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不死刑—世界を救えば死ねるらしい—  作者: 茄子田わさび
第二章:万魔のラビリンス
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第38話:蠢く粘液

《Sideノエル》


 私は目の前の光景を疑っていた。

 認識した今なら、光球の明かりだけでも見える。

 

 無色透明──正確にはほぼ透明の粘液が、くちゃくちゃと音を立てながらゆっくりと蠢いていた。


 スライム。

 それは、迷宮のことをよく知らない私でも知っている魔物だ。

 

 その体を構成するのは超酸。

 触れたものをあっという間に溶かしてしまう悪夢のような存在。

 動きは非常に緩慢だが、代わりに物理・魔法の全てが効かない体質という難敵。


 唯一スライムを倒す手段はただ一つ。

 体のどこかにある小さな核を破壊すればいいだけ。

 しかしいくら斬ってもそのそばから再生する上に、その体の性質上武器がすぐに駄目になってしまう。


 曰く──出会ったら真っ先に逃げなければならない魔物。


 それがスライムだ。


「っ!」


 それを知っていた私はすぐに身を(ひるがえ)して逃げた。

 戦おうなんて考えるわけがなかった。

 だって私には魔法しか使えないのだから。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」


 全力で走っているせいで息がすぐに乱れてしまう。

 お腹の脇がキリキリと痛む。

 

 けれど、とにかく逃げなきゃ──


「きゃっ!?」


 もつれた足が絡まって転んでしまう。


 ──ずる、ずる


 背後からはあの粘着質な音。

 まさか……だって私、結構走ったのに。


 恐る恐る振り返って、私は納得した。

 そしてそれと同時に絶望の波が激しく押し寄せてくる。


 スライムは、人の形になっていた。

 不器用で不格好ながらも、右足、左足と確かに一歩ずつ私の方に向かってきている。


「嫌……嫌っ!」


 慌てて身体を起こし、再び走り出す。

 たまに振り返って確認すると、向こうはのろのろとした動きのはずなのに私との距離が一向に離されていない。

 

 このままだと、追いつかれる……!


 半ば悲鳴のような息切れを無視して、私は必死に走る。

 

 一瞬、最悪な光景が脳裏をよぎった。

 生きたまま、大量のスライムに体を取り込まれて溶かされる。

 

 そんな私の結末が──


 そんなのは絶対に嫌だ。


「≪水穿槍(アクシオラ)≫!」

 

 それはとっさの閃きだった。

 振り返りざまに放った魔法が水路の天井に命中し、大きな音を立てて崩れ落ちる。

 私とスライムの間とを、瓦礫(がれき)の山が分断してくれた。


 いくらスライム本体に攻撃が効かないからって、何も試さずにやられるわけにはいかないのだ。

  

 しかし、そんな喜びも束の間──


「嘘、でしょ…………」


 再び顔を前方に向けた私の視界に入ってきたのは、別のスライムの群れ。

 最悪だ。これで私は、前からも後ろからもスライムに挟まれてしまった形になる。


「っ……!」

 

 咄嗟に、横道に逸れて走り出す。

 後ろからは未だにべちゃべちゃと音がついてきているのが分かる。


 あの冒険者の人も、こんな気持ちだったのだろうか。

 

 怖い。ただ怖い。

 同時に、とても悔しい。


 結局、私は一人じゃ何もできないんだ。

 いつもヴァニさんやセスカさんに守られて、安全なところで何かをできたような気になっていただけなんだ。


 ……本当にそうだろうか。


 私は信じていたはずだ。ううん、今でも信じてる。

 ヴァニさんのことを。


 それに何度も何度も、私はあの人に言った。

 私は何があってもあの人の相棒だと。


 だったら、こんな弱い気持ちになるのは絶対違う。

 そんなこと、私がしちゃいけない。

 胸を張って、行動で示さなきゃいけないんだ。


 だから──


「≪瀑布葬・五重奏グラメルナス・クィンテラ≫」

 

 直後、杖の先から大瀑布(だいばくふ)の水圧が解き放たれる。

 

 以前、メルシエラさんに警告されたことは覚えている。

 もしも私が力加減を誤って魔法を使えば、街を丸ごと沈めてしまうかもしれないと。

 

 なら、それを狙ってやったらどうなるか?


 そう、さっき瓦礫(がれき)で足止めした時も思ったけれど、別に倒す必要なんてないんだ。倒せなくったっていいんだ。だって他にも方法はあるんだから。


 これが私の戦い方。

 スライムたちは大洪水に呑まれて遥か彼方へ押し流されていく。


 必死に走って逃げるより、こうした方がよっぽど楽だったことに気付いて、私は肩の力が抜けたのか水に濡れることもお構いなしにその場でへたり込んでしまった。

 

 でも、この時の私はスライムを遠ざけることにいっぱいいっぱいで忘れてしまっていた。

 メルシエラさんが私に口酸っぱく言ってくれていた警告を。


──『相手は自分の想定を必ず上回ってくる。それを頭の片隅に叩きこんで』

 

 だからだろうか。


 奇跡的に私の大洪水に巻き込まれなかった一体のスライムが、静かに私に忍び寄っていたことに気付くのが遅れてしまったのは。


 ──べちゃり

 

 その音にハッとして顔を上げると、私の目と鼻の先の距離にスライムがいた。

 腰をかがめて、私の顔をじっと観察している。

 けれどそこには人にあるはずの目も鼻も口もない。


 ただただ半透明な粘液が静かに揺らいでいるだけだ。


「…………あ」

  

 声にならない声が漏れる。

 今から立ち上がって走るのは間に合わない。

 それでも、なんとか距離を取ろうと尻もちをついたまま後ずさる。


「いや、来ないで、来ないで……!」


 ──ねちゃっ、ずるっ


 スライムは私が動くのと同じ分だけ、じわじわと近づいてくる。


 もしかして感情があるのだろうか。

 私が怯えるのを愉しんでいる……? そんなことはないはずだ。

 でも、そうとしか思えない。


 それより、このままだと──


「ノエルから離れなさい」


 次の瞬間、スライムの頭部が誰かの声と共に細剣(レイピア)で貫かれた。


 ううん、誰かじゃない。だってその声は──


「セスカさん!!」


 スライムはぶるぶると体を震わせ、そして形が留められなくなったのか水路に溶けて消えてゆく。どうやらあの一撃で核を破壊したみたいだ。


 そしてその後ろに立っていた女性が、肩にかかった髪を払いのける。


「ごめんなさい、遅くなったわね」

「う、うああああああああっ!」


 そう言って微笑むセスカさんを見た瞬間、私は感情が堪えきれなくなって泣きじゃくりながらその胸に飛び込んだ。

 彼女は一瞬困ったような声を出したけれど、すぐに優しく抱きしめ返してくれる。


「よしよし、怖かったわね」

「セスカさん、セスカさんっ!」


 本当に怖かった。

 もう何度も駄目だと思った。

 だけど、私は最後まで誰かが助けにきてくれると信じて諦めなかった。


 そうして私は、しばらくの間セスカさんの胸を借りて泣き続けるのだった。

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