朱雀帝登場
光源氏七歳(満六歳)
(後の)朱雀帝十歳(満九歳)
弘徽殿視点
硯箱の蓋に果実をのせてしずしずと運んできた女房が、私の元へたどり着くとそっと耳もとに囁いた。
「東宮(皇太子)さまが……」
簀子の外に目をやると、彼は裸足で下に降り前栽(庭先の植え込み)の陰に座り込んでいる。
「これ、東宮ともあろうものが何です。上がりなさい」
「はい、すぐに」
息子は素直に従った。
「何をしていたのです」
「蟻を見ておりました」
私は首を傾げた。わが子ながらどうもその行動は不可解だ。
「何故です」
「面白いからです」
「虫が」
「ええ、特に蟻が。人と似ていますよ」
ますますもって解せん。似ているだろうか。
「どんなところが」
「食物をいったん巣穴に持っていくこととか、きちんと行列をして歩いたり、頭を下げて挨拶しているところなどです」
そういわれれば似ているような気もしてきたが、私には全く興味がもてない。
「いずれは帝になろうというお方が眺めるにふさわしい物とは思えません。もっと良い物を御覧なさい」
「たとえば」
「空とか、桜、遠出のおりでしたら滝、雨の後の賀茂川の流れなぞもなかなかよろしい」
「お母様は大きな物がお好きですね」
言い当てられてちょっと息を呑む。従順で大人しい息子だが、妙に鋭い所がある。
「そうですね。嫌いではありません」
「私は小さなもの、細かいことに気を取られる性質のようです」
まだ十になったばかりだというのに自分を知っている。けして愚かな訳ではない。むしろ聡明な方ではないかと思う。しかし、世間はそう見てはくれない。
一つは彼が自分を上手に演出することが出来ないからで、もう一つはあの少年の存在だ。
光と呼ばれるあの皇子。亡き更衣の息子。宮中の視線も父たる帝の愛も一身に集めるあの華やかな童子。彼は人の気を引くことが上手い。無心を装って嬉しがらせを人に与えるが、実は細密に計算されて言葉であることも多い。私はそれに気づいているし、彼も気づかれていることを知っている。確かに、宮中でその笑顔に完全に降参しない者は私ぐらいだろう。別に憎くはないが。
わが息子ですら、彼には弱い。その言動を嬉しそうに語り継ぐ。
「面白いからこの間光に見せてやったのですけれど、うじゃうじゃして気味が悪い、って踏み潰してしまいましたよ」
少し淋しそうに息子が笑った。私はかっとなった。
「東宮御ん自らの恩恵になんという態度を取るのだっ、あやつは!」
息子が慌てる。
「いいのです。気にしていません。それに彼は小さいし、虫が嫌いな者も多いことを考えなかった私がうかつでした」
「あなたは優しすぎます」
私は決め付けた。息子はその年にしては大人びた笑いを見せた。
「そうでもありませんよ」
「いえ、帝以外は全てあなたの臣下です。当然光もです。そのように甘やかすものではありません」
「彼はそれが似合うのですよ」
「作為に満ちているではありませんか。周りの者が何故気づかないのか不思議で仕方ありません」
「作為があろうがなかろうが、甘い言葉や美しさは人を和ませます。その底に何が埋めてあろうが花は綺麗に咲けばいいのです」
達観した童子。それがわが息子。しかし私はため息をつく。この知性を別方面に生かせればいいのだが。
「光のことより、三史五経です。あまりはかどっていないようですね」
「漢学より物語の方が好きです。漢詩は好ましいものも多くありますが」
「上に立つ者にはそれなりの義務があるのです。博士に満足できないようでしたら、私がお教えいたしましょう」
「………嬉しいけれど、けっこうです」
遠慮深い。私は漢籍は相当に得意としている。
「あなたの年ごろには三国志に胸を躍らせていました」
「実にお母様らしい。孫子などもお好みではありませんか」
「よく判りましたね。その通りです」
「私はせいぜい墨子ぐらいですね、納得がいくのは」
「あれは帝となる者に向いた思想ではありません」
「確かに」
近寄った女房が彼の足を清めると、柔らかな笑顔で礼を言う。
面立ちはその父に似ているが、年のせいかあどけない。
そのくせ老成した態度は、時にそれを忘れさせる。
「楽のほうはいかがですか。琴など上達なさいましたか」
剥いた果物を勧め、聞いてみる。彼はそれを一つ取り上げて口に入れ、食べ終えた後に答えた。
「ほどほどには」
ある程度はこなす。しかしそれ以上ではない。ただ、聞き手としては優れていて、その批評はいつも正しい。
「彼のような天分はありません」
「何も較べる必要などない。あなたはあなたでいいのです」
「ええ、わかっています。卑下しているわけでもないし、落ち込んでもおりません。ただなるべく客観的に自分を見たいのです」
「心がけとしては素晴らしいけれど、低く見積もりすぎです」
「……ありがとうございます」
息子は立ち上がった。背の丈が急に伸びたような気がする。彼はそのまま私を見下ろす。
「お母さまこそ優しすぎます」
苦笑した。この私にそんなことを言うのは彼だけだ。
「面白いことを言いますね。後ろで女房の肩が震えていますよ」
「いえ、滅相もない」
控えていた乳母子が焦って否定した。
それにかまわず彼は身をかがめ、私の髪を軽く撫でた。
「孔子にいじめられてきます」
「弟子にもよろしくお伝えください」
くすり、と彼は笑った。
季節にはわずかに早い涼しげな荷葉の香が後に残った。
消えていく足音。
私は黙ってそれを聞いた。
春の陽は、まぶしい。