリよ!」
「……そこはもう少しフォローして言ってもらうわけにはいかない?」
「バカ! 負けたっていいじゃない! 仕事してるうちに忘れるわよ! 子供はどうするのよっ」
低く笑う彼女の声が聞こえた。それはすぐに止まった。
「このわたしを誰だと思ってる! 弘徽殿の女御さまの乳母子よ!」
まるではしゃいでいるように宣言すると、そのまま馬道を渡って去っていった。
「実際、王命婦の下に入り浸っているようです」
「どうやら彼女のほうが積極的で手放さないようです」
彼女の夫への接触はやめたが情報は集めさせた。
「あやつ自身の対応は?」
「最初のうちは何度も文を届けたようですが、今は動きません」
「例になく夜が空いていますので、この機会にもっぱら夫君のための染色や縫い物を進めているようです。ただし相手に届けたり知らせたりはしていないようです」
気づいてもらえぬ虚しい奉仕をあやつにまでさせたくはなかったが。
「当の朝臣の動向は?」
「仕事には参ります。ご指示の通りわれわれは、まるで気づかぬように態度を変えてはおりません」
「藤壷側の対応は?」
「表面的には完全に静観しております。ただ、女房同士の接触の際に、こちら側の者を故意に年長者として扱い、必要以上に礼儀正しくふるまってきます」
ふむ。
「他には」
「あちら側の主の格を端々にひけらかしています」
「后腹の内親王であることを最大限に利用しております」
「なるほど、それが王家の闘い方か」
私はくっくっと咽喉を鳴らした。
「よろしい。ならばこちらは藤原氏としての闘いを見せてやろう」
どの殿舎の者よりも鮮やかない装いの女たちを見回した。夏の盛りなのに誰もが氷のように冷静に指示を待っている。
「そのためには荒事が必要だな。やれるか」
「はい」
「他家に忍び入って物を打ち壊すことになるぞ」
「かまいません」
いずれも劣らぬ精鋭たちは、里に戻ればそれぞれが姫さま扱いの育ちのよさだ。だが私がひとこと言えば、明らかな犯罪行為であろうとためらう者はいない。
「よし。ならば命じる」
「はっ」
彼女たちは一言も聞き逃すまいと膝を詰めた。
いくらか髪が乱れたままの乳母子が、興奮しきったまま訴えている。
「まったく、いくら末法の世の中とはいえあんまりですわ! 世にあまねく力を示す弘徽殿の女御さまのお膝元に仕える女房の里に賊が現れるとは!」
「ほう。してどのような害があったか。家財など盗まれたのか」
「いえ、物は奪われておりません」
「なら人か」
「いいえ、人もさらわれたりはしておりません」
私が首をかしげると彼女は憤ったまま早口で告げる。
「車宿り(平安ガレージ)に止めておいた私の牛車が壊されました!」
「牛車が? なぜです」
「わかりません! 父の車はここ数日右大臣さまの御用で宇治の方へ行っているので無事ですが、私の愛車は復元不可能なまでに破壊されてしまったのです!」
怒りのあまり頬を紅潮させ目を光らせる彼女は、いつもより若く見える。
「こんなことがあっていいものでしょうか! ただでさえめいっている時に! 今朝たまたま同輩の者がわが家を訪ねてくれなければ、ここにも遅刻するところでした!」
状況の説明を聞いたあと、怒るこやつをしげしげと眺めた。
「弱り目に祟り目だな。さすがに同情する」
「ありがとうございます。お言葉を聞いただけでだいぶ気持ちが落ち着きます」
「牛車で思い出した。実は、父の部下の一人が少し前に手柄を立てたのだ」
「はい」
「それゆえにほうびにしようと牛車を新しく用意させた」
「まあ」
「ところがそやつ、ほうびをもらう前に派手な失敗をしてしまい、処分をするほどではないのだが大きなほうびをもらうにはふさわしくなくなった」
「そうですか」
「その牛車が余っている。この際、見舞いにおまえにやろう」
え、と彼女は目を丸くした。私は内裏の車宿りに置かれた新しい牛車の位置を知っている女房を呼び出して案内させた。
半時もせぬうちに戻ってきて、やかましく礼と喜びを述べた。
「素晴らしい網代車です! 最高の竹を繊細に削ったもので編んであり、小ぶりながら紋様は鮮やかで、長柄の長さは屋形とのバランスがこれ以上ないほどです。また牛も素晴らしく、ちょうどいい年頃で肉付きもよくどことなく品のある顔の黄牛で……」
「やかましい」
私は言葉を遮った。
「おまえの牛車話は耳にタコです。今日は帰って乗り心地を確かめなさい。こちらは外出の予定はないのでうちの牛飼いを使うがよい」
「ありがとうございます。戻りしだいすぐに返します」
髪の裾がヒラヒラ舞うほどの勢いで部屋を下がっていってしまった。
表情を固くしていた他の女たちの顔が緩んだ。
「…………上手く行くでしょうか」
その女の方には目をやらず、御簾越しの薄曇りの空へ目を向ける。
「こればかりはわからぬな」
「もともと彼女の牛車趣味は夫君から来たものですから、あれだけの車を手に入れたからには知らせたくなると思いますが」
「かもしれぬな」
「その人の牛車マニアっぷりは有名ですから、どうしても見に帰りたくなりますよね」
「問題はその後だ」
私は顔をしかめた。
「あやつは以前浮気した元カレを徹底的に責め抜いてその仲を完璧にぶっ壊した過去がある。夫君に同じ事をせぬとは言い切れぬ」
「あるいは過剰に卑屈になって、いない間にこしらえた縫い物を山ほど押し付けて、辟易させる可能性も……」
一同は暗澹たる面持ちでこの場を去った女のことを思った。他人が手伝えることは少ない。結局は本人同士の問題だ。
「焼け石に水という気もします。敵は驕慢な美少女で、そのわがままっぷりもかわいいと評判ですから」
「らしいな」
だが、まったく勝ち目がないわけでもない。
若く美しく怖いものなど何もない女。そんな女の持つ隙とおごりについて、私はこの世で一番くわしく知っている。
豪華な衣装を身にまとった晴れやかな女の影が行き過ぎる。今ではもう、存在しない女だ。あの明るい笑いと共に、時の狭間に消えた影だ。
「…………やはり直接攻撃するべきではありませんか。わたくしはてっきり藤壷に忍び入るのだと……」
「わたしもその覚悟でいました」
「馬鹿らしい。常識的で理性的なこの私がそんなことを命じるわけがありません」
あきれると彼女たちははにかんだように笑った。
「第一経済戦の方がよっぽど効果的です。王命婦とやらも同じ手を使って相手を呼び寄せることはできるはずだが、まずやらない。たとえ今は羽振りがよくとも、貧乏人根性のしみついた王族にこんな思い切った手は取れない。その上自分に自信があり、たぶんあやつを見下している。だがうちの飼い犬はしぶといぞ。長年この後宮の最前線で闘い抜いてきた女だ。舐めてかかるとケガをする」
それでも圧倒的に不利な戦いだ。女房たちの顔色は晴れない。
「もしも、それでも終わってしまったなら……」
円座の筋を無意識にむしっているその女を見た。
「その時は別の男でも探させよう。絶対に無理だと思っても時がたてば人は変わる。おまえたちもコトが終わってもあきらめるな。源典侍を見ろ。おまえたちの人生など始まったばかりだ」
全員が口の端を緩めた。彼女たちはそれでいい。
永遠に一人の男に縛られて死後さえもけして離れられぬのは中宮の立場についた者か、東宮及び帝の母、つまりこの内裏では私だけだ。女御でさえ時期が来れば許されないでもない。
――――開放してくれると言われてもご免こうむるわけだが
最愛にして最大の敵。大いなる呪縛。ああ、どっちにとって?
何日か静観した。
乳母子は言葉少なく日々を過ごし他の女房も声をかけかねていた。
洗われたような強い光が差し込む午後、少し席を外していた彼女が蒼白な顔色で部屋に戻ると、へたへたと座り込んだ。
「大丈夫?!」「しっかりして!」
女房たちが取り囲んで励ます。彼女は声も立てずに涙をはらはらとこぼした。
みな息を呑んだ。だが乳母子は、涙を流しながらこぶしを握って右腕を伸ばし、空高く突き上げると親指を立てた。
一瞬の間があり部屋がどよめいた。それはなかなか収まらなかった。
普段は冷静な女房たちが抱き合ったり涙を流したりしている。
「…………相手と別れてきたと言ってくれました」
もみくちゃにされている彼女にうなずいた。彼女は袖で涙をぬぐい、にっ、と笑った。
乳母子の相手として、女の趣味が妙な者を中心に探した過去の自分にグッジョブを送る。
「…………勝ったな」
「はい」
「東宮の元服も決まりました。忙しくなります」
「はい!」
力強く答える彼女の声に、言いようもないほどの喜びを感じた。
手を取り合って先へ進んでいく者は美しい。互いに重石となり、深く暗い波の底へ沈めあうような者たちよりも。
それでも、その深さが、暗さが細い切れ切れの絆である者もいるのだ。苦しみと悲しみだけが確かにそこに情があると示している。
午後の光が煌く。私は見慣れた女の輪郭がおぼろになるほど差し込んだ光に、ほんの少しだけ目を細めた。