第3章 一日一生 その6
ビーチチェアから見える、プールサイドの隅。
天音は淡い水色のワンピースを身にまとい、静かに水面を見つめていた。
銀白の髪が風にそっとかかり、光を透かす布がやわらかく揺れていた。
陽翔はその姿を見つけ、自然と隣に歩み寄った。
「天音、楽しんでるか?」
彼女はわずかに微笑み、静かにうなずく。
言葉はなくとも、その仕草は十分すぎるほど気持ちを伝えていた。
「ここ、けっこう静かで落ち着くな」
陽翔の声が空気に溶ける。天音は小さく息を吐き、そっと目を閉じた。
途端に、ふたりの間の時間だけがゆるやかに流れ出し、まるで世界が止まったかのような静けさが広がる。
「今日さ、梨々香とか楓、みんな元気良すぎるよな。スライダーで転がり落ちたりしてさ」
陽翔が微笑を浮かべながら言うと、天音の頬にも淡い笑みが灯る。
「……元気があるのは、決して悪いことじゃないわ」
彼女の声は、どこか遠くを見るように優しかった。
その時だった。
「うぇーい!!」
背後から元気な叫び声。
プールに勢いよく飛び込む音と同時に、豪快な水しぶきが陽翔を直撃した。
「うわっ!」
思わず身体を仰け反らせる陽翔。その反動で隣にいた天音を巻き込み、二人はプールサイドに倒れ込んだ。
反射的に腕を伸ばし、陽翔は天音の身体を抱き寄せる。
そして次の瞬間、体勢が入れ替わり――陽翔が仰向け、天音がその上にまたがるような形に着地した。
濡れた銀白の髪が陽翔の頬にふわりとかかり、潮風のように湿ったやわらかな香りがふいに鼻をくすぐる。
柔らかな重みが太腿を通じて脚に伝わり、肌に触れ合う水気が、体温と混ざってじんわりと染み込んできた。
まるで雨上がりの静けさのように、二人の間には甘くて湿った沈黙が満ちていく。
吐息が重なり、鼓動がどちらのものか分からないほど響き合った。
「……元気がありすぎるのは、良いことではないかもしれないわ」
天音が静かにそう呟き、陽翔は小さく笑った。
「ははっ、確かに」
そう言いながら、彼はそっと天音の顔にかかった髪を払おうと指を伸ばした。
だが、その動きはわずかに逸れ、ふとした偶然で、指先が彼女の唇に触れてしまう。
柔らかく、温かく、わずかに湿ったその感触は、まるで秘められた泉のように指先へと染み込んだ。
陽翔はハッとして、息を呑む。
けれど、その指先はまだ彼女の頬に触れ、ゆっくりと輪郭をなぞるように滑っていく。
天音の瞳がそっと開かれ、そのまま陽翔の視線を真っすぐに受け止めた。
光を湛えたその眼差しは、拒むでも、笑うでもなく、ただそこにある。
「……あ、ごめん」
陽翔はようやく我に返り、指先を止める。だが、すぐに身体を起こすことはできなかった。
目を逸らしきれず、逃げ場をなくした時間が二人を包む。
じわじわと伝わる膝の感触、湿ったワンピース越しのぬくもり。
呼吸のリズムが混ざり、ふたりだけの世界がほんの一瞬、確かにそこに存在していた。
やがて陽翔は静かに体を起こし、天音もその動きに合わせてゆっくりと腰を上げる。
そして、ごく自然に――彼の上に再び腰を下ろす。
膝の上に座る天音の柔らかい重みが陽翔の太腿に沈み込み、肌越しに伝わる体温が鼓動と共に浸透してくる。
二人の距離は近く、視線は絡み、何も語らずとも想いが溶けていくようだった。
その静寂を、再びプールの歓声が破る。
「うぇーいっ!!」
高校生たちが再び勢いよくプールに飛び込み、陽翔めがけて大量の水しぶきを浴びせる。
冷たい水が顔を打ち、陽翔は思わず目を大きく見開いた。
天音はふっと笑みをこぼし、それに陽翔もつられて笑い返す。
緊張が溶け、空気がまた夏の午後に戻っていく。
「みんなのところに行こうか」
陽翔が立ち上がり、そっと天音に手を差し出す。
天音は何も言わず、その手を取る。
指先が触れ、掌が重なり合ったまま――ふたりはゆっくりと歩き出した。