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第2章 諸行無常 その1

 蝉の声が、息をつく暇もなく降り注いでいた。

 グラウンドの土は陽射しに焼かれ、白く乾ききっている。

 空気は熱を含み、じっとしているだけで背中に汗がにじむ。

「ファーストカバー入れ!」

 キャッチャーマスクの奥から飛ぶ、乾いた声。

 グローブの音に重なって、硬球がミットに吸い込まれる音が響く。

 ユニフォーム姿の陽翔が、内野を駆け抜けて一塁を踏み、砂を巻き上げて止まった。

「ナイス日向先輩! マジ助かります!」

「まだ先輩ってほどじゃねえけどな!」

「いやいや、先輩マジすげぇっす」

「よせやい」

 陽翔はグラブを脇に挟み、照れ笑いを浮かべて頭をかく。

 額に浮かんだ汗が前髪を濡らし、ぴたりと張りついていた。

 だが、息はほとんど乱れていない。

 長身の体に程よくついた筋肉は、炎天下でもその動きの切れを鈍らせなかった。

 陽翔が招集されたのは、昼休み明けの急な呼び出しだった。

 正投手が足を捻ったと聞き、代役として練習に駆けつけたのだ。

 彼が日頃から複数の部活に助っ人として顔を出しているからこその芸当だった。

 グラウンドの隅では、監督が腕を組み、静かにその様子を見守っている。

 スタンド席の一角。

 そこにゆかりがいた。

 白い日傘で夏の陽射しを防ぎ、膝に載せたタブレットの画面には議事録と書かれたドキュメントが開かれている。

 だが、指先は動かず、画面の文字はいつからか同じ行のまま。

 彼女の視線は、グラウンドの一点――陽翔の背中に注がれていた。

 汗に濡れたユニフォーム、泥に汚れた膝、そして機敏に動くその姿。

 舞い上がる砂ぼこりが、陽翔の輪郭を金色の光で縁取る。

「……やっぱり、すごいな、陽翔」

 風に流された呟きは、蝉の声にかき消された。

 だが、その声色には言葉以上の深い何かが宿っていた。

 ゆかりは目を細める。

 ボールが風を裂き、ミットに吸い込まれる硬質な音が響く。

 その一挙手一投足に、彼がただの助っ人ではないことを、誰もが感じていた。

 ――夏が、肌を刺す。

 だが、動き続ける陽翔の身体には、その熱がまるで後光のように似合っていた。

 ベンチに下がった陽翔は、ユニフォームの袖で額の汗を拭う。

 肩越しの空はまばゆいほど青く、遠くの雲が綿菓子のように膨らんでいる。

 土の匂いと汗の匂いが、焼けた空気の中に溶けていた。

「はいっ、スポドリ!」

 笑顔と一緒に差し出されたボトル。陽翔が受け取ろうとした瞬間、ゆかりは彼の手元を見て目を丸くした。

「うわ、陽翔、手めっちゃ汚れてるじゃん! ちょっと、ふた開けてあげるね!」

 慌ててキャップを回したその瞬間、勢い余って中身が飛び出した。

 透明な液体が空中で散り、ゆかりの胸元を派手に濡らした。

「あっ――!」

 白いブラウスが吸い込み、彼女の胸元に張りつく。

 陽翔が息を飲んだその瞬間、空気がぴんと張りつめる。


 ――かさっ


 誰もいないグラウンドの隅で、木の枝が擦れるような音が二人の空間を包む。

「あちゃちゃちゃ! どうしよう、めっちゃ濡れちゃった!」

 ゆかりはブラウスをパタパタとあおいだが、濡れた布地は離れようとせず、かえってその輪郭を際立たせていた。

 陽翔の視線がふと吸い寄せられ、彼は慌てて顔を逸らす。

「もう、どこ見てんのー?」

 ゆかりが目を細めて笑う。からかいの裏に、微かな甘さが滲んでいた。

「ば、ばかっ! 知らねえよ!」

 陽翔は顔を赤らめ、ボトルをひったくってごくごくと飲んだ。果汁の甘さが喉を滑る。

「ったく、ちゃんと開けろよな!」

「えー」

 ゆかりは肩をすくめて笑い、タブレットを胸に抱えた。

 濡れたブラウスを気にしながらも、その笑顔にはどこか誇らしげな光が宿っていた。

「ちゃんと議事録に『陽翔、ドリンクこぼされて文句言う』って書いとくからね!」

 タブレットを掲げる仕草で笑うゆかりに、陽翔も吹き出す。

 夏の空気に、二人の声が心地よく溶け込んでいった。

 ゆかりがブラウスの濡れた部分をタオルで拭きながら言う。

「いつも思うけどさ、陽翔ってほんとどの部活でも活躍できるよね。あたし、運動とか壊滅的だから、めっちゃ尊敬するよ。監督も頼りにしてたし!」

「活躍ってほどじゃねえよ。ピッチャーが足やって、人足りなくなっただけだし。俺じゃなくてもよかったんだって」

「でも、呼ばれたのは陽翔だったじゃん。ちゃんと見てたよ、あたし」

 陽翔が肩をすくめると、彼女はふっと小さく笑った。

「ま、頼りにされるのは悪くねえけどな。ゆかりだって、生徒会で真面目に頑張ってるし、かっこいいと思うよ」

「え、か、かっ――もう、そういうの急に言わないでよ!」

 顔を真っ赤にしてタブレットを抱えるゆかり。

 その笑顔の奥に、一瞬だけ、何かを飲み込むような影が差した。

「いや、ほんとだって。ゆかりのそういうとこ、ちゃんと見てるやついると思うぜ」

「もう、ほんとにやめてよ……そういうの、ズルいんだから」

 ゆかりが陽翔の肩を軽く叩く。その仕草には、信頼と、微かな期待が滲んでいた。

「――よっ、陽翔!」

 背後から、元気な声が割り込む。

 振り返れば、泥の跳ねたユニフォーム姿の楓が、サッカーボールを片手に現れた。額の汗が陽光にきらめく。

「なんだ、お前もこっち来てたのか」

「おう、試合形式の練習! てか、マジで今日暑くね? ぶっ倒れそう!」

 楓はボールを足元で軽く転がしながら、ちらりとベンチの方へ目をやる。

「おっスポドリじゃん、おれにもくれよ!」

 楓の視線が、ゆかりの方へと静かに止まる。

「ほらよ」

 陽翔がスポーツドリンクを投げる。

 楓は片手で受け取ったが、そのまま黙ってラベルを見つめる。

 数秒の沈黙のあと、ふいに口を開いた。

「……やっぱ、いーわ。そういや、うちのコーチにスポドリも禁止されてたんだったわ」

 軽く笑って、ボトルを陽翔に投げ返す。

「んじゃ、練習戻るわ。またな! 終わったらアイスでも食いに行こうぜ、陽翔!」

「奢りなら考える!」

「ばーか」

 ボールを抱えて走り去る楓の背中に、短い笛の音が追いかける。

 ゆかりは小さく息を吐き、陽翔のほうに目を戻した。

「楓も、大変そうだよね」

「暑い中、ストイックだよなー」

 陽翔がボトルを軽く振ると、ゆかりもつられるように微笑んだ。

 その笑みを残したまま、ゆかりは立ち上がる。

「ちょっと着替えてくるね」

 ゆかりは陽翔に軽く手を振り、グラウンドの端にある仮設更衣室へ歩き出す。


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