恋
源氏十一歳
藤壷視点
くちなしの花の甘い匂いがほんのりと漂っていた。王命婦に届けられた文に添えられていたものらしい。香よりもむしろ心を弾ませる匂いだ。
「最近凄くない? 届け物も多いし」
「そりゃそうよ。最も帝のお心を捕らえる若く美しい宮さまの忠実なしもべですもの」
彼女は御簾の端近からずい、と奥に戻った。
「力関係に敏感な殿上人がほっておくわけもないわ。みんなだってそうでしょ」
「ま、ほどほにね」
「あなたほどじゃないけど」
「でしょ。実際には宮さまはけして姿をお現しにならないのだから、せいぜい私たちが華やいで、その美しさを偲ばせるようにしなくちゃ」
中務という年上の女房がおっとりと口をはさんだ。
「その気持ちはわかりますが、品位は落とさないでくださいね」
王命婦は口の端を上げた。
「もちろん安売りはしないわ。魅力的だけど意外に落ちないって線で行くつもりよ」
「大変けっこうだと思いますよ」
中務はその言葉にうなずいた。
確かに男たちは浮き足立っている。見慣れた序列を崩す新しい女たち。彼らは私たちに風を見ている。
後宮での女たちの格付けも変わった。后腹の私の前では更衣はもちろん女御たちさえ気をつかう。女子会にも誘われた。無愛想にならぬよう一、二度は行ってみたけれどさして得ることもないので、なるべくお断りすることにした。
「婉曲な嫌味の言い方ぐらいしか学べませんわ」
「カチンとくるときは宮さまの立場を強調することにしてるの。すると黙っちゃうくせに」
「もちろん穏やかにそうしています。苦情の言いようもないほど上品にふるまっていますから」
心配そうな目を向ける中務を、年下の女房たちがなだめる。部屋の格を落とすような真似はしないと誓っている。
それでも恋の噂は途切れることなく女房たちにまといつき、彼女たちは日々の暮らしを楽しんでいる。私には関係ないことだけど。
たぶん私は恋など知ることもなく生き、死んでいくのだろう。でもそれが悪いことだと思わない。女房たちの会話や和歌などでしかわからないけれど、あんなに感情を増幅させたら疲れてしまいそうだ。
帝へはもはや憎しみはない。けれど彼への想いがあるとは言えない。敬意と義務、それと保護欲に近い情。彼を前にしているとまるで私が年上で、姉になったかのような気持ちさえ抱いてしまう。
「藤壷さん、藤壷さん」
微笑みを浮かべて心持足早に、けれど流石にあてなる風情のままで私の元に現れる帝は年よりもだいぶ若々しい。もしかしたら、見た目と違って老成した私と確かにお似合いなのかもしれない。
「あら、今日は源氏の君は?」
「学習中で桐壺にこもっていますよ。なんでも人より上手いのだから、根をつめる必要などないのに」
心配そうに眉をひそめる彼はあの少年に対してだけはちゃんと親の情を持っている。しかし他の少年たちに対しては話は別だ。
話の変わり目に尋ねてみた。
「東宮(皇太子)さまの元服はいつですの」
彼はすでに十四だ。早いものはとうに元服を終えている年だ。尋ねると帝は興味の薄そうな顔で私に答えた。
「今年か、来年にはとり行ったほうがいいでしょうね」
「その際の献上品を今からよい職人を見つけて命じておきますわ」
帝は首を横に振った。
「あなたがそんなことを気にすることはないのですよ。まあその頃になったら余った絹でも贈って下さったら充分です」
そしてほんのわずかに不快の色を見せたので、私は何も言えなくなった。
東宮さまはけして不出来な皇子ではない。漢籍はやや苦手としているらしいけれど、差しさわりのある程ではないし、和歌などものやわらかな方面の才はとても優れていらっしゃる。
容姿も整ってらっしゃって、というか帝にそっくり。品のいいきれいな顔立ちで、源氏の君ほどの華はないけれど、そっと傍に控えたくなるような優しさが溢れている。
なのに帝は皇子の中でも特にこの方に冷たい。お言葉を与えることも少なく、私的に慈しんでいる様子はまったくない。
でも東宮さまは不満を見せることもなく、素直におっとりと帝に従っていらっしゃる。
「臣下の者だったら一刻も早く元服して地位を上げる方がいいでしょうけれど、帝になられる方はあせる必要などありませんからね」
女房たちはそう解しているし、私が気にすることではないからもちろんそれ以上口を出すことはない。なにせあの方にはきわめて立派な母君がいらっしゃるから。
「弘徽殿の上局は開いているではありませんか!」
訪れた相手を前に私の女房たちが憤っている。広廂に控えたよその女房が、それでも毅然と言葉を返した。
「あの上局は弘徽殿の女御さまのみがお使いになることになっております」
清涼殿にある二つの上局は、それぞれ弘徽殿と藤壷の名がついている。私の使っているのはもちろん藤壷の上局だ。私の殿舎は近いので普段は長居はしないのだけど、少し疲れてそこで眠ってしまった。
目が覚めると、珍しくすぐに次の女御が呼ばれていた。でも私たちがどかないので使いの者がやって来たのだ。
「不合理ではありませんか。現在使われていない上局があるのに、帝に対するお勤めでお疲れになった宮さまが急かされるとは」
「……こちらの宮さまがいらっしゃるずっと以前からの慣例でございます」
その女房は自分の筋を曲げない。私は慌てて身近にいた弁に命じた。
「すぐに下がるわ。そう伝えて」
彼女が低い声でそう告げると、他の者が更に気色ばんだ。けれど私の言葉に逆らうことはできず、勝ち誇った様子のよその女房どころか弁までにらみながらもしぶしぶ従う。
「専横がすぎます。いくら東宮さまの母君だからといって」
その怒りは弘徽殿の女御にまで向けられた。
新たに組み立てられた序列の中で、唯一私たちの前に立ちふさがる女御。それが彼女だ。
私より下に位置づけられることになった女御たち、いえ、更衣たちさえ古い者は、彼女の威を借りられる事態となると決して引かない。
そんなことが度重なったので、私の女房たちは対立する個々の相手よりもあの女御に不満をつのらせている。
けれど数々の伝説に彩られた彼女のことはやはり恐ろしく、露骨に対立したりはしていないけれど。
「あら、みんな断るの? 一人ぐらい試してみたら?」
数多い恋文に見向きもしない王命婦を同輩の者がからかった。
「今、気になっている人がいるのよ」
彼女が自分の指で髪を整えながら答えた。
この子のことだから内裏に来たらさぞや数多くの恋物語を繰り広げるだろうと思っていたら、意外なことに本当に安売りはしていない。
「あら、どんな方?」
とたんに周りに人が集まった。王命婦はしばらく黙っていたけれど、せかされて言葉を続けた。
「とある朝臣よ。イケメンって程じゃないけれど感じのいい顔立ちで、育ちも程々にいいの」
「そんなの山ほどいるじゃない。あなたらしくないわ。さぞや栄えある貴公子をとりこにするだろうと思ったのに」
彼女はふん、と鼻を鳴らした。
「権門の貴公子にとって女房はただのおもちゃに過ぎないわ。わたしは戯れの恋などしたくないの。自分の生涯を全て賭けるような恋がしたいの」
「それ、長期安定堅実路線とどう違うの?」
一人がもっともな疑問を呈した。王命婦はぐっ、と詰まりそれから「たとえ妻がいたとしても、全てを捨ててわたしの元に走るような恋よ!」と宣言した。
「ということはその方には妻がいるわけね」
「どんなことがきっかけでその気になったの?」
彼女は少し赤くなった。
「…………口説いてこなかったのよ。一度も」
王命婦は目立つ容姿の華やかな若女房なので、あいさつ代わりにさえ声がかかる。しかし件の朝臣は所用で何度か顔を合わせたが、礼儀を守って対応するだけで視線さえあまり向けなかったらしい。
「だからなんとか気を惹いて、やっと私的な会話を交わせるようになったの。話してみると優しくて知的で思ったより素敵だったの」
彼女の瞳はいつもよりやわらかく潤んでいる。これが恋なのだわと私は観察に熱中する。
「奥さまは一人しかいらっしゃらないし。その相手の方も内裏に勤めているようで、あの人の世話をそれほど細やかになさっているわけでもないらしいし」
王命婦は今まで見たこともないくらい赤くなっているけれど幸せそうに見えた。
「もうそこまで言ったのだから名前も言っちゃいなさいよ」
「そうよ。気になるじゃない」
みんなが促した。彼女はだいぶ躊躇したが、ついにその名を口にした。女房たちはきゃあきゃあとはやし立てた。
だけど中納言(女房名)だけがわなわなと唇を震わせ、しばらく声も出せずにいる。異変に気づいてみなが振り向くとようやく震え声を出すことができた。
「…………その人はやめたほうがいいわ」
「え、なぜ?」
みんなが、特に王命婦が視線を尖らせた。中納言はますます顔色をなくしながら言葉を続けた。
「…………その人の妻は、弘徽殿の女御さまの腹心の女房です!」
今までほんのりとピンク色に染まっていた部屋の空気が急速に青くなっていく。一人がよろめきながらなんとなく後ずさった。
王命婦の顔色も蒼白だ。この内裏であの方の名は最強の異名でもある。
「………………あきらめたら」
一人が思わず小声でつぶやく。とたんに命婦はきっ、となった。
「まさか! 私が引くと思っているの」
別の女房がなだめる。
「さすがにマズいわ。成敗されるわよ」
彼女の顔色は戻らない。それでも強気に言ってのけた。
「あのお方だって女房の色恋沙汰なんかには口を出さないでしょう。だったら、ただの年増の古女房。どちらがいいのか自明の理よ」
そういって挑むように瞳をきらめかせた。
狂気のような恋心に残忍な牙が与えられる。
その日、王命婦は誰よりも美しかった。
私はちょっと脅えながらも、ずっと視線を外せなかった。