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源氏夢想譚  作者: Salt
第一章
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Dear My Enemy

光源氏十一歳

麗景殿視点

 うっとうしい五月雨(さみだれ)を振り払うように光君が御簾(みす)前に現れた。いつもはそのまますぐに入り込むのに、礼儀正しく許可を得た。


「もちろんかまわないわ。どうなさったの?」


 微笑むと彼もにっこり笑って御簾をくぐる。


「知らない間に不愉快な気持ちにさせていないかと思って。麗景殿(れいけいでん)女御(にょうご)さまにまで嫌われたくないので」


 心配になって彼を見た。


「例のあのことね。本当なの?」

「はい」


 彼はちょっと照れたように笑った。ほんの少し、大人になった気配がある。


「……弘徽殿(こきでん)の女御さまに引導を渡されました」

「まあ。どうしてそんなことになったの」

「私にもよくわからないのです」


 最近内裏(だいり)で噂になっているのは彼と女御さまの関係性の悪化だ。彼女はもう、光君を近くに寄せ付けない。だけど奇妙なことに周りの人間を巻き込んではいない。

 帝はもちろん東宮(とうぐう)さまも今までどおり光君を可愛がっている。私たちにも特に通達はない。気の弱い更衣(こうい)の一人が彼の君を近づけさせない方がいいのかと女房を尋ねにやったが、「今までどおりに接しなさい」と言葉が返ってきたそうだ。


「しばらくは皆さんも遠巻きにしている感じでしたけど、肝心の弘徽殿に仕える女房たちがごく普通に扱ってくれますから、なんとなく元に戻りました。あの方を除いて」

「まあ。ご自分の女房たちさえ今までと変わらないの? なんだかよくわからないわ」

「彼女たちに尋ねてみたのですが、今までと一切態度を変えるなと厳命されているようですね」


 果物とお菓子を勧めると上品に一つ二つ食べて話の続きをなさる。以前のように一息に食べたりはしない。なんだか少し残念。


「弘徽殿の女御さまは一切お話なさらないの?」

「それが違うのですよ。話を聞いて下さい。ひどいんです」

 

 あらあら。急に子供っぽく口を尖らせた。


「桐壺で書の先生に見ていただいて誉められたので、父上に見ていただこうと書を持って歩いていました。急いだので文箱(ふばこ)にも入れずに。ところがちょうど馬道(めどう)のあたりで女御さまに行き会いました」

「そう」

「もちろん私は道をお譲りし、後ろに下がって書を置き膝をついてお通ししました。すると女御さまは扇の端からちらと視線をそれにあてて『ガキっぽい字』とおっしゃったのです!!」


 光君の字は先の楽しみな素敵な字だけれど、まだ大人の字とは少し違う。


「腹が立ったのでそのまま引き返して手本を前に昨日一日練習しました。見てください、これを!」


 彼は隠し持っていた書をばっと広げた。


「どうです! 見事でしょう!」

「ええ。本当に立派な字だわ。まるで上手な大人の人が書いたみたい」

「でしょう。われながら会心の出来だと思います」


 得意満面な様子が凄く子供っぽいことは黙っていよう。


「で、こちらはその次によく書けた分なんですが……今悩んでいるんです」

「なあに。こちらもよく書けていらっしゃるわ」

「ええ。ですがこの辺はやっぱりこっちの方がいいでしょう」

「そうね」

「片方を父上と藤壷の宮さまに見せて、もう一枚は弘徽殿の前に置いてこようと思うのです。それで一番上手く書けた方をどちらに持って行こうかと」


 思案する彼を前に私もいっしょに考える。


「そうね。あの方も藤壷の宮さまもこちらの字を充分にほめてくださるでしょうけれど、女御さまは短所に気づきそうね」

「やはりそう思いますか。よし、こっちにしよう」

 光君は一番いい字を弘徽殿用に取り置いた。

「これでもう、ガキっぽいとは言わせませんよ」

 彼は書をつかんで得意そうに笑った。



 午後は雨が上がった。御簾内から、宿した露を日の光に煌かせて華やかに彩られた前栽(せんざい)(平安花壇)を眺めていると、鋭い風切り音と共に円座が飛んできて孫廂(まごびさし)に落ちた。


「まあ。今迄で最長距離じゃないかしら」

「よく飛びましたねえ。もはや飛ぶ鳥さえ落とすことができるのではないでしょうか」

「弘徽殿は物の怪が現れても鉄壁の守りですね。物理的にも」

「そんな命知らずな物の怪はいませんよ」


 女房たちが笑いながら立ち上がって円座を取り上げ、抱えて弘徽殿の方へ歩いて行った。だけどあまり間を置かずに戻ってきた。


「早かったのね」

「途中であちら方の女房たちが取りに来るのに会いましたから」

「円座は返しましたが、これから直接女御さまがいらっしゃるそうです」


 仰天した。今までだって何度か円座が敷地内に飛んできたけれど直接いらしたことはなかった。女房を介して礼を言われていた。


「…………最長距離の記念訪問なのかしら」

「いえ。何かお願いしたいことがあるそうです」


 首をかしげていると、当のお方の一群が動き出すのが見えた。

 威風あたりを払うばかりで、たまたま行き会った殿上人が、国司の前の農民のように床にひれ伏して通り過ぎるのを待っている。恐怖のあまりか高欄(こうらん)から飛び降りて、白砂の上に伏せる者もいる。

 女御さまと仕える者たちは、そんな様など気にも留めずに静々と進んでくる。

 私たちはその様子を口を開けて眺め、それから気づいて支度のために奔走した。

 御帳台(みちょうだい)(平安ベッド)を片付ける暇はなかったけれど、通常の三倍速で動いた女房たちが、何とか部屋を整えてくれた。


 (しとね)(平安座布団)に腰を下ろした女御さまが、突然の訪問と円座のわびを言う。


「いいえ、全然。むしろもっと遊びに来ていただきたいですわ」

「ありがとう。しかし今日はお願いの議があって参りました」


 女御さまはひた、と私を見据え、それからなんと頭を下げた。


「お上げになって。私にできることでしたら何なりとお手伝いしますから」

「恩に着ます」

「いったいなんでしょう」

「私に……和歌を教えてください」


 え、と驚いて彼女を見ると、恐いぐらいに私を見ている。


「あなたが後宮一の歌詠みであることは知っています。いえその奥義を披露せよと言っているのではない。一首だけ、それだけをどうにか並みの心根の持ち主でもわかる歌に仕上げさせてもらえないでしょうか」


 よくわからないけれど凄く真剣な面持ちでいらっしゃるから私も真面目にうなずいた。


「私程度がどれだけのことができますでしょうか。けれど、できるだけ尽力させてください」


 物陰でなにか書き物をしている女房がいると思ったら、うやうやしくそれを私の女房に差し出した。受け取ると、過去に作られた女御さまのお歌とその問題点が挙げられている。

 感情を直接詠みあげすぎること、たとえるものが雄大すぎて不適切であることなどが丁寧に書いてある。事情はだいたい把握したけれど、女御さまはその女房に脅すような目を向けている。


「私は女御さまは他の方より和歌の素質があると思います」

「えっ」


 先ほどの女房が声をたて、再び女御さまの視線を招いた。並みの者だったら腰を抜かしそうな凄みのある目だったけれど、当の女房はわずかに頭を下げただけで平気みたい。他の人たちは表情を出さずに控えている。


「歌には色々な要素があります。もちろん想いも大事ですし、視覚的イメージを他者に共有させることも大事です。でも、歌であるからには一番大事なのはその和歌の持つ調べ、リズム感です」


 みな静かに耳を傾けている。


「女御さまは卓越した音の作り手です。ですからもともとそのお体に素敵なリズムを持っていらっしゃる。事実、今見せていただいた作品も音の響きはとてもよろしかったです」


 彼女はその女房を見たまま口元をにい、と緩めた。


「ですが総合的には他の者には理解しにくいかもしれません。その理由は先ほどいただいたものに的確に書かれていますから、必要なことを補いつつ実践していきましょう。どの季節のどういった感情、どういった情景をお詠みになりたいのですか」


 もしかして帝へのお心をお詠みになりたいのかしら。

 胸の奥がちくっとする。


「今の季節の、並みの人でもわかる歌を詠みたいと思います」


 なんだかとても意外だったけれど、発想法から手伝ってどうにか一首、誰が聞いても好感を抱くものを仕上げることができた。


「そうです。他の方なら唐風の知識を入れることは意外性につながりますが、女御さまがその方面に優れていることはみな知っています。故意にそこを切り捨てて完全な和風にすることがベターです」

「おかげで色々と得心がいきました」

「いえ。本当にお手伝いさせていただいただけですわ。この歌は女御さまの中から生まれてきたものです」


 彼女は本当に嬉しそうに微笑んだ。日の光が弾けるようだった。


「それはそうとどうして急に思い立たれたのですか」


 尋ねると急に顔をしかめ、拳を握った。私の女房たちは一人二人を除いて離れて座っていたのだけれど、近くにいた者がずりずりと後ずさってみなの元に合流した。


「挑戦を受けたのです」


 途惑って見返すと彼女はこぶしを握る手に更に力を入れた。


「どなたから?」

「もちろんあのにっくきチビ、光源氏です」


 噂は本当だったみたい。いきどおっていらっしゃる。でも女房たちは無表情なままだ。


「帝のもとで『まだ弘徽殿の女御さまのお歌を聞いたことがありません。ぜひお聞かせ願いたい』と。もちろん私は和歌も苦手とはしておりませんが、そもそも彼に自分が慣れたタイプ以外の名作を理解する力があるとは思えないので、お手を煩わせてしまいました」


 光君もなかなかおやりになる。それに女御さまも流してしまえばよろしいのに、むきになって手を打つ所など本当に…………似ている。


「さて、主上のところへこの和歌を置いてきましょう。これでもう、和歌詠まずとは言わせません」


 ついにっこり微笑んだ。だって光君に似過ぎている。

 お帰りをお見送りしながら亡き更衣のことを思った。

 光君は元気です。そして――――あなたの元でしたらこうはならなかったってほど負けず嫌いに育っていますよ。だってとっても素敵な喧嘩仲間がいらっしゃるから。


 五月雨の合間の空を見上げて語りかけてみた。

 流れる雲を避けて差し込む光が洗われたようにきれいだ。

 撫子(なでしこ)の咲く日もたぶん近い。



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