決別
弘徽殿視点
光源氏十一歳
どこか遠くから時鳥の声が聞こえた。それにあわせたかのように、ここ数年なぜか恒例となった花橘が麗景殿の元から届く。失った花の代わりに愛でていたら、肩を落とした花盗人が現れた。
「あの…………これ、返します」
盗んでいった牡丹の花がすこし萎れて握られている。
「ほお。受け取ってはもらえなかったのか」
「はい…………」
なかなかに傷心の様子だ。だが私にはわかる。半分は本当だが、残り半分で同情を買おうとしている。
この弘徽殿の女御から優しい言葉は贖えないが、ちょっと親切にしてもらって花の許しを与えられたら充分だと思っているはずだ。
いちいち口にする間もなく女房の一人が水を張った瓶を運び、萎れた花をその中に活けた。
「藤壷はなんと言った」
「濃すぎる色合いのみの花は苦手だって…………」
たぶんこの花の出所がどこか知る者がいたのだろう。割りに上手く返した。
「まあ、そうだろう。この花は美しいし唐では好まれているようだがこの国では今のところあまり人気がない。強すぎて風情に欠けるせいかな」
「そう思います。配慮に欠けました」
光は気落ちしたまますこし引いて見せた。大人しく見せつつ私の様子をうかがっている。一息に攻め込んだ。
「私には似合うだろう」
「!!」
呆気にとられた様子が楽しい。彼は硬直し、それから慌てて肯定した。
「は、はい。お似合いです!」
「そうか。つまり私は風情に欠けると」
「い、いえ。あの…………う、美しいところが似合うと」
「ほう。美しい花は色々あるが、中でもこの花が似合うというのはなぜだ」
光は口を開け閉めして、必死に言葉を考えている。他の部屋の女たちが見たらがっかりするほどなりふりかまわず考えて、ついに上手く言いつくろった。
「唐風なところが他の方より合うと考えました!」
「この私のどこが唐風か」
「いかめしい…………あわわ、威厳があって格調高いところが唐風だと思います!」
「ふむ。まあよろしい」
ほっと息を吐いた彼をいったん休ませ、隙を見せたところで話を詰める。
「ところで明日は忙しいか」
「え、いえ」
思わず答えてしまってちょっと考えている。暇を与えずに決めつける。
「ならば明日は一日付き合え。話したいこともある」
また、うかがうような上目遣いをする。帝の皇子にはふさわしくない。
「いいな」
押すと、拒むことはできずにうなずいた。
忍んで出かけるといったのに、殿上人のほとんどが集まった。御簾内から命じて大部分を散らし、特に身近な者だけを残そうとしたのだが、それ以外も離れて控えている。
「もう一度、帰るように告げよ」
近似する者にそう言うと乳母子が割って入った。
「みな試されていると思っているのですわ。何度も繰り返さないとこの場を去りません」
時間のムダだ。
「従わない者は覚悟をせよと伝えよ」
一言添えさせるとくもの子を散らすように消え去った。
「すご…………」
輦車から牛車に乗り換えようとしていた光が感心して声をあげた。が、それは乳母子の声にかき消される。
「庇つきの青糸毛の車! わたくしは別の車で参りますが、ちょっとだけ中を見せていただいていいですか? 夫に報告したいので」
うなずくとちょろちょろと内外を観察し、懐紙になにやら書き付けている。
「やはり格が違いますわ」
以前とは違う感慨に浸る彼女をどけて乗り込んだ。
「どこに行くのですか」
「大覚寺に。近くに別邸もあるからそこを足場にする」
女御の外出はままならぬものだが寺参りを口実にすると多少は出やすい。まあ、この私が望むのなら果たされぬことはあまりないが、嵯峨帝ゆかりの寺ならば光を連れて行くのも不自然ではない。
「嬉しいな。都を離れるなんて初めてです」
洛外とはいえごく近場だ。宇治にも別邸はあるがそこよりも気楽にいける。それでも子供にはうれしいものなのだろう、物見の窓にへばりついている。
やがて川辺の別邸にたどり着く。ここはわが一族の邸にしては山里の趣を重んじて簡素な造りにしてあるが、壮麗な松や人手を使ってこしらえた滝が自然の美を意識的に高めている。
「緑が濃くて、気の流れまで潤っているみたいですね」
「うむ。桜の季節や紅葉の頃はもっと凄いが、納涼にもふさわしいだろう。将来おまえもこのあたりに一軒邸を持つがいい。人を置いて通うにも困らない場所だ」
「通うのだったらもっと近い所がいいなあ。たまに遊びに来るのなら素敵な場所だけど」
そう言いながらも楽しそうにあちこちを見て廻っている。ひとしきり動いたあと前に戻ってきて私を見上げた。
「でも、急にどうしてこんなに親切なのですか」
「まるで普段冷たいような言いぐさだな」
「いえ! けしてそんなことはないですけれど…………」
「それについてはあとで話す。それより一休みしたら大覚寺に移る。ご先祖のいた場所だ。よく拝みなさい。
不思議そうな顔のまま、光は素直に従った。
寺詣でをし、そのあと大沢池に浮かべさせておいた船にのって遊んだ。音をねだられたので琵琶を奏してやることにした。
「言っておいてなんですけど風が出てきたから揺れますよ。大丈夫ですか?」
「私を誰だと思っている」
あたりの景色を映した水面にさざなみが立っている。ほんのわずかに傾きだした陽はいまだまばゆく、吹き渡る風は心地よい。
夏の盛りの一日は、成長してきた少年の心を弾ませる。それを勢いづかせるような曲を選んでやった。楽しそうに拍子を取っている少年の姿はなかなか魅力がある。存分に音を響かせた。
「素敵です! もう一曲お願いします」
「ならばおまえの母と二人で合わせた曲を奏でてやろう」
光の目が丸くなった。
「え? 私の母と二人だけで弾いたことがあるのですか」
「ああ。伴奏に笛の者が一人いたがな」
彼はぽかんと口をあけてしばらく私を見つめた。
「あの…………あまり仲はよろしくなかったと聞いたのですが」
「その通りだ。後宮は馴れ合いの場所ではない」
ちちち、と鳥が鳴く。その声に煽られたのか別の鳥が凄まじい勢いで急降下していき、水面の魚影をくちばしで掴むとそのまま飛び上がった。
中洲の島に下りて獲物を貪っている。
少年は驚いたままそれを見ていたが、やがて目をそむけた。
「…………自然はいつだって残酷だ」
「だけど! 命を奪うなんて」
彼の眼を見た。脅えがほとんどを占める。だが奥に小さな焔がある。なかなかいい目だ。
「鳥のことではないのだな」
脅えの色が濃くなる。焔が揺れて消えそうになる。
私はそれを望まない。
「………………あの」
「戦線離脱はいつでも可能だった。里に戻って大人しくしておけばいい。他と違っておまえの母は、その父に強制されることもなかった。他者に理由を求めるのならそれは甘えだ」
「でも…………!」
「戦支度が不充分で存分に闘えぬのなら後宮に来るべきではない」
少年の瞳が潤んできた。私は目をそらさずに琵琶を抱え、長く離れていた曲を呼び寄せた。
あの過去の日の手ごたえを一人で弾く白露に求めても無意味だ。それでも昔の音をあの女が弾いたとおりに再現する。
――――逸るな、愚か者
――――だってさ、すげえ楽しいじゃん。おまえもだろ?
――――やかましい。黙ってとべ!
澄み切った月の光が遠くから招かれる。日の光の下にきらめく池に一瞬それが大きな残像を映して瞬時に消えた。
光の瞳の露は払われ、あきれたように池を見つめている。
「今、お月様が見えたような気がしました!」
「音に呑まれるとそんなこともある…………藤壷の琴で何か見えるか?」
「いいえ。でも藤壷の宮さまの音はきれいで完璧で甘いのですよ」
少年がうっとりと目を細めた。
思慕する相手の音は違って聞こえる。基となる音に自分の心が飾りをつける。
「それはけっこうなことだ」
いずれあきらめることとなる淡い想いを否定しようとは思わなかった。
舟から降りるとき光が転びそうになって、とっさに手を伸ばした。彼が慌ててその手を掴む。ぐっ、と引っ張って身を留めさせた。
息子より小さな手だ。大人より温かい。
光は何を考えたのかしばらくそれを離さなかった。
私のほうから外すと、何か言いたげにこちらを見た。
たぶん人心掌握の一種なのだろう。そ知らぬ顔で扇を引き寄せ顔を隠して舟を降りた。
別邸にたどり着くともの問いたげにこちらを見る。かまわずにまずは満腹にさせた。
「美味しかったです。もう入りません」
「そうか。ならば私には酒を」
命じるとそれに便乗しようとする。
「私にもください」
すぐに止める。
「ダメだ。汲みたての水を持ってくるように」
「え、甘いしみんなちょっとは飲んでますよ」
きっぱりと断る。
「おまえにはまだ早い」
不満そうな少年に視線を向けると急に威儀を正した。うなずいて本題に入る。
「ところで何故このように遠出までしたのか気になるだろう」
「はい」
「実はおまえの敵になろうと思う」
「はい…………え?」
聞き違えたのかと目を白黒させている。かまわずに話を続けた。
「たぶん主上は私のことを母の一人と思えと言っているな」
「は…………い」
「それも今日までだ。明日からは公然と憎んでよろしい」
今まで何度も丸くさせた瞳が、見たこともないほど大きく見開かれた。
「何の冗談ですか?」
「いや、真面目に言っておる」
「嘘でしょう?」
「私は嘘は言わない」
美しいと評価できる顔が赤くなったり青くなったりする。眺めていると震える声で尋ねた。
「もしかして、牡丹をとってしまったことが原因ですか」
「きっかけではあるな」
「そんな! 子供のしたことじゃないですか!」
「子供であることを言い訳にした時点で子供とは言いがたいな」
「やっぱり私が憎いのですか!」
「いや。これからは憎くなるだろうな」
ふいに光の目から涙がぽろぽろとこぼれた。それを袖でぬぐいながら彼は必死になった。
「あの時のことは謝ります! 許してください」
「ああそれは許す。大丈夫だ、今日はまだ安心してていい」
「安心なんかできるわけないでしょう! あなたは内裏で一番強いんですよ! 非力な私がかなうわけがないじゃないですか!」
「甘ったれるな!!」
一喝すると茵から吹き飛んだ。けっこう無様にはいつくばったがかまわずに叱り飛ばす。
「おまえは本当は誰の子だ! あの、非力で無力で何の後ろ盾もなく金もなければ権力もなく仕える女房もみな貧乏という悲しくなるほどちっぽけな存在のくせして徒手空拳で、この偉大で美貌で知性は富士の山よりも高く心は大海より広くのたのたした左大臣を抜いてほぼこの日の本一の実力者の父を持ち書は小野道風を越え漢書は学者より読みこなし楽の技術は玄象さえ従うほどのこの私に立ち向かったあの桐壺の更衣の息子ではないのか! 弱さを言い訳にするな!」
光は涙ぐんだままでこちらを見ている。女房をよんで紅絹を持ってこさせてそれを受け取った。主上にさえしたことがないのだが、それで涙をふいてやった。光はすがるような目をした。
「ずっとこうしてお母さまでいてください」
「断る。他の方々にそう願え」
「あなたにそうであってほしいのです」
「今日までは母だ。明日からは違う」
「だって…………」
「あの更衣は私さえ倒して最強の称号を得たのだ。おまえはその息子だ」
もう一度涙をふいてやり微笑みかける。
「この私を倒すことができたらその時は酒も飲ましてやろう」
彼は答えずいつまでも瞳を潤ませていた。
都に行き着いたときはすっかり暗くなっていた。
牛車の中でもうちしおれた彼は押し黙ったまま隣に座っていたが、ふいにまた私の手を取った。
「?」
「離さないでください。せめて部屋の者が迎えに来るまで」
少年の手は温かい。片手で扇をかざしたまま輦車に乗り換え、それを降りて弘徽殿にたどり着いてもその手を離さなかった。
――――今後を見越しての心理戦か
それもまたよし。私はもう何も言わず彼の手をずっと握っていた。
やがて桐壷から迎えが来た。光は私の手を放し、きちんと座って頭を下げた。
「………………今まで、ありがとうございました」
「うむ。体には気をつけるがいい」
「弘徽殿の……いえ、まだいいですよね。母上さまもお元気で」
そういうとあでやかな笑みを口の端に乗せた。
こちらも微笑み返し、去っていく少年の姿を見送った。
時鳥の声はもう聞こえないが花橘の香りがひときわ薫っている。
こうして私は、光源氏と決別した。