第43節 わたしはクララ・ウェブスター
わたしが修道院に来て最初にやったことは、「聖女を目指すこと」だった。
これは容易いことだった。
物腰だけつくろい、わたしが正しいと思った者に施しと励ましの言葉を与え、不適切に思えた相手には聖句や正論で諭すだけのことだ。
その際に、ちょっと小首をかしげてやったり、指先を触れてやることが機械油のように働いた。
聖女を装ったのは、本土で受けた辱めを誤魔化すためでも、被害者面をするためでもなければ、もちろん悔い改めるためでもない。
アマシマク島を選んだのは自分の意志だったし、新天地に来た開放感もあった。つまりは、単に「面白そうだから」やっただけのこと。
そうでなければ、クララ・ウェブスターの名は捨てて、没個性な修道名を名乗っていただろう。
だがまあ……わたしの性分だ、長くは続かない。
起きる時間から寝る時間まできっちり決められていたし、服装はおろか歩き方ひとつにケチをつけて、杖やら平手やらを振りかぶるババアがいたせいだ。
女子修道院長マザー・ジェニーン!
ことごとく男どもに抵抗してきたわたしが、こんな扱いを我慢するはずがないだろう?
使徒として信者の前ではしおらしく振る舞うことでヤツを黙らせ、院内では容赦なく罵詈雑言の舌戦を繰り広げてやった。
このノリが聖女の顔にまで侵食するのは時間の問題だったが、カニンガムからは、そのまま聖女のフリを続けてくれと頼まれた。
これには善処を約束してやった。
彼がやり手の主教だということは見抜いていたし、ババアの尻に敷かれているとはいえ、国教会の枠組みを超えた島の権力者と手を組むメリットはすでに計算済みだったからだ。
こうしてわたしは、生まれ持った美貌と社交界で培った対人技術で聖女を装い、ババアとは口頭でクソを投げ合い、クレイミーには渋々従い、サラやドロシアたちをからかい、ラニャとアニェに悪さを教える日々を過ごした。
このクララ・ウェブスターが、修道院の食卓に並ぶ味のしないパンケーキに、多くの笑いのクリームと、ちょっとした憤慨という果実を飾ってやったわけだ。
幸せだったな。このときは。
わたしがもっとも、わたしらしくあった時期だとも思う。
ジェニーンに騙されていたことを差し引いても、本土にいたころよりはマシさ。
……いや、一番幸福だったのは、婚姻事件裁判所で自由を勝ち取った瞬間だったか。幸福感ってのは、不幸との落差に左右されるものだしな。
顔も知らない相手の家に嫁ぎ、このわたしに誘惑を強要しておきながら無視し、挿れてもないくせに子を孕まないと吹聴しやがり、その裏で煙突掃除に精を出されるなんて、貴族としても女としても筆舌に尽くしがたい屈辱の日々。
だが、抱かれない夜を重ねることへ対して、恥辱と焦燥のほかに、幽かな安堵を覚えていた自分もいた。ジレンマってやつだ。
左の胸が、ちくりと痛んだ。
もとより冠としての購入だったわけだし、瑕物となれば返品は当然だ。
瑕疵の理由を尋ねられればそこで終わり。尋ねられなくともわたしのプライドは粉々に砕かれ続けることになる。
わたしは、物心ついたころから、わたしを愛していた。
そりゃあ、貴族の中でも名家の侯爵家ウェブスターに、天使すらもかしずく美貌を持って生まれたんだ。当然だろう?
幼いわたしは、愛されるのが当然のことで、世界はわたしを中心に回っていると信じて疑わず、社交界に渦巻く薄汚い思惑や、堕落を贅肉に溜め込む遊戯など露も知らず、小さなプリンセスを演じ続けていた。
食事は食うのも作るもの好きで、屋敷や庭を駆け回り病もなく育ち、脳味噌は家庭教師や書物から大量の知識をスポンジのように吸い取った。
成長するに従って枷が緩むと、わたしは召使いに命じて屋敷の外へと繰り出すようになった。
庭園の囲む屋敷を出て、自然を残した領地を眺めて馬車に揺られる。
みずからの意思であらためて自領を見ると、幼少期と比べて森が減っているのはおろか、領地そのものが小さくなっていることにすぐに気が付いた。
これは、親戚縁者の放蕩が原因で、のちにわたしが冠にされる兆候のひとつだった。
街では歩くのにも難儀をした。
道端にゴミやら汚物やらは当然のように落ちていて、スカートを持ち上げるために両手を留守にしなければならなかった。
召使いに傘を差すように命じても、「あれは馬車を持たない成り上がり者の差す品です」だなんて返される始末だ。
知ってるか? 都会にゃ、窓からクソを捨てる品性の欠片の無い家もあるんだ。
上からも下からもクソがやってくる。
クソの話はおいて、わたしは教会や商業施設、劇場なんかを見て回った。
人のいるところは大抵、目を通したつもりだ。
流行り病で折り重なる死体も見たし、路地裏の阿片窟だって覗き込んだ。
そんな場所の見学は、傘にもクソにも文句を垂れる召使いどもが許すはずもなく、そこでわたしは他者を出し抜くすべを学んだわけだ。
惨状を見てわたしは考えた。彼らとほかの者の違いは何か?
わたしら貴族とはなぜ違う? 生まれが貴くなくとも、身を立てたジェントルマンたちとの違いが、どうしてできるのか?
貧者たちには、選ぶ自由がないように見えた。
カネを得てもメシにして終わり、余暇があっても稼いだり学んだりするだけのエネルギーがない。
そもそも、学ぼうにも世界に何があるのかすらも知らない。
学ぶべきことを知る手段がないのだ。
彼らには召使いもおらず、オペラグラスも馬車もなければ、頭に降り注ぐクソを防ぐ手立てもない。
信仰だけは素寒貧でも自由になるとはいうが、聖書も持てず、我らが女王もアルバート公を失ったばかりで黒服で泣くばかりだった。
祈りを唱えることだけでは、どうにもならないのは明らかだ。
だが、彼らに一切の怠惰や堕落がなかっただろうか。
何か神の怒りに触れることをしたのではないのか。
いや、神のほうが不平等なのか?
まだガキに毛が生えただけのわたしには、答えが出せなかった。
ひとつ理解できたのは、幼いころのわたしがそうだったように、彼らも常に足元ばかりを見ていたことだ。
せめて、前を向かせてやる手段があればいいのにと思った。
身体が成長してくると、男どもの望むキスの照準が、わたしの手の甲からくちびる、その奥へと移り変わっていった。
フィレマトロジーをするまでもなく、それがわたしの持つ「女」という属性のせいだとすぐに理解した。
気に入らなかった。
生物学的には「人間の女に属するクララ」なのは承知していたが、「女であること」は「クララ」に対して付随しているべきだと感じていた。
侯爵家の娘であることも、この美貌も、あくまでわたしを構成するもののひとつであり、それだけを取り出して断ずることなどできはしないと考えた。
まあ、美しいと称賛を浴びるのは、やぶさかじゃないがな。
ダーウィンが上梓した「種の起源」や、その近隣で萌芽した論争では、生物の進化や淘汰が語られていた。
神話をおとぎ話だと否定するそれらにも、一定の筋が通っていたが、ならばどうして、人の世には優秀でない者や醜い者がまだいるのだろうか?
優秀なはずの貴族やジェントルマンの集まる社交界が、愚鈍に見えるのはなぜだろうか?
それは、学び語ることが許されている者こそが、優劣を定義しているからだ。
力を持った愚者どもが、おのれを賢者だと偽っているだけのこと。
そう教えたのは、わたしの兄であるアーサーだった。
彼もまた、親族や社交界に疑問をいだき、真に貴き者とは何かと考え続けていた。
そして、幼き頃はわたしにナイトのように仕え、勉学を始めてからは花にも棘や毒があることを教えてくれた。
強くあり、正しくあろうとし、わたしを令嬢や女の枠に閉じ込めないようにしてくれた兄。
そんな彼がいたからこそ、当主だった父が原因不明の病で急逝したのだろうし、召使いも減り、遊ばせていた土地も慈善事業のために溶けるように消えていったのだろう。
だが、アーサーの理想の前に親族の放蕩が高く立ちはだかった。
ウェブスター一族の財と信用は見る見るうちに食いつぶされた。
兄が無能な父を排除してからは、親族は余計に勝手に振る舞った。
そうしてわたしは、ティアラとして売り払われることになったのだ。
――。
「クララよ。どこでこんなことを憶えてきたのだ?」
わたしと同じ黄金の髪とアクアマリンの瞳を持つ顔面に、白い手袋が引っかかっている。
「このひと月は、わざとらしいくらいにわたしを子ども扱いしてくれたな。何度も言うが、公爵との婚約を取り消せ。わたしは兄上と違って家名に殉じる気もないし、結婚は自由恋愛だと決めているんだ」
「歌劇にでも影響されたか。遊び歩くのは公爵夫人になってからもできるだろう」
端麗な顔から深いため息。一転、アーサーはわたしを酷薄な視線で刺した。
「決闘してやれば満足なのだな?」
「わたしが勝ったら、婚約は破談だ」
「こちらが勝てば、名家の女としての義務を果たすと約束するな?」
「ああ、年寄りが一晩中求めて来ても、ちゃんと楽しませてやるさ。腹の上でくたばらせない保証はないがな」
兄もまたため息が多かった。
「嫁ぎ先では装いだけでなく、その舌も貴婦人に相応しくするんだぞ」
兄は頭に引っ掛けっぱなしだった白手袋をつまみ上げると、投げ返した。
月の大きな夜だった。
わたしとアーサーは、競技用の細剣を手に睨みあった。
わたしはエペやサーブルを使うことを強く望んだが、兄はお互いにフルーレでおこなうことを勧めた。
「クララよ、ドレスのままでやる気か? ケガをしても知らんぞ」
「分かってないな。女の姿のまま勝たないと意味がないんだ」
普段、汗を流す際には平等のルールでやって、こちらが圧倒的に多くの勝ち星を挙げている。わたしは勝利を疑っていなかった。
月に叢雲、風が吹き庭園の花が散り、わたしたちのあいだを駆け抜ける。
月光が戻るのを合図に、わたしは踏み出した。
やいばがこすれ合い、火花が散る。
アーサーはしばらく守りに徹していた。
攻勢に転じるときも、わたしの胴回りだけを狙い、必ずストレートの突きのみで返してきた。
よけろと言っているようなものだ。
嫁入り前の妹を相手に防具無しを了承したのも、そういうことだと思った。
兄はこちらの筋書きに乗ってくれる気なのだろう。
わたしは嫁ぐ気はない。もちろん、家を継ぐ気も。
屋敷の切り盛りだって、アーサーなら公爵からの援助なしにできるはずだ。
わたしたちは二度三度、ダンスを繰り返し、ほんの少し広く間合いを取った。
わたしは奇を衒ってターンを披露し、決闘のフィナーレを知らせた。
……知らせたつもりだった。
吐息の掛かる距離にいたアーサーの瞳にはクララの瞳が映っていたが、お互いに藪睨みだった。
「さだめをみずから受け入れるというわけか」
左胸に鋭い痛み。
アーサーはまだつるぎを引いたままで、わたしがひとりで彼の剣に突っ込んでいた。
「上手く負かせる方法を考えていたんだがな。おまえのことを見くびっていたのかもしれない」
わたしは胸を押さえつつ、切っ先の届かなかったさらに奥の痛みに耐えていた。
ようやく理解した。
兄は今日まで、わたしを勝たせてくれていたのだ。
「才を生かせ、我が妹よ。公爵婦人としての力を使い、世を正す手伝いをしてくれることを望む」
アーサーは剣を一振りすると、背を向けた。
彼は胸を押さえるわたしの手袋が、朱に染まっていることには気づいていなかった。
ふいにクララ・ウェブスターが、幼いお姫様へと逆戻りした。
お兄さま助けてと、痛いよと、嫁ぎたくないのと、喚き立てたくなった。
同時に、兄が結局わたしを「クララ」ではなく、「妹」として扱っていたことへの怒りが湧いた。
欲求と怒りのジレンマの狭間に落ち込み、わたしは動くことができなかった。
傷は大したことはなかったが、医者に見せなかったせいで消えない傷痕となった。
この埋め合わせは、我が兄アーサーを指標としてきた事実を抹消し、彼を不出来な後継者として烙印を押すことでのみ可能だった。
敗者であるわたしは恥の日々を生き、怒りの下、公爵の事実を暴くことで兄にも恥を味わわさせ、そして離婚、それからアマシマクに渡り……。
「待て。わたしはまだ負けていない。決闘とは、どちらかが死ぬまでおこなうものだろう」
わたしは立ち上がり、兄の背中に語り掛けた。
「違うか? 奇術師さんよ」
振り返った姿はアーサーではなく、ひとりの美しい女だった。
わたしだ。クララ・ウェブスターだ。
「……まぼろしだと気づいていたか」
「事実と違うからな」
「決闘には勝ったとでも?」
「負けたさ。だが、あいつはそこまで気の利いたことは言わなかった」
兄はわたしに公爵夫人として力を振るえとは言わなかった。
ただ一言、「押し付けてすまない」と言ったのだ。
「それから、手加減もしてなければ、わたしがみずから負けに行ったわけでもない。正々堂々と打ち合って負けたんだ。事実をゆがめることで、わたしを改心させる気だったんだろう?」
「もっと甘い夢を見せてやるべきだったか。そなたにはこのくらいがちょうどいいと思ったのだ」
わたしの悪魔が言う。「すまない、見くびっていた」
「本当のわたしを教えてやるよ」
細剣を構え、切っ先を向け、空いた手で中指を立ててやる。
「あの晩のやり直しがしたいのであれば、付き合ってやろう」
「過去は変えられない。わたしはただ前に進むために、おまえを倒すんだ」
「おのれの悪魔にすら勝てぬ者が天使に届くはずなかろう!」
「わたしは足元に興味はないんだよ、堕天使さんよ!」
再び交差するつるぎ。雲は月を覆い隠し、闇の中で彼岸花が燃える。
繰り返される剣戟は加速し、わたしはわたしを後退させていく。
ひときわ激しく火花が散り、疑念を宿した天使の顔を浮かび上がらせた。
ふいに、横槍が耳を貫いた。
『高値で買わされた若妻だというのに、胎のほうは年寄りだったみたいでね。私も毎晩苦労させられているのだよ』
『奥方は、わざと精を掻き出してらっしゃるのですよ。ほら、ああいう顔をしている女はスキモノでしょうし、公爵も噂通りの絶倫でしたら、それを愉しまない手もないでしょう?』
『だとよいのだがな、はっはっは!』
嘲笑が胸中で弾んで乳房に鈍痛を与え、胎に月のものを束にしたような不快感をねじ込んだ。
渦巻く苦痛を逆回りに一回転、わたしは堕天使の持つ剣を蹴って跳ね上げる。
「ルール違反だろうに」
「なんのルールだ? お互いに従うのは、おのれの教義のみだろう?」
開翼、天使は宙で回る剣を追って飛び上がる。
「ならば分からせてくれよう! そなたも一頭の迷える仔羊に過ぎぬことを!」
月の代わりと言わんばかりに輝く姿。
片翼の光は銀色のつるぎを掲げると、ハヤブサのごとく向かってきた。
「わたしはクララ・ウェブスターだ。ただ前を向き進むのみ!」
わたしと瓜二つの顔へと、まっすぐに狙いを定める。
ヤツの顔は不気味に笑い、渦となり、見知った妹分の顔になった。
『クララお姉さまのせいで、みんな失ってしまった』
鼻で嗤う。ラニャがそんなことを言うはずがないだろう。
だが、分かっているさ。
わたしが、彼女の不幸の種だったことくらい。
わたしは去ろう。彼女にわたしは必要ない。
だがそれは、おまえを斃してからだ!
――再び、光。
その先は闇ではなく、ビグリーフ教会の聖堂だった。
わたしは黄金に輝く炎を宿したのつるぎで、堕天使の眉間を貫いていた。
「なぜだ? なぜ、人間ごときが……」
整った美は見る見るうちに老い、ジェニーンの姿となり、腐り落ち始める。
目が見開かれ、こぼれた目玉が落ち、煙を上げて一緒くたの土くれに変じた。
汚物の山から温かな光が這い出て弾け、無数の声が講堂内を飛び交った。
その中には、わたしの知る者の声もあった。
マクラ……メアリ……クレイミー……。
三つのたましいがわたしの周りをくるくると踊り、謝罪し、解放への礼を言った。
「待ってくれ! 本当に謝らなければならないのは、わたしのほうだ!」
光は、叫び終わる前に、すでに天井へと消えていた。
「これは、わたしへの罰なのか……」
声がした。『悔い改めることは、罰ではない』
振り返ると、並ぶ長椅子の最後列の端に、少女の姿があった。
それはわたしのよく知るラニャだったが、見知らぬ存在で、聖そのものだった。
「あんたが助けてくれたのか?」
『余計なお世話だったか?』
声は喉からではなく、天から降り注いでいた。
「いや、感謝をしておくよ」
ほほえみかけ、十字を切る。
『汝を赦す者のほうを向き、道を歩き続けよ』
少女はほほえみ返したあと、目を閉じ首を垂れ、寝息を立て始めた。
そばによると、彼女の席の周りに純白の羽毛が散らばっていた。
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