ずるい人
彼女がその人を好きになったのは、たぶん、最初からだったんだと思う。
本人はずっと否定していたけれど。
2006年の春。彼女は都内の広告代理店に入社して3年目だった。担当は飲料メーカーや化粧品会社のプロモーション。毎日が忙しく、終電を逃すことも珍しくない。社内には灰皿が置かれ、営業フロアには電話の音が絶えず、誰かが徹夜明けの顔でコンビニのおにぎりを食べていた。
そんな職場に、ひときわ目立つ男性がいた。
彼女の直属の上司。35歳。
とにかく、よく笑う人だった。
会議では誰よりも声が大きく、クライアントの前では場の空気を一瞬でつかむ。冗談を言って周囲を笑わせたかと思えば、企画の核心に触れると急に目つきが変わる。
「で、結局、誰に何を伝えたいの?」
彼はよくそう聞いた。
「きれいな資料を作るのが仕事じゃないよ。相手の心を動かすのが仕事だろ」
厳しい。
でも、不思議と嫌な感じがしない。
ダメなものはダメと言う。遠慮もしない。ただ、ダメ出しをした後には必ず理由を説明し、どうすればよくなるかまで一緒に考えてくれる。
「ここは違う。でも、着眼点はいい。もう一回やってみな」
その一言で、彼女は何度も救われた。
褒められたくて頑張っていたわけではない、と彼女は言っていた。
ただ、彼に認められたかったのだと思う。
彼の魅力は、仕事だけではなかった。
スーツの着こなしは派手ではないのに、なぜか目を引く。シャツの襟元や靴まできちんとしていて、香水も強くない。近くを通ると、洗いたてのシャツにほのかなウッディ系の香りが混ざったような匂いがした。
時計や鞄も高価なものを見せびらかす感じではない。
それでも、持ち物には彼なりのこだわりがあった。
お金の使い方にも余裕がある。後輩を食事に連れていくときも、変に恩着せがましくない。
「今日は俺が出すよ。次に後輩ができたら、君が出してあげればいい」
そう言って、会計を済ませてしまう。
ある金曜日、部署のみんなで飲みに行った帰りのこと。
二次会のカラオケで、彼は誰よりもはしゃいでいた。
普段はクライアントを相手に堂々と話す男が、90年代のロックを大声で歌い、サビになるとマイクを後輩に向ける。若い社員よりもテンションが高い。
ところが、翌朝の会議には誰よりも早く来ていた。
「昨日、騒ぎすぎたな。悪い悪い」
そう言って笑う。
彼女は、そういうところが好きだった。
大人なのに、少年みたいなところがある。
何でも知っているように見えて、知らないことには本気で興味を持つ。海外の広告賞の話を熱心にするかと思えば、最近流行っている携帯電話の着メロや、新しい音楽にも詳しい。
自分の世界を持っている人だった。
そして、その世界に人を連れていくのがうまかった。
彼女が彼を特別に意識したのは、あるプレゼンの夜だった。
大手化粧品メーカーの新商品キャンペーン。企画が二転三転し、クライアントからは何度も修正が入っていた。
彼女が担当した企画書は、最終確認で彼に差し戻された。
「これじゃ通らない」
いつもより厳しい声だった。
「でも、先方からはこの方向でと言われていて……」
「先方が言ったことを、そのまま形にするのが仕事じゃない。先方が本当に欲しいものを考えて」
彼女は悔しかった。
自分なりに頑張ってきたつもりだった。終電まで残って、休日も資料を作った。それなのに、彼は簡単に否定する。
黙っている彼女を見て、彼は少しだけ声を落とした。
「悔しい?」
彼女は小さくうなずいた。
「いいじゃん。悔しいと思えるなら、まだ伸びるよ」
そう言って、彼は椅子を引き寄せた。
その後、二人で深夜まで企画を練り直した。
彼は彼女のアイデアを否定するだけではなく、そこにあった小さな可能性を見つけて、別の角度から膨らませていく。
気づけば、最初とはまったく違う企画になっていた。
「ほら、こっちのほうが面白い」
彼は満足そうに笑った。
午前1時を過ぎていた。
ビルの外に出ると、タクシーを待つ間、彼が自販機で温かいカフェラテを買ってくれた。
「今日はよく頑張ったな」
その一言が、彼女には何よりうれしかった。
彼は女性社員にも人気があった。
他部署の女子社員が、わざわざ彼のいるフロアまで相談に来ることもあった。彼が参加する飲み会には、いつもより少しだけ華やかな顔ぶれが集まる。
それを見て、彼女は何とも言えない気持ちになった。
自分だけが特別ではない。
彼は誰に対しても親切で、誰とでも楽しそうに話す。
自信があるのに、偉そうではない。
威厳があるのに、近寄りがたくない。
その絶妙な距離感が、余計に彼を魅力的に見せていた。
ある日、彼女が他部署の女性社員と話していると、こんなことを言われた。
「あなたの上司、かっこいいよね。仕事できるし、ああいう人ってずるいよね」
彼女は笑ってごまかした。
「そうですか? 普通ですよ」
本当は、普通どころではなかった。
その日の帰り、彼がエレベーターの前で彼女を見つけた。
「お疲れ。今日、元気ない?」
「そんなことないです」
「そう? まあ、無理すんなよ」
たったそれだけ。
それだけなのに、彼女はその夜、なかなか眠れなかった。
彼には、少しだけ不器用なところもあった。
仕事では何でも器用にこなすのに、プライベートの話になると、急に言葉が少なくなる。
昔の仕事の失敗や、若い頃に苦労した話を、酔ったときにぽつりと話すことがあった。
華やかな業界で活躍しているように見えて、実際には何度も失敗し、悔しい思いをしてきたらしい。
「昔は全然ダメだったよ。自信なんてなかったし、人の何倍も働かないと追いつけなかった」
そんなことを、いつもの笑顔とは違う顔で話す。
彼女は、その横顔が好きだった。
完璧な人だと思っていた。
でも、そうではなかった。
努力してきた人だった。
傷ついても前に進んできた人だった。
だからこそ、今の余裕があるのだと思った。
秋の終わり、会社の創立記念パーティーがあった。
彼は珍しくジャケットに少し遊び心のあるポケットチーフを合わせていた。
「今日、なんか違いますね」
彼女がそう言うと、
「お、気づいた? たまにはね」
と笑った。
パーティーの終盤、彼女は彼と二人で話す時間があった。
「最近、どう?」
「何がですか?」
「仕事。楽しめてる?」
「はい。前よりは」
「そっか。よかった」
彼はグラスを片手に、いつものように軽く笑った。
それから、少し間を置いて言った。
「君はもっと自信を持っていいよ。自分で思っているより、ちゃんとできてるから」
彼女は返事ができなかった。
褒められたことがうれしかったのか。
自分を見てくれていたことがうれしかったのか。
それとも、ただ彼の声をもう少し聞いていたかったのか。
今となっては、よく分からない。
ただ、その夜、彼女は初めて思ったらしい。
この人のことを、上司としてだけではなく、一人の男性として好きなのだと。
結局、その恋がどうなったのかは、私も知らない。
彼が彼女をどう思っていたのかも分からない。
二人が付き合ったという話は聞かなかったし、彼女が告白したという話もなかった。
ただ、彼女はその後も仕事を頑張り、少しずつ自信をつけていった。
数年後、彼女自身も後輩を持つ立場になった。
ある日、後輩の企画書に目を通していた彼女が、ふと口にしたそうだ。
「ここは違う。でも、着眼点はいい。もう一回やってみな」
その言葉を聞いて、隣にいた同僚が笑った。
「それ、昔の上司の口癖じゃない?」
彼女も笑った。
「そうだったっけ」
本当は、よく覚えていたのだと思う。
好きだった人の言葉は、案外、長く残る。
恋が叶ったかどうかよりも、その人と出会ったことで、自分の世界が少し広がったこと。
知らなかった仕事の面白さを知り、少しだけ強くなり、以前より自分を好きになれたこと。
そういうものが、恋の後にも残るのかもしれない。
彼女が好きになったのは、上司だった。
でも、本当に惹かれていたのは、肩書きでも、経済力でも、仕事の実績でもなかったのだろう。
自分の人生を楽しみ、周囲を明るくし、厳しさの中にも優しさを忘れず、何歳になっても好奇心を持ち続ける人。
そんな大人の姿だったのだと思う。
そして、彼女は今でも、あの頃のことを話すときだけ、少しだけ楽しそうに笑う。
恋には、終わってからも消えないものがあるらしい。
それが何なのか、私はまだうまく言葉にできない。




