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そのぜろ

 日曜日の昼下がり。不景気に日本全体が喘いでいるこのご時世、有り難くも毎日を多忙の中で過ごす事が出来ている俺は、数週間ぶりに手に入れた休日を、リビングのソファーに腰掛け妻にれてもらったコーヒーを飲みつつのんびり過ごしていた。

 ぼんやり見つめるテレビ画面では、最近妙にちやほやされている若手のゴルファーがクラブを持ってグリーンに立っていた。会社の付き合いで幾度かゴルフをたしなんだ事はあるが、正直俺自身はゴルフに興味はない。この若手選手は世界的にもなかなか凄腕のゴルファーであるらしいが、それがどれくらい凄い事なのかはいまいちわかっていなかった。

 スパンッ、と風を切って振るわれたクラブが、芝の上にポツンと転がっていたボールを遠くへと跳ばす。ギャラリーからパチパチと拍手が送られているようだが、やはりそれがどれほど凄い事なのかはわからない。

 コーヒーを一口だけ口に含み、チャンネルを変える。特に意味無く回したチャンネルでは、ぽっと出のお笑い芸人が観衆の笑いを誘っていた。

 はぁ、せっかくの休日だが、なかなか退屈だ。趣味の一つでも、作った方が良いのかな。

 ガチャッ、と。背後のドアが開く音。開かれた扉のその先からリビングに入って来たのは、藤ヶ谷(ふじがや)家自慢の一人娘、美雪みゆきだった。

 目が合い、美雪がニコリと笑う。ソファーの右隣をぽすぽす叩いて招いてみると、彼女はテクテクと可愛らしい足取りで俺の元までやって来た。

 今年、小学二年生になったばかりの美雪の身長には少々高いかもしれないソファー。彼女はそこに飛び乗る様に座ると、『わはははは』と賑やかなテレビ画面に目を向ける。果たして今観はじめたばかりで何が面白いのかわからないが、美雪は目をキラキラ光らせて画面に見入っている。なるほど、コレが現代っ子か。

「遊びには行かないのか? えーっと……、さっちゃん、だったか」

 随分前に一度だけ顔を見た、美雪の幼稚園時代からのお友達の顔を脳裏に思い浮かべつつ、妻にしてもらったのか、髪をポニーテールにまとめた美雪の頭に手を置いた。さらさらとしていて、とても細い黒髪。近頃の女の子は随分とおませさんで、俺が仕事から帰って来ると美雪は時々、もうすぐ寝てしまう時間であるのにも関わらず、髪に自分でブラシを入れている時がある。微笑ましい限りだ。

「きょーは遊び、行かないの」

「ふぅん。珍しいね」

「うーん……」

 テレビ画面を見つめていた美雪はふと、その唇をツンと尖らせると俯いてしまった。指先に出来たささくれをそろーっと弄くりつつ、彼女はソファーから垂れた両足を小さく揺らす。

 うん? と首を傾げると、美雪が膝の上に乗って来た。その小さな背中を俺の胸へと預け、仰ぐ様に俺の顔を見上げた彼女は中途半端にひげが生えて青くなった顎をその小さな手で撫でてくる。

「どうしたんだ?」

「うーんとねー。えっとねぇ?」

 顎を弄くる手を止め、美雪が再び指先のささくれを弄くり始める。それからのんびりとした口調で、けれどどこか沈んだ声音で言うのだった。

「みゆきー、さっちゃんとケンカしたの」

「喧嘩……?」

「うん、けんかぁ」

 まるで水泳の授業でやるバタ足の様に、美雪の足が宙を蹴る。こつこつとすねにぶつかる彼女の踵はとても小さい。

 喧嘩、か。子供達も、いろいろと大変な様だ。

 しかし美雪とさっちゃんが喧嘩をするとは少し意外だ。毎晩食卓で美雪は、今日はさっちゃんと何をしたー、などと良く喋っている。尽きる事の無い彼女達の話を聞いている限り、美雪とさっちゃんは親友と言っても過言ではない様な関係に思えていたのだが。

「どうしたんだー、美雪? どうして喧嘩しちゃったんだ?」

 小さな頭を撫でながら声を言うと、脛にぶつかっていた彼女の足が動きを止めた。色の白い肌が身につけたワンピースの隙間から覗けるその肩を小さくすくめる美雪。彼女は数秒間沈黙を守ったまま俯いていたが、やがて頭を俺の胸に押し付ける様にこちらへ体重を預け、再び足をパタパタさせながら言う。

「しぃちゃんが男子に嫌な事されててねー?」

「うん」

「さっちゃんとね、一緒に男子をこらしめてやろーと思ったのに、さっちゃん、イヤだって」

「そうかぁ……」

 コレはまた、なかなか面倒な案件の様だ。

「でもな、美雪。他の子が嫌だっていうんだったら、無理を言っちゃいけないぞ?」

「けどしぃちゃん、においつき消しゴム取られたんだよぉ? しぃちゃんかわいそーだもん」

「そっかぁ。それはしぃちゃん、可哀想だね」

「だからね? みゆき、しかえししようと思ったんだけど、さっちゃんがダメだって。さっちゃんはしぃちゃんのこと、かわいそーって思わないのかな?」

 うーん、と言葉を濁す。子供は本当に、些細な事で喧嘩をしてしまう。そして彼らの主張は大概の場合、客観的に見ればどちらも正しいのだ。譲れない物同士がせめぎ合いを起こした結果、どちらも意地になってしまって、喧嘩になってしまう。それは大人から見ればすぐに解決を見る事のできる瑣末さまつな事であるのかもしれないが、友達と遊びが全てである子供達にとってはやはり、友達との喧嘩というのはなかなか重大な事件なのだ。

 うー、と唸る美雪の頭をそっと撫でる。友達の為に悩める彼女が、親としては最高に微笑ましい存在に思えた。

「ねー、みゆきが悪いの?」

「うん? 美雪は悪くないよ。そしてさっちゃんも悪くない。美雪はさ、しぃちゃんが可哀想だと思ったんだろ?」

「うん」

「さっちゃんもね、もし男の子達が美雪に仕返しされたら、今度は男の子達が可哀想だと思ったんだよ」

「でも、男子は消しゴム取ったんだよ?」

「う、うーん…………」

 まあ、そうだよなー。人の物を盗むってのは、決して褒められた事ではない。

 そしてその事に対して逃げるのではなくしっかり向き合う美雪の姿勢は、大人である俺でもついつい感心してしまう。

 随分と、本当に随分昔の事を、思い出してしまうな。

「結局、しぃちゃんの消しゴムはどうなったんだ?」

「男子達がね? 先生に怒られて、ごめんなさいってしてた」

「そっか。じゃあ、良かったじゃないか」

「でもぉ……、さっちゃん、あんまりしゃべってくれない。みゆき、おっきい声で怒っちゃったから」

「そっかー。美雪、正義のヒーローみたいだね」

「ヒーロー?」

「そう、ヒーロー。誰かのために頑張れるなんて、カッコいいな、美雪は」

 ぽんぽんと、僅かに頬を綻ばせた美雪の頭をそっと叩き、ついつい零れてしまう笑みを隠せない。

 随分昔、美雪とさっちゃんの間に生まれた軋轢あつれきに少しだけ似た事を、俺は体験している。あれは、俺が美雪より少しだけ学年が上だった頃の事だろうか。懐かしい。本当に懐かしい。

 あの時も、ヒーローがいたのだ。それも二人。一人は美雪の様に友達の事を思って行動をして、けれど結構な臆病者で。もう一人は、猪突猛進といった言葉が似合ってしまうくらいがむしゃらな元気者。

 ああ。戦隊ヒーローも時代を重ねるごとに強くなっていくけれど、美雪はまるで、その二人のヒーローを一つにした様な子だな。

「じゃあ、あとは勇気だけだな」

「ゆーき?」

「そう、勇気。さっちゃんにゴメンなさいをして、仲直りする勇気」

 そう。ヒーローには、勇気が必要だ。強さなんかより、派手な外見なんかより、勇気が大切なのだ。

 瞳を閉じて、しばし過去を振り返ってみる。色褪せたアルバムを捲る様に、記憶の底に沈んだあの思い出を瞼の裏に投射する。

 随分昔の事だ。

 他の事なんて、もうほとんど覚えてはいないけれど、しかしあの記憶だけは不思議と、しっかり心に刻み込まれている。

 思い出すと自然、鬱屈とした胸を覆う霧を払ってくれる、色鮮やかな思い出。

 膝の上に乗った小さな新米ヒーローに、少しだけ語ってあげようか。

 ちょうど、退屈をしていたところだ。時間は余りに余っている。


 二人のヒーローがいた。

 弱気な奴と、勝気な奴。

 それはそれは、お父さんがまだ小学生だった頃のお話。

 それはそれは、ちっちゃなヒーロー達の、勇気の物語――――――。



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