第1章 電光石火
朝の光はまだ柔らかく、薄く曇った夏の空を通り、カーテン越しに部屋へ差し込む。
だが、いつもなら響く目覚まし時計の音は、今朝に限り静寂に呑まれていた。
代わりに聞こえるのは、リビングから漏れるテレビの低くざわめく音。ニュースキャスターの声が断続的に響く。淡々とした語り口だが、内容はどこか重い。
「市内で未解決の事件がまた一件――」
「不穏な動きが続き、市民の不安が高まり――」
「原因は依然として調査中で――」
遠い世界の話のようだが、部屋の空気に冷たい影を落としていた。
そんな中、寝床にいた日向陽翔が突然跳ね起きる。
汗ばんだ肌がシーツに擦れる音がかすかに響く。
「やばい、遅刻する!」
寝ぼけ眼で周囲を見回し、焦りが胸の奥から湧き上がる。
「なんで起こしてくれなかったんだよ!」
寝ぼけと苛立ちが混じる声が、家中に響いた。
「起こしたわよ! 何度も声かけたでしょ!」
キッチンから母親の声が反撃する。少し疲れた響きに温かみが滲む。
父親は黙々と朝食をとっている。テレビの明るい画面が無表情な横顔を照らし、焼けたパンの香りと淹れたてのコーヒーの匂いが漂う。
「ちゃんと食べていきなさい。何も食べずに出るなんてダメよ!」
だが陽翔はテーブルを素早く横切り、トーストを片手に掴むと鞄を手に玄関へ駆け出す。
「はぁ」
母親の呟きには呆れと愛情が混じっていた。
玄関のドアが重く閉まる音が夏の朝の静寂を破り、陽翔の足音がアスファルトに響く。遠くで蝉が短く鳴き、湿った空気がすでに熱を帯び始めていた。
照り返しが朝から容赦ない。靴底越しに伝わる熱が、じわじわと身体を温める。遠くの景色は陽炎に揺れ、ぼやけて震えていた。
コンビニの前を通り過ぎると、冷気が首筋を一瞬撫でた。
次の瞬間――
キィィィィッ!!
背後から鋭いブレーキ音。陽翔は反射的に足を止め、踵をひねって体をかわす。
銀色のママチャリが鼻先をかすめ、風を切って突っ込んでくる。タイヤが地面を擦り、車輪の軌跡が空中に線を引くように過ぎる。ママチャリは速度を落とさず遠ざかり、乗っていた女子高生の声だけが響く。
「ごめんなさーい!」
陽翔は立ち尽くし、口の端に咥えたトーストをぐっと噛む。
「……あぶね」
呆れたようにつぶやき、気にも留めず歩き出す。
交差点に差し掛かると、赤信号に変わる直前、エンジン音が獣のように唸り、白い車が強引に突っ込んでくる。タイヤがアスファルトを引っ掻いた。金属が引き裂くような悲鳴を上げ、路面に黒い矢印のような痕を残す。
陽翔は一瞬眉を寄せ、軽く身を引く。風を避けるような自然な動きで車をやり過ごす。
「す、すみませんっ! ほんとすみませんー!」
開いた窓から焦った声。フロントガラス越しに見える中年男性の手が、ハンドルを握りながら震えている。
陽翔はちらりと振り返り、肩越しに軽く手を振る。
坂道を登る途中、右手には鉄骨の骨組みだけの工事現場。鉄パイプを叩く音が断続的に響き、重機のモーター音が地面から伝わるように唸る。
カン――カン――ゴォォォ――ガン――
突如、頭上から重い音。鋭い風圧が耳を打つ。陽翔はすっと足を止め、一歩下がる。長い金属のパイプが地面に落ち、粉塵がふわりと舞う。埃っぽい匂いが喉に刺さる。
「兄ちゃん! 大丈夫か!? ケガしてねぇか!?」
ヘルメットを被った作業員が三階の足場から身を乗り出し、青ざめた顔で叫ぶ。
「大丈夫っす、問題ないっす」
気にも留めず片手を挙げ、歩き出す。
まるで落ちてきたのがただの葉っぱのよう。陽翔にとっては日常の景色にすぎない。アクシデントを縫うように軽やかに避け、歩みを止めない。風が吹くたび、制服の裾がパタリと揺れる。
そして坂の先。そこに、彼女は立っていた。
夏の風に逆らい、ふわりと舞う髪を片手で押さえる。真っ直ぐ立つ姿は、朝の喧騒とは対照的に静かで、まるで絵画のよう。
制服のリボンはきちんと結ばれ、瞳には涼しげな光と、かすかな笑みが浮かぶ。
「――おはよ」
白鷺朱音の声は、まるで涼やかな風のように響いた。陽翔は口に咥えていた焼きたてのパンを慌てて飲み込み、息を整えながら笑う。
「おはよ!」
ふたりの挨拶は、どこか少しだけ大げさで、けれどそのすべてがこの整いすぎた夏の朝に、ぴったりと嵌まっていた。
陽翔は少し汗ばんだ額を拭いながら、今朝の出来事を話し始める。
「なあ、今朝はマジでやばかったんだ。自転車がぶつかりそうになってさ、工事現場でも危なかったし……」
朱音はくすくすと笑いながら、真剣に耳を傾ける。
「でも、陽翔が無事でよかった」
その会話は軽やかに続き、ふたりの間に心地よい距離感を作り出していた。
やがて、坂道の向こうから獅堂楓と東雲ゆかりが姿を現す。
楓は腕を組み、少し眉をひそめながらふたりを見つめる。
「おいおい、今日も夫婦みたいに仲良く登校してんな」
陽翔は少し赤面しながらも苦笑い。朱音は目を細めて小さく笑った。
ゆかりはそんなふたりを横目に言った。
「そういえば、今朝のニュースで不審者が出てるって。誰かと一緒に歩いたほうがいいみたいだよ」
その言葉に楓が軽くニヤリと笑い、陽翔の肩を軽く叩く。
「まあ、ナイト役はお前くらいしかいねぇよな、陽翔」
「や、やめろよ、よせやい」
陽翔の様子を見て、ゆかりは微笑みを含んだ視線を向ける。
そんなやりとりをしながら、四人は笑い声を響かせ、校門を抜けた。
四人が通う千山学園は、小高い丘の上にある。
一見するとどこにでもあるような、淡いクリーム色の壁と三階建てのコンクリート校舎だが、窓枠や壁の厚さ、扉の重厚感などには妙な存在感がある。
大会でも使用される広々としたグラウンド、観覧席付きの体育館、さらに通年利用できる施設内プールまで備えたこの私立校は、設備の充実ぶりでも知られていた。
グラウンドからは、朝練を終えた運動部の掛け声が残響のように漂ってくる。
四人は昇降口でそれぞれの下足箱に向かい、少し足を止めて上履きに履き替えた。
そのまま四人は一緒に階段を上り、同じフロアへと向かう。
そのフロアには1年A組、B組、C組の三つのクラスがある。
「じゃあ、また昼休みにね」
ゆかりがそう言いながら軽やかに手を振り、自分の教室である1年A組へと向かっていく。
陽翔、朱音、楓の三人は同じ1年C組の教室へ、並んで歩いて向かった。
教室に入ると、すでに何人かが席についていて、
「おはよう」「今日、めっちゃ暑いな」
――そんな会話がぽつぽつと飛び交い、チョークの音と混じって朝が始まる。
窓際の席では、陽射しが机にゆらゆらと木漏れ日を落としていた。
陽翔は自分の席に腰を下ろし、窓の外に目をやる。遠くの木々が陽炎に揺れていた。 チャイムが鳴った。一限目は社会の授業。だが、今日は教科書もノートも必要ないらしい。
教壇には普段使わない大型のモニターが置かれている。
担任が淡々と出欠を取り、短く告げた。
「今日は視聴学習だ。集中して見てくれ」
カーテンがゆっくり閉まり、陽射しが一本ずつ教室から消えていく。教室の空気が暗くなり、夏の蝉の声だけが窓の外に響く。
モニターが点灯する。誰もが内容を知らされない視聴授業。
異様な静けさに、笑い声もおしゃべりも途絶えた。
黒い画面に、広島の空が映し出される。
青空を背景に、戦闘機がゆっくり旋回する。
次の瞬間、強烈な閃光が映像を白く覆う。
白黒なのに、視線の奥がチリチリと焼ける。画面から熱が滲み出るようだ。
街が崩れ、炎が波のように押し寄せる。建物の影が焼き付き、人々が逃げ惑う。声なき叫びが画面を貫く。
まるで今、どこかで繰り返されているような現実感だった。
映像は暗転し、ヨーロッパ戦線の塹壕、ベトナムの密林、湾岸の砂漠が断片的に現れる。
戦車の砲塔、泥にまみれた兵士、母を失った子の背中。
言葉はないが、すべての情景が雄弁に語る。
教室の空気が重くなり、誰もが息をひそめる。時間が溶けるように過ぎる。
再び映像が切り替わる。モノクロの長崎の街。
川が蛇行し、山に囲まれた、整然と並ぶ建物。誰もが何も知らずに暮らす日常。
そこへ、焼けるような閃光がすべてを覆う。
次に映ったのは、無音の廃墟だった。
がれきの間に立つ母親、焼け爛れた校舎。
そして――画面の中央に、ひとつの人影が現れる。
少女だった。
煤にまみれ、ぼろをまとい、無表情な瞳がこちらをまっすぐ見つめる。
だが、それはただの少女ではなかった。
天が裂けた。
音もなく、彼方からそれが降りてくる。
無数の意識が織りなす光の帳が、蜃気楼のように揺らめく。
灰の霞、夜の海、血や涙――色は絶えず滲み、混ざり合う。
その輪郭は、畏れと願いが溶け合った影。
無数の顔――老いた者の眼差し、笑う者の口元、燃え尽きた者の絶望が浮かんでは消える。
名も持たぬ消滅の物語を、人の想像が織りなした幻影だ。
半透明の衣が揺れ、意味を持たぬ詩や印が流れている。
触れれば冷たく、だが遠い記憶のような温もりを宿す。
それが舞い降りる瞬間、世界は止まる。
蝉の声も、空調の音も、誰かの呼吸さえも消える。
教室の空気が粘り気を帯び、生徒たちの指先が無意識に震える。
陽翔の背筋に冷たいものが走り、胸の奥で重いものが蠢く。
ソレだけが、そこに在った。
陽翔は画面から目が離せない。
何かを思い出したわけではない。だが、心の奥で「知っている」という感覚が広がる。
恐ろしく、美しく、すぐそこに在る。
今、この教室の外に、それが立っていてもおかしくない。
映像が終わった。
黒い画面が残り、空調の音が教室に戻る。
誰かの息が揺れたその刹那、
「……っ」
朱音の体がふらりと揺れ、机に突っ伏すように崩れた。
「朱音っ!」
陽翔は即座に身を起こし、朱音の肩に手をかける。
肌は汗ばんで冷たく、脈は不規則に震えていた。
ドンッ――!
窓の向こうから爆音が響く。
教室がぐらりと揺れた。錯覚ではなかった。
生徒たちがざわつき、誰かが窓際へ駆ける。
「今の音……」「爆発?」「外で何か……?」
混乱の声が教室を駆け巡る中、陽翔は朱音を抱き起こす。
細い肩が腕に収まり、彼女のまつ毛が微かに震える。
「先生、朱音を保健室に連れて行きます!」
教室を出た瞬間、廊下の空気が異様に重い。
陽翔は朱音を支えながら歩く。彼女の肌は汗で湿り、驚くほど冷たかった。
わずかに開いた唇から漏れる浅い呼吸に、安堵と不安が胸を叩く。
陽翔の耳には、あの映像――「ソレ」が残した無音の残響が、消えずに響いていた。
保健室の扉を開けると、薄荷とガーゼの混じった消毒液の匂いがふわりと鼻をついた。
保健の先生が書類に目を通していたが、陽翔の慌ただしい足音に顔を上げる。
「先生、朱音が倒れました!」
「こっちへ運んで。ベッドが空いてるわ」
陽翔は頷き、朱音をそっとベッドに寝かせた。
白いシーツの上に彼女の細い体を横たえると、まぶたはまだ重く閉ざされたまま。額に汗がにじみ、頬は青白く、呼吸も浅い。
「救急車が呼べるか校長に確認してくるわ。彼女の様子を見てて」
そう言って、先生は急ぎ足で保健室を出て行った。
陽翔はベッド脇の椅子に腰を下ろし、朱音の顔を見つめた。
その呼吸は時折かすかに途切れ、見ているだけで不安が募る。
さっきの「ソレ」の残像が、陽翔の頭にこびりついていた。無表情な少女の瞳、揺らめく光と影の帳――。
頭を振っても、その像は消えない。どこか儚いその姿が、朱音の顔に重なって見える。
保健室は静かだった。
窓の外では蝉の声すら遠く、くぐもって聞こえる。
陽翔は自分の手のひらを見下ろした。朱音を支えた指先が、妙に冷たく、かすかに震えていた。
時計の秒針がカチカチと刻む音だけが、静寂を切り裂く。
陽翔は朱音の手をそっと握る。冷たい肌に、微かな温もりが戻ってきた気がした。 どれほど時間が過ぎただろう。
窓から差し込む午後の光が少し傾き、ベッドの影が長く伸びる。
そのとき、朱音が微かに眉を寄せ、まつ毛が震えた。
「……陽翔?」
その声は紙のようにかすれ、儚く消えそうだった。
陽翔は思わず椅子から身を乗り出し、朱音の手を握り直す。
「朱音! 気づいた? 大丈夫か?」
朱音のまぶたが微かに動き、薄く開いた瞳が陽翔を見つめる。陽翔は胸の奥の重さが一瞬だけ軽くなるのを感じた。
そのとき、保健室の扉が小さく軋み、保健の先生が小走りに戻ってきた。
「よかった……! 意識が戻ったのね。担任に伝えてくるから、陽翔くん、彼女のそばにいてあげて」
そう告げて先生が再び出て行くと、保健室に静寂が戻った。
朱音は天井をぼんやりと見つめ、ぽつりと呟く。
「……あの映像、なんだったんだろう」
陽翔は一瞬、言葉に詰まる。あの少女の姿、揺らめく影が脳裏によみがえる。
「……なぁ朱音、もういいじゃん。忘れよ? 所詮授業の一環だろ。あんまり引きずってると、夢に出ちまうぞ?」
努めて軽い調子で言いながら、陽翔は手のひらをぱたぱたと顔の前で扇ぐように動かした。
「それよりさ、あとで購買行って、冷たいオレンジジュースでも買ってやるよ。朱音、あれ好きだったろ? ほら、つぶつぶ入ってるやつ」
わずかに肩を揺らして笑おうとした。
でも、朱音は反応しなかった。
視線はまだ天井の一点に置かれたまま。
唇の端が微かに動いた気がしたが、笑うでもなく、ただ静かに、何かを耐えるような表情をしていた。
陽翔の胸に、かすかな空振りの音が広がった。
窓の外では蝉の声が張りつめた空気を切り裂いている。
けれど、その喧しささえ、保健室の中ではどこか遠く、くぐもって聞こえた。
まるで分厚いガラス越しに世界を覗いているような感覚だった。
陽翔は短く息を吐いた。
朱音の頬をつたった汗が、首筋にかかり、白い枕に染みを作っていた。
その動かないまぶたの向こうに、あの映像の残像が焼きついているのだろうか。
彼は自分の言葉が浅かったことを悔いたように、ゆっくりと背もたれによりかかった。
そして、口を開く。
「正直……俺にもわかんねぇ」
声は喉の奥でざらつき、思考をそのまま削り出すようだった。
「ただの歴史映像って感じじゃなかった。あれは……なんか、ずっと前から、ずっと奥に沈んでたものを、無理やり引っ張り出されたみたいな……胸の奥が、ぐっと、重くなるっていうか……」
「……怖かった」
その言葉は、声というより、空気の震えに近かった。
まるで、何か見てはいけないものと目が合ってしまったような――そんな感覚だけが、じわりと残っていた。
そのとき、保健室の扉が控えめにノックされた。
「失礼しまーす」
声と同時に、静かに引き戸が開き、淡い午後の光が差し込んだ。
姿を現したのは志水梨々香だった。
濃紺の制服に透ける夏の陽射し。白いカーディガンを肩にかけ、前髪を指先でかき上げながら、少しだけ息を吐いた。
廊下の熱気を背負って入ってきた彼女の髪先には、わずかに汗が光っていた。
「あれ? なんで二人ともここにいるの?」
保健室の中を見回しながら、陽翔と朱音の顔を順に見やったその目は、いつものように明るく、けれど少し曇っていた。
「なんかさ、頭ガンガンして気持ち悪くて……ちょっと限界って感じだったから、授業サボって来ちゃった」
その言葉に、朱音がわずかにうなずく。
寝転んだままの顔はまだ青白く、でも、どこか共鳴するように、彼女のまなざしが梨々香に向いた。
「えぐかったよね? あれ……そりゃ気分も悪くなるって」
「私も……なんか、息が詰まって……」
朱音の声はか細く、けれどはっきりと、梨々香の胸に届いた。
「うん、そうかぁ……じゃあ、私も隣のベッド借りよ」
梨々香はそう言いながら、ためらうことなく隣のベッドに腰を下ろした。ベッドが軋む音が、静かな保健室の空気をやわらかく切った。
カーディガンを脱ぎ、白いブラウスの袖を腕まくりしながら、ふっと息をつく。
そして陽翔の方へちらりと目を向け、わざとらしく小さく目を細める。
「……ねえ、寝てるからって、イチャイチャしないでね? 聞こえてるから、全部」
陽翔は「よせやい」と苦笑をこぼす。
朱音は頬を染めてそっと目をそらすが、口元には安堵の笑みが浮かんでいた。
その笑顔に、陽翔の胸の奥の重さが少しだけ軽くなるのを感じた。 数分後、保健の先生が戻ってきた。
その表情には、かすかな緊張が残っている。
「校舎前で事故があったみたい。警察と人だかりで、救急車が校門まで入れないって」
「……じゃあ、朱音は?」
「体温も呼吸も安定してきてるし、今すぐ搬送の必要はなさそう。でも、無理はしないで。もう少し横になってなさいね」
先生は梨々香にも視線を向ける。
「あなたも、必要なら休んでいなさい」
朱音がゆっくりと上体を起こし、陽翔の腕をそっと引く。
「ねえ、もう大丈夫。陽翔、教室に戻って。……私のことは、心配しないで」
陽翔は一瞬迷うが、朱音の瞳に確かな意志を見て、小さく頷く。
「……分かった。無理すんなよ。あとで、また来る」
扉を開けて廊下に出ると、空気がわずかに軽くなっていた。
だが、陽翔の鼻にはまだ消毒液と、朱音の髪に残るシャンプーの甘い香りが漂っている。
そして耳の奥では、あの無音の響きが、かすかに鳴り続けていた。
授業と授業の間の休み時間。廊下には生徒の姿がまばらで、笑い声も足音もどこか遠く、現実味が薄い。
開け放たれた教室の扉からは、ざわめきとも沈黙ともつかない空気が漏れ出し、校舎全体をぬるく包んでいた。
窓の外では、校舎前の道路に人だかりができ、白いパトカーの屋根が陽射しを跳ね返していた。遠くでサイレンが響き、生徒のざわめきが混じる。教師たちは事故対応に駆り出されているのだろう。
陽翔が教室に戻ると、黒板には「自習」の二文字がチョークで乱雑に書かれていた。
筆圧の強さが、その場の混乱をそのまま写しているようだった。
教室内に満ちるのは、空調の風がプリントをはためかせる音と、シャープペンシルの芯がノートをすべる微かな音。
それに混じって、眠そうな声や、取り留めのない会話が机と机のあいだから漏れている。
どこか気の抜けた空気だった。けれど、その中に混じる違和感を、陽翔はうまく言葉にできなかった。
陽翔の席の近くで久遠天音と楓が何かを話していた。
「朱音、大丈夫だったか?」
楓が尋ねる。
「……今は落ち着いてる。保健の先生が見てくれてるよ」
陽翔は椅子に腰を下ろしながら、ふと手のひらに残る朱音の体温を思い出した。
そのとき、教室の扉が開き、軽やかな足音とともに数人の姿が現れた。
先頭に立つゆかりが、いたずらっぽく笑いながら手を振って近づいてくる。
その背後には、阿久津冴と香取麻耶がいた。
「来ちゃった」
ゆかりが陽翔の机に手をつき、ニヤリと笑って身を乗り出す。
その動きに、制服のシャツの前がふわりと揺れ、陽翔の目線がわずかに泳いだ。
「……ゆかりたちのクラスも、自習か?」
陽翔は、視線を摩耶に逸らす。
「うん、そう。先生たち、みんな校舎の外に出てったよ。事故の対応らしいけど……」
摩耶がさらりと答える。けれど、その声色にはほんの少しだけ、いつもより力がこもっていた。
ゆかりはふいに視線を横にずらし、隣に立つ冴の肩を軽くつついた。
「ね、冴も気になってたんだよね。こっちの教室、様子見に行こうって」
話を振られた冴は、目を伏せるようにして、小さくうなずいた。
「……朱音が……保健室に行ったって聞いたから」
その声は消え入りそうに静かだったが、確かに芯のある響きを持っていた。
摩耶もまた、陽翔の様子をうかがうように視線を向けていた。
「それで……なにかあったの?」
摩耶の声はやや硬く、張りつめた糸のような緊張を含んでいた。
その言葉に、陽翔は一瞬目を伏せ、机の縁を指先で軽く叩く。教室の窓の隙間から入り込んだ夏の風が、紙の端をはらりと揺らした。
「……多分、あの映像のせい。俺と朱音、なんか……変なの見た。普通の歴史映像じゃなくて。胸の奥が、ずしっと重くなるような感じ」
「へぇ。私も見てたけど、そこまでじゃなかったかな」
ゆかりが肩をすくめ、冗談めかした笑みを浮かべる。
「私も」と冴が続ける。
ふいに、ゆかりが明るく笑った。声のトーンもわずかに上げて。
その笑みに釣られるように、摩耶と冴の表情もやや和らぐ。
「……ちょうど、うちのクラスも自習になってたし。なんか、気になって」
摩耶がぽつりと付け加えるように言った。その声には、どこか照れた響きが混じっていた。
キーンコーンカーンコーン──
チャイムの音が響き、休み時間が終わる。
「ま、無事ならいいか。じゃ、俺は寝るわ」
楓が欠伸をしながら椅子を倒し、だらりと横になる。
「楓、そういうの先生に怒られるよ」
麻耶が呆れ笑いを浮かべながら注意する。
ゆかりと冴が顔を見合わせ、小さく頷く。
「じゃ、またな」
ゆかりが軽く手を振って教室を出る。冴は無言で頭を下げ、麻耶は最後に入り口で振り返るが、言葉を残さず扉を閉めた。
教室には静けさが戻った。
だが、それは何かが終わった静けさではなく、むしろ何かが続くことを予感させる、重たい沈黙だった。
陽翔は腕に頬を預け、窓の外を見ていた。
校舎前の人だかりとサイレンの音が、遠くで混ざり合う。
陽翔はスマホを手に取り、朱音にメッセージを送ろうかと一瞬迷う。だが、指は止まった。
夏の午後。
重く湿った空気が、窓から流れ込む。
陽翔はまだ、その「違い」に名前をつけられずにいた。