第2章 諸行無常 その3
グラウンドの片隅。
陽翔は額の汗をユニフォームの袖でぬぐい、ぼんやりと空を見上げていた。
野球部の練習が一段落し、彼にとって束の間の休息だった。
青い空に綿菓子のような雲が浮かび、蝉の声が夏の熱気を揺らしている。
ふと、視線の端に人影を見つける。
グラウンドの端の木陰に、制服姿の女子生徒が座っていた。
陽翔は思わず目を細め、その姿に見覚えがあることに気づく。
「冴〜!」
声をかけると、冴は小さく肩を震わせた。
顔を伏せてたが、ちらりと目が合う。
陽翔は軽く笑いながら、気さくに歩み寄った。
「なにしてるんだ、こんなところで?」
「……その……陽翔くんが、いたから……」
冴は声をひそめ、うつむいたまま答える。
その声はか細く、夏の喧騒に溶けるようだった。
「そっか。じゃあ、こっち来たら? スポドリもあるし」
そう言って、陽翔はベンチのあるグラウンドの内側を指さす。
冴は一瞬迷うように視線をさまよわせ、それからそっと頷いた。
慎重な足取りで陽翔の後ろについてくる彼女の姿に、自然と静かな距離感が生まれる。
ベンチに腰掛けると、冴はスカートの皺をそっと整え、控えめに座る。
陽翔はスポーツドリンクのボトルを手に取り、軽く振ってから彼女に差し出した。
「はい、どうぞ」
「……ありがとう」
蝉の声が響く静かな空間に、二人の吐息だけがほのかに混じる。
やがて冴が、ぽつりと口を開いた。
「……野球って、小説にも、たまに出てくるんだよ。比喩として、だけど……」
「へえ、そうなんだ?」
ひと呼吸の間を置いて、冴はぽつりと続ける。
「うん。たとえば……“人生は、終盤に差しかかった試合みたいなものだ”とか。誰かがエラーすると、もう取り返しがつかない……」
「なるほどな……」
陽翔が小さく頷くと、冴の言葉は少しずつ加速する。
「野球って、単なるスポーツ以上のものを象徴してるっていうか……人生みたいに、予測できないし、でも一瞬の判断がすべてを決めたりする。だから小説の中でも、そういう迷いとか賭けみたいなものの比喩に使われてて……」
「おお……なんか、すごい深いな……」
「哲学的っていうのかな……たとえば、選択と結果の関係とか……行動する前と後で、世界が変わって見えることって、よくあるでしょ……? そういう感覚が……好き、なんだと思うぇっ」
陽翔の手が、そっと彼女の頭に触れていた。
「冴って、やっぱり頭いいな」
冴は一気に顔を赤らめ、慌てて両手で頬を押さえる。
「ご、ごめんね……話しすぎちゃった……」
「そんなことないよ。面白かったって」
陽翔の気さくな言葉に、冴は心臓が跳ねるのを感じる。
慌ててうつむき、スカートの端を指でいじる。
その小さな仕草に、彼女の照れと好意がほのかに滲んでいた。
そして――背後に、気配。
「……ただいま」
ゆかりだった。
着替えを終え、タブレットを胸に抱いたまま、ふたりの間に立っていた。
その表情は柔らかく微笑んでいるが、声の端にはわずかな硬さが滲む。
「……冴、どうしたの?」
冴は慌てて立ち上がり、制服の裾をそっと整えると、小さく会釈する。
「こ、こんにちは……生徒会、お疲れ、さま……」
「……うん。ありがと」
ゆかりの返事は短く、どこか言葉の間に隙間があった。
彼女の視線は冴の顔を捉えず、ほんの一瞬、陽翔の方へ流れる。
だが、目は合わない。
それでも陽翔には分かった。視線が交差しないのに、どこか肌で感じるような、微かな熱があった。
冴は胸元で指をそっと組み、気まずそうに視線を落とす。
ゆかりはタブレットを抱え直し、ゆっくりと冴の隣まで歩を進める。
冴の横を通り過ぎる瞬間、ほんの一瞬、歩みが止まる。
その刹那、冴は顔を上げられず、ただうつむいたままだった。
「……じゃあ、また。陽翔くん……バイバイ」
冴は小さく呟き、ぎこちなくスカートの端をつまみながら、グラウンドの外周を回るように去っていく。
その背中は、陽射しの中で小さく揺れていた。
ゆかりは冴の後ろ姿をじっと見送るでもなく、陽翔の隣に腰を下ろす。
タブレットを膝に置き、目元にほのかな曇りを湛える。
「……冴と何話してたの?」
「え? ……なんか野球の話。冴ってすごいよな。いろいろ考えててさ」
陽翔の気さくな声に、ゆかりは少しだけ目を伏せる。
そして、静かに言葉をこぼす。
「……そうだね。冴、頭いいよね。優しいし」
風が吹き抜け、蝉の声が再び響き始める。
グラウンドの向こうから、部活の掛け声が遠く聞こえてくる。
ふたりの間に流れる沈黙は、決して重くはなかった。
だが、どこか柔らかな緊張感が漂っていた。
ゆかりがふっと息を吐き、タブレットを手に立ち上がる。
「陽翔の出番、まだあるか聞いてくるね」
彼女はいつもの柔らかい笑顔を見せる。
だが、その笑顔はどこかぎこちなく、目尻に微かな力が滲んでいた。
「うん、頼んだ」
陽翔はベンチに背を預ける。
夏の陽射しが、彼女の背中を静かに照らす。
グラウンドの片隅、冴が去った木陰が、蝉の声に揺れて淡く滲んでいた。
しばらくすると、遠くからゆかりの声が響いてきた。
「陽翔! 助っ人終わって着替えて大丈夫だって! それと、このあと生徒会室来てくれる? 朱音が早退したから、手伝ってくれると助かるんだけど!」
陽翔はベンチから立ち上がり、「了解!」と軽く声を返す。
ユニフォームの砂を払い、いつもの軽快な足取りで更衣室へ向かう。
ただ、胸のどこかに、ゆかりの笑顔や冴の言葉が残した微かな熱があった。