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サイノクニ

天国

作者: 斉藤周二
掲載日:2026/05/06

 どのぐらいここにいるんだろう、と俺は思った。三十分、もしかしたらそのぐらいはいるのかもしれない。指を組んだ両手は頭の後ろにあった。視界には浅緑色の鉄骨が見えていた。重い身体は傾斜に沿ってぐったりと寝そべっていた。背中には護岸ブロックの硬い凹凸を感じていた。膝は軽く曲げ、ハーフパンツのボタンは外していた。ジョギングシューズも湿った靴下も脱いでいた。微風が右から吹いていた。それは天国的な心地よさだった。

 地獄のような暑さだった。逃げ場のない暑さだった。正午過ぎの太陽は高く白く熱く、アスファルトは大気の熱をもうもうと照り返して俺を閉じ込めた。動きのない空気は排ガスの熱と臭気で澱み、一筋の涼を得られる木陰もなく,呼吸をするための寺も神社も公園もなかった。どこをどう走っているのかわからなくなっていた。どれだけペダルを踏み込んでも案内標識の表示は変わることがなかった。どこかの坂の陽炎の中を引っ越しのトラックの黄色いラインが右に過ぎていったことだけは、不思議と印象に残っていた。

 だが、と俺は思った。それはもう終わったことだ。俺は荒川に辿り着き、入間川を――。その後の思考は思い出せなかった。とにかく「橋の下だ」と思ったのだろう。俺は五時間走った自転車を土手の錆びた白い柵の脇に停め、慌ただしく斜面を降り、橋の下に入り、バックパックを放り出し、倒れ込むように護岸ブロックに寝っ転がり、深い息をついた。それは、天国的な心地よさだった。

 上尾の球場には辿り着けなかった。今頃は第三試合が始まっているのだろう。埼玉栄対正智深谷。いいカードだ。いい試合になるだろう。四年振りの野球観戦のつもりだった。バックパックにはスコアブックと三色ボールペンが入っていた。観られなかったことを悔やむ気持ちはなかった。それはもう川向こうの出来事だった。

 静かだった。人気はなく、橋の上を過ぎる車もほとんどなかった。アブラゼミの声は遠く小さくなっていた。左の叢では鶯が鳴いていた。静寂を乱すのは対岸で砂煙を上げるバイクの騒音だけだった。

 三十六度、三十八度、四十度。気温はどこまでも上がっていった。終わりが見えない、気が狂いそうな道のりだった。眉に皺を寄せ、口を力なく開き、額に垂れる汗を手で拭って切り、俺は走り続けた。脳は思考と言語を失っていき、投げやりな活力さえも失っていった。困惑、倦怠、苛立ち、嫌悪、無関心、危機感、焦り、怒り、呪詛、殺意。様々な負の感情が湧き上がって脳に登った。だが、と俺は思った。すべては過ぎた。手の痺れは消えた。世界が回る感覚も、目に入った汗のしょっぱい痛みも消えた。今はただ、安らかだった。

 風は頬に吹き、腕に吹き、綿のポロシャツを微かに動かして胸に腹に吹き、脛毛を繊細に揺らして吹いた。

 風は頸の後ろも冷やして過ぎた。恍惚とする意識の中で、温泉だ、と俺は思った。寒さの中を散々歩き、ようやく辿り着いた湯につかったときの、意識が遠くなるあの感覚。今生じている感覚が、まさにそれだった。天国だ。

 葉がかさかさと音を立てて流れ、護岸ブロックの角で止まった。俺は足の指を動かしてみた。指は確かに動いた。俺の足の指だった。ニックは、と頭の中で呟き、声を出して笑った。掠れた笑い声が橋の裏に響いた。確かにこの状況はニック的だった。

 誰かが来そうな気がして、俺は右を見た。誰も来なかった。どうして誰も来ないんだろう、と俺は思った。こんなに気持ちいいのに。こんなに自由なのに。

 唇がぱさぱさに乾いていた。ハーフパンツの膝が塩で白くなっていた。身体中に塩を感じていた。肌を擦れば、指先に白い塩の結晶がつくのだろう。舐めればしょっぱい、塩の結晶だ。

 家を出てから一度も尿をしていないことに、俺は気がついた。摂取した水分のほとんどすべては汗腺から溢れ、夏の大気の中に蒸発して消えた。四リットル、そのぐらいは飲んだだろう。最後に飲んだポカリスエットが、今は胃の中でたぷたぷと揺れていた。それもすぐに消えていく。二リットルのペットボトルを買っておけばよかった、と俺は思った。それでどうにか足りていたかどうかだ。今放尿をすれば、茶色くどろりとした尿が出るのだろう。

 汚れた黒いバックパックを蟻が這うのを、顔を傾けて眺めた。蟻、とニックは思った、と頭の中で呟き、ニックじゃねえよ、ニックいねえよ、と思って笑い、それから少し寂しくなった。ニックはもういなかった。行け、バッタ、と思った。バッタももういなかった。

 それから、意外な感情が胸に生じていることに気がついた。旅愁だった。遠くまで来て、今折り返しで、ここにいて、今から帰る。少し寂しくて、幸せだった。


 帰らなくてはいけない。だが、動きたくなかった。このまま眠ってしまいたかった。


 煙草を吸っていい、と俺は思った。今は吸っていい時間だった。重い身体をどうにか起こし、ポケットを漁り、湿ってよれた箱から煙草を取り出して咥え、フリントを擦った。火はなかなか点かなかった。風があるからだ。身体を捩じって風除けにして、ようやく火が点いた。口元でチリチリと葉が爆ぜる音がして、煙が渦を巻いて左に流れていった。草が白く揺れていた。車の音が遠く聞こえていた。羽根の両端を光らせながら、底の影が濃い飛行機が音を立てて飛んでいった。青い陰影を刻んだ密度の濃い雲が、空の底をゆっくりと動いていた。確かに夏だった。

 指先で煙草を揉み消し、吸殻を箱にねじ込んで、俺はもう一度身を横たえた。どうしてここにいるのかはわからなかったが、今ここにいることが自然だった。時間と空間と因果の隙間に、この天国はあった。小さな蝶が舞い、陽射しに灼かれる護岸ブロックに止まった。蝶の羽根が微かに震えるのを、俺はぼんやりと眺めた。


 橋の影の切れ目に、とんぼの淡い影が動いた。なにかが過ぎ、なにかが終わった。帰るのだ。俺は自然にそう思っていた。上体を起こせば、橋桁の向こうには叢と木々と空があった。向こう岸にはふたつの清掃工場が並び、その彼方には白く霞んだ塔とビルが見えた。さいたま新都心、そして大宮だ。

 祭りに行きたくなっていた。もちろん上尾に戻るつもりはなかったし、宗岡まで行くつもりもなかった。富士見市かどこか、帰路でなにかをやっていないだろうか。そんなことを考えた。それから、この先の祭りを思った。久喜、越生、秩父、そして熊谷。いずれにせよ、すべては四年振りだった。夏は始まっていた。

 汗で湿った靴下を履き直し、いくらかむくみが取れた足を、ジョギングシューズにねじ込んだ。空になったペットボトルをバックパックに、煙草とライターをポケットに突っ込み、バックパックを掴んで立ち上がった。膝が痛んだ。脚を伸ばし、塩をすり込むようなざらつきを感じながら日焼け止めを塗り直し、橋の陰を出た。光と熱が降ってきた。夏のざわめきが戻ってきた。

 護岸ブロックの凹凸の上を歩いた。腕やふくらはぎに陽射しが痛かった。自転車は相変わらず、太陽に灼かれながら土手に佇んでいた。乾いた音と砂煙を残しながら斜面の砂利を上がり、登り切る手前で思い切り足を滑らせた。うあっと声が出て、左膝に衝撃と皮膚を擦り切る痛みが走った。アスファルトについた掌が熱かった。

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