第2章 諸行無常 その7
ゆかりは、小さく息を整えながら、来た道を引き返す。
肩にかけた鞄を握り直し、額にうっすら汗が浮かぶ。
風が止んだ。
蝉の声も、いつのまにか遠ざかっているように感じる。
歩道を進み、校門の前へと差しかかったときだった。
事故現場の前に、ひとりの男が立っていた。
作業服でも制服でもない。
くすんだ色のシャツと、色落ちしたジーンズ。
男は、炎天下にもかかわらずじっと動かず、ただ前を見つめていた。
最初は通行人かと思った。
けれどその視線は、あきらかにゆかりへ向けられていた。
「……おかえり、ゆかり」
粘ついた声が、空気を穢すようにゆらぐ。
ゆかりは、立ち尽くした。
肌が粟立ち、喉の奥がきゅっと締めつけられる。
「……え?」
男が三歩、こちらへと踏み出す。
「ほら、ただいまは? ……僕、ずっとここで待ってたんだよ? ひどいなぁ……」
首を傾け、湿った口先を舐める。
その仕草が、ゆかりの胃をねじる。
足の指が靴の中で強張る。心が、底冷えするようだった。
「……あなた……誰?」
声がうわずり、かすれる。
「え、なにそれ。冗談でも笑えないんだけど」
男の笑みが消え、より大きく、狂気じみて歪む。
「今日もさ……グラウンドで見てたんだよ。風に揺れてた君の髪、汗で濡れた首筋……。そして――あの時だよ、ボトルの水を胸にかけた時」
頭の奥で、何かがパキンと弾ける音がした。
「白いシャツが、ピッタリ張りついてさ……。ほら、透けてたよね? ブラの色も……全部。僕、ちゃんと見てたよ」
ぞっとするほど甘ったるい声で、男は続けた。
「ビッチは嫌いなんだけど……ゆかりは特別。僕のために、あんなサービス……他の誰にも見せない顔、僕だけに見せてくれたんだよね? うん、そうだよね?」
背中を撫でた視線。
記憶が追いつき、恐怖が形を持つ。
「……気持ち悪い」
その言葉に、男の目が一瞬だけ細まる。
「ひどいこと言うなぁ……」
喉の奥から掠れたような声が漏れたかと思うと──
「ひどい事言うなァ!!!」
怒鳴り声が空気を割った。
男の手が突然伸び、ゆかりの顔に襲い掛かる。
ゆかりは咄嗟に鞄を盾にし男の拳を受け止めた。
ただ男女の肉体の差はひどく、彼女を壁に叩きつける。
男は倒れたゆかりの腕を掴み、引き寄せ、力の加減などお構いなしに、事故で折れた電柱へと叩きつける。
ゆかりの背中が擦れ、鋭い痛みが走る。
吐き出せない息が喉の奥でせき止められ、目の前が揺れる。
「カス! 分かれよ! バカが! 他の男になんか色目使ってさァ! 僕を弄びやがって! バカ! バカ! ばーーーか!!」
怒声と共に唾が飛び散る。
黄ばんだ歯、膨れ上がった鼻孔。
焦点の合わない目は、欲望と妄執で濁りきっていた。
ゆかりが崩れた体に力を込めようとした瞬間――
男の革靴が、容赦なく肩を踏みつける。
ゴリ、と骨が軋む音。
痛みが背骨を貫き、嗚咽が漏れる。
「ふひ、ふひひっ!」
腐った獣のような息が、夏の空気に絡みつく。
汗と脂で湿った顔が、ゆかりを覗き込む。
「なんであいつなんだよ……! お前は僕だけを見てればよかったんだ……!」
罵声と共に、靴底が振り下ろされる。
ゆかりは咄嗟に腕を顔の前に差し出す。
細い腕が盾となり、革の硬い感触が皮膚を裂く。
「違うやつばっか見て……僕を挑発して……!」
もう一度。
今度は手首を狙い、踏み抜くように。
か細い悲鳴がゆかりの喉から漏れ、耳の奥で血管が炸裂する音が響く。
夕焼けと痛みが混ざり、景色が滲む。
「ずっと、僕だけを愛していたのに……! お前は僕と笑って、僕と暮らして、僕が無いと生きていけないくせに!!」
言葉を吐くたび、革靴が振り上げられ、落ちてくる。
顔を庇う腕が何度も踏みつけられ、痺れが指先から這い上がる。
「お前なんかに……選ぶ権利なんてないんだよ!!」
男の声は叫びではなく、呪いだった。
焦げた感情が、唾と汗の熱気に混ざり、空気を焼く。
「僕だけが、愛してあげられるんだッ……!」
ゆかりの腕は震えながらも、決して顔から離れなかった。
革靴がその腕を叩きつけるたび、土埃が舞い、鼓膜の奥で地面が脈打つように響いた。
――そのときだった。
「……てめえ、なにやってんだ!!」
怒声と同時に風を裂く音。
ドゴッ!!!
楓の拳が、男の側頭部を思いきり打ち抜いた。
男の顔が歪み、吹き飛ぶ。
踏み込んだ足で間を詰め、さらに前蹴りがみぞおちを貫いた。
「お前死んだぜ」
呻き声すら出す暇もなく、男の鼻を粉砕するもう一撃。
ぐしゃりという音と共に、男の顔面が真っ赤に染まり、身体が地面に崩れ落ちた。
それでも楓は止まらない。
胸ぐらを掴み、何発も、何発も、無言のまま拳を叩き込む。
アスファルトに叩きつけられる打撃音が、まるで誰かの心拍のように規則的に響いた。
やがて、男は動かなくなった。
顔は血と泥で原形を留めず、身体もぴくりとも動かない。
楓は大きく息を吐き、ゆかりに顔を向けた。
「……もう大丈夫だ。すぐ助け呼ぶから……」
その瞬間だった。
血の泡を吹き、震える腕で男がひび割れた電柱から露出した鉄筋を掴んだ。目は血走り、命の最後の力を振り絞るように。
「死ね……!」
割れて緩んだコンクリートの隙間から、鉄筋がゴリゴリと軋みながら引き抜かれた。
濁った衝撃音が、夕暮れの空気を裂く。
コンクリートの粉塵が舞い、夕焼けの光にきらめいた。
楓の身体がぐらりと揺れ、膝をついた。
額から流れ落ちる血が視界を滲ませ、恐怖と痛みが心を締め付けた。
その滴が、まるで時間を止めるように、ゆっくりとアスファルトに染み込んだ。夕暮れの静寂が、男の叫びを飲み込むように響いた。
ゆかりの視線が楓の血に固定され、喉で声が詰まる。
「楓……!」
ゆかりの叫びは、血のように赤い夕焼けに溶け、かすれた空気の中に消える。
楓の重さが彼女を地面に縫い付け、逃げることも抵抗することもできない。
心臓の鼓動が耳の奥で脈打ち、陽翔の名を呼ぼうとしても、唇は震えるだけで言葉にならない。
「まただ……! また別の男と……イチャイチャしやがって……!」
男が、血と泥に塗れた顔でゆかりを見下ろす。
目の奥は爛れ、歯の隙間から漏れる甲高い笑いが、夏の空気を穢す。
汗と血が混じる息が、ゆかりの顔に吐きかけられる。
鉄筋を握る手が震え、夕焼けに鈍く光る。
「もういいや」
男が鉄筋を振り上げる瞬間――
「――やめろォ!!」
怒りに震える陽翔の声が、空気を切り裂く。
コンビニから駆けてきた陽翔の瞳は、怒りと恐怖で燃えていた。
手に握った缶ジュースを、ピッチャーのフォームで力任せに投げる。
アルミ缶が宙を切り、鋭い風音を立てて不審者の後頭部に直撃。
ゴンッ!
鈍い衝撃音が、アスファルトの地面に染み込んだ。
男の体が前のめりに崩れ、半歩遅れて鉄筋が手を離れ、乾いた音を立てて地面に跳ねた。
「ふひ……」
笑いとも、嗚咽ともつかない声が喉奥から漏れたが、それもすぐに潰える。
唇の隙間から、泡立つ赤が吹き出し、コンクリートをゆっくりと染めていく。
夕焼けの光が、まだ熱を帯びた鉄筋に反射し、ゆかりの瞳をかすかに刺した。
楓の身体が重くのしかかっていた。制服の布越しに、汗の匂いが微かに漂う。
生きている――その確信だけが、まだ心の奥にかろうじて残っていた。
けれど、少しずつ腕の力が抜けていくのを、彼女は確かに感じていた。
「楓が……楓が……陽翔、助けて……」
声にならない声が、唇の動きだけで漏れた。
呼吸のたびに胸が上下し、乾いた空気が肺の奥に突き刺さる。
陽翔は、ゆかりの肩を抱き寄せると、手早く楓の脈を探った。
「楓! しっかりしろ!」
額に汗を滲ませたまま、陽翔はポケットからスマートフォンを取り出す。
その指は震えていた。
「救急車! 早く! 校門前の事故現場、怪我人が出ています!」
言葉を吐くたび、陽翔の喉が上下し、全身から熱が噴き出していた。
その横で、ゆかりは楓の体に手を添えたまま、ただ揺れる夕焼けを見ていた。
遠くで、サイレンの音が聞こえ始める。
けれど、それが届くまでの時間は、永遠に感じられた。
夏の夕暮れは、なおも赤く、焼け焦げた空気を街に垂れ流していた。
どこかで風鈴のような金属音が響いた。落ちた鉄筋が、風に転がったのかもしれない。
その音に重なるように、陽翔のスマホに別の通知がひっそり届く。
朱音からのメッセージ。
「今日、ありがとう。ちょっと疲れただけみたい。明日、またいつもの所で待ってるね!」
蝉の声が途切れた静寂の中、まるで誰かの視線を映すように、鈍く光っていた。