第3章 一日一生 その5
楓から逃れた陽翔は流れるプールの縁に腰を下ろし、脚を水に浸してぼんやりとしていた。
子どもたちの笑い声やスライダーの水しぶきが、遠くの方で響いている。
けれど、このあたりだけは不思議と静かだった。
水面を、ふわりと何かが流れていく。
「陽翔~!」
軽やかな声に顔を上げると、冴が浮き輪にすっぽりと嵌ったまま、遠くでゆっくりとこちらへ流れてきていた。
濡れた銀白の髪は肌にぴたりと張り付き、三つ編みが水面を揺らしている。
陽翔はその髪に視線を落とし、次いでゆったりと揺れる浮き輪へと目をやった。
冴が大きく手を振っている。
肩にかけていた薄手のパレオは少しずれて、形の良い胸元がほんのりと見え隠れしていた。
「はっはっは、楽しそうだなぁ」
陽翔も手を上げてゆっくりと振り返し、微笑みながら見守った。
冴は少しずつ流されていき、やがて視界から離れていく。
そして、また反対側からゆらりと戻ってくる。
「陽翔~!……けて~!……」
その声はさっきよりもわずかに震えていて、それでも一生懸命に手を振っていた。
陽翔も応じるように、今度は大きく手を振り返す。
「はっはっは、はしゃいでるなぁ」
そう呟いて、ふっと肩の力を抜く――そのときだった。
「S・O・S! S・O・S! S・O・S!」
先ほどよりも切迫した声が聞こえ、陽翔が目を凝らすと、冴が浮き輪の中でバタつきながら、全身で助けを求めていた。
「えず・おー・えず!!」
「……あっ、あーっ! ごめん! 今行くからなっ!!」
陽翔は慌ててプールに飛び込むと、水の流れに逆らいながら冴のもとへ泳いだ。
「浮き輪が……抜けなくて……」
冴の声は震えていて、目元はほのかに潤んでいるようにも見えた。
「もう、どうしようって……」
「今助けるからな」
陽翔は浮き輪をしっかりと掴み、水をかき分けて縁まで泳いでいく。
ようやくプールサイドの縁にたどり着くと、片手で浮き輪を支えながら腰を掛けた。
「ほらっ」
優しく差し出した手に、冴がそっと指を重ねる。
その瞬間――
「きゃっ……!」
冴の身体がふわりと陽翔の方へ滑り込む。
浮き輪から抜けた彼女は、そのまま陽翔の膝の上に、そっとまたがるようにして座った。
軽く首に手を回し、胸元を預けるようにしてそっと体を寄せる。
その仕草があまりにも自然で、甘く、無防備で――陽翔の胸が静かに高鳴った。
びしょ濡れの冴の体温が、陽翔の脚から腹にかけてぴたりと密着する。
華奢な身体なのに驚くほど柔らかく、そして、あたたかかった。
パレオの隙間から覗く肌は白く、陽射しに焼けていないままの、吸い込まれるような色をしている。
「……ごめん。……重く……ない?」
小さな声でそう訊きながら、冴はそのまま動こうとしない。
陽翔に抱きつくような姿勢で、首元に両腕をまわす。
そして、少しずつ身体をねじり、陽翔に自分の胸を押し当てるように反転しようとする。
そして背中を預けるようにして、必死にバランスをとった。
「あったかいな……陽翔くんの、からだ……」
囁きは小さく、それでも確かな甘さと安心を滲ませていた。
恥じらいと信頼――そのどちらとも取れる、不思議な響きだった。
その声に意識を向けた瞬間、ふわりと柔らかな香りが鼻先をくすぐった。
水の匂いとは違う。冴の髪からほのかに立ち上る、花のような、淡く繊細な香り。
ほんの一瞬で、陽翔の心までじんわりと満たしていく。
ぴたりと押し当てられていた胸の感触が、まだ腹の奥に残っている気がした。
その意識が、視線を自然と引き下ろしていった。
パレオの隙間から覗く白い肌。
そして、濡れた水着の奥に浮かぶ、やわらかな谷間。
すぐそこにあるそれは、陽翔の鼓動をすぐ間近で煽るほどに生々しく、濡れていて、艶やかだった。
その柔らかさも、温かさも、まだ身体が忘れられないでいる。
だからこそ、目が離せなかった。
ふと――視線を感じて顔を上げると、冴の瞳がそこにあった。
濡れた前髪の隙間から、じっと、まっすぐに。
潤んだ大きな瞳が、陽翔を見つめている。逃げられないくらい、優しく、真剣に。
「……いいんだよ」
ドクン、と陽翔の心臓が跳ねる。
「もうちょっと……このままで……いい……?」
冴はやさしく、けれどどこか頼るようにそう言った。
陽翔は何も言わず、そっと冴の背中に手をまわす。
華奢な身体は驚くほど熱くて、鼓動がじんわりと手のひらに伝わってくる。
冷たい水の中にあって、ふたりのぬくもりだけが、そこに確かに存在していた。
遠くではまだ、子どもたちの声が響いている。
けれどこの瞬間だけは、流れるプールの中に――ふたりだけの時間が、静かに流れていた。
ふと、陽翔の胸元で冴の呼吸が穏やかになっていく。
「……ん……」
小さく身じろぎしながら、うつらうつらとまどろむような気配が伝わってきた。
「……眠くなっちゃった?」
囁くように声をかけると、冴は薄く目を開けて、胸に頭を擦りつけた。
「……あったかくって……」
陽翔は小さく笑みをこぼし、冴の身体を崩さないように、そっと腕を差し入れた。
「……よいしょ」
冴の身体を抱き上げると、お姫様抱っこの姿勢のまま、ゆっくりと立ち上がる。
冴の腕が無意識に首へとまわり、淡く甘い匂いがかすかに香った。
近くのビーチチェアへと歩き、そっと身体を横たえる。
濡れた髪を優しく払い、用意していたタオルを胸元にかけてやると、
冴はそのまま気持ちよさそうに眠りへと落ちていった。
陽翔は一度だけ、その寝顔を見つめてから――静かにその場をあとにした。