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序章

 夏の夜の空気は重く湿り、肌にまとわりつくような熱気を帯びている。雨は降っていないのに、地面から立ちのぼる蒸気がじっとりと身体を包み、息を詰まらせる。街灯の白い光はアスファルトにぼんやりと滲み、まるで薄い膜を張ったように路面を覆う。舗装された道は昼の熱をまだ手放さず、少年の足裏をじりじりと焦がした。靴底を通じて伝わる熱波は、まるで地面が生き物のように脈打っているかのようだ。

 踏みしめるたびに、アスファルトが微かな軋みを上げ、熱と湿気が混じり合った空気が膝を這う。鼻腔を刺すのは、遠くから漂う鉄の匂い。錆びた金属のような冷たさが喉の奥に絡みつき、吐息さえ重くする。夜の街は静寂に沈み、遠くで車のエンジン音が途切れると、まるで世界が息を止めたかのような沈黙が広がった。

 少年の視界は汗と疲労でぼやけ、呼吸は荒々しく胸を裂くようだ。どこへ向かっているのか、なぜ走っているのか、頭では何もわからない。だが身体は勝手に前へ突き進む。道端の電柱、ひび割れた舗道の白線、街灯の光に揺れる影――すべてが無言のうちに、ひとつの方向へ重心を傾けている。まるで夜そのものが、少年を導く見えない糸を引いているかのようだ。

 追いかけるべき対象は見えない。心の奥で何かがある――それだけは身体が知っている。

 脈打つ鼓動が耳元で響き、止まることを許さない衝動が骨の髄まで響く。

 止まれない。止まることなど考えられない。

 まるで地の底に落ちる一滴の雫のように、少年はただ一点に吸い寄せられていく。夜の街の輪郭が揺らぎ、確信だけが身体を突き動かす。そこには何かがある。形を持たない、だが確かに存在する何か。やがて辿り着いたのは、街灯の冷たい光に照らされた路地の突き当たりだった。

 沈黙は深く、濃く、まるで空間そのものが重力に押し潰されているかのようだ。空気は動かず、夜風さえ息を潜めている。

 地面には崩れた肉の塊が横たわり、湿った音を立てて蠢いていた。赤く潰れ、形を失ったそれは、かつて生きていたものの残骸とは思えないほど無秩序に広がっている。色彩すら奪われた亡魂のように、ただ湿り気を帯びて地面に溶けていく。

 そのすぐそば、仰向けに横たわる少女がいた。

 まるで眠るように穏やかな顔で、黒い髪が頬に張り付き、白い喉元は夜の闇に溶け込みそうだ。開かれた指先はわずかに震え、赤い液体に濡れている。その赤は、まるで命そのものが流れ出したかのように、ゆっくりと地面へ染み込んでいく。

 風は吹かず、音は一切ない。

 この場所に存在するのは、世界が終わった後の空気だけだ。

 白い地面を血がじわりと侵し、夜の黒と混じり合いながら広がっていく。

 まるで少女の存在を、記憶を、すべてを飲み込み、葬り去ろうとしているかのようだ。

 だが、少年の胸の奥で、かすかな疼きが響く。

 この光景は、始まりなのか、それとも終わりなのか――その答えを、夜はまだ隠している。


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