第42節 ステンドグラスの光芒にて
メルチの土くれがたましいを解放したのを見届けたのち、わたしは鎌を担いで立ち上がった。
「クララお姉さまも、お顔の治療を」
ラニャは、ドロシアの贅肉に通した糸を切りながら言った。
「わたしはいい。人を待たせているからな」
「痕になっちゃいます」
「虫除けになってちょうどいいさ。それより、ドロシアは大丈夫そうか?」
ラニャは困ったような顔を見せたあと、「太ってたお陰みたい。私も太ろうかな」と笑顔を作った。
「おまえには、わたしのようなプロポーションを目指して欲しいな」
「それはさすがに無理! 生まれからして違い過ぎるもん」
「ドロシアのそれだって才能なんだろうがな。ま、おまえはおまえらしく美を追求したらいいさ」
我ながら不思議だった。顔に傷だなんて、以前なら耐えられなかったはずだ。
メルチの挑発通りに、ヤツを手足の先から順に七十二分割にしても足りなかっただろう。
「さて、残りの仕事を片付けてくるよ」
わたしは靴先を教会に向ける。
なんとなくだが、ジェニーンがそこで待っている気がしていた。
「行かないでください。もう放っておいて、一緒にどこかへ逃げましょう」
「はっきりと言ってくれるじゃないか。嬉しいよ」
振り返ると、ラニャは泣いていた。
「放っておき過ぎたのさ。わたしには悪魔と戦わなきゃならない責務がある」
「だったら私も。マザーは、私が生まれるよりも前からこの島にいたんだし」
「ババアなんか問題にしちゃいないさ。わたしは、自分の悪魔と戦わなくちゃならないんだ」
「騙されたことを気に病んでいらっしゃるんですか?」
「否定はしないが、わたしの悪魔はここに来る前から棲みついていたものだ。気づいた以上は、さっさと始末を付けなくっちゃな」
少女の細い肩に手を置く。
「審判は下るかもしれないが、死に行く気はない。わたしのために祈っていてくれ」
額にくちづけを交わし合い、少女が祈りのためにひざまずくのを見届けて、わたしは教会へと向かった。
アマシマク教区ビグリーフ教会。
建立は西暦一五〇〇年代なかばで、先に存在していたテューレ教会が建てられたのは西暦九〇〇年、遅れることおよそ六〇〇年だ。
ビグリーフ教会は建立時から国教会の所有で、修道院も男女別で併設されている立派なものだった。
テューレ教会も管理下に置かれたものの、火山信仰と融合した異端派であり、当時制度が出来上がったばかりの国教会の影響力不足が懸念されたために、ひとつの教区内の目と鼻の先に教会が並ぶことになったようだ。
女子修道院を束ねるマザー・ジェニーンは、カニンガムが赴任したときにはすでにこの立場で、前任者の記録は紛失されていたという。
悪魔ならば、三世紀近いあいだ人の身で暗躍するのも容易いだろうか?
今回の一連の事件の背後にヤツがいたのは偶然ではなく、アマシマク歴史ではお約束事になっていたのかもしれない。
あるいは十世紀以上の昔からも、いや、キリストの生前からでさえ。
わたしは教会の扉の取っ手を掴み、力強く押した。
両開きのそれは、去年研磨されて塗り直されて輝かしいが、塗装の下は古ぼけた歴史を吸ってくたびれ切っている。
それでも視界は、軋む音ひとつ立てずに、滑らかに開けていった。
並ぶ長椅子は塗装が剥げている。
中央を貫く赤い絨毯も擦り切れ放題だ。
アーチ形の柱は石造りで、元は象牙色に輝いていたのだろうが、今はすっかりくすんでいて、肩の高さのあたりでは手垢の汚れも目立つ。
これらは、見ようによっては信徒の熱意の証かもしれない。
講壇は無人だ。神のしもべになってからも、人を見下ろして説教をするスタイルは好きになれなかった。
反して、聖書を開く前から好きだったのは、教会の芸術性だ。
教会とは、単なる祈りと教えの場ではない。
宗派の違いや建立時期の流行り廃り、信徒の願いや職人の意地、そしてお偉方の思惑が組み合わされて生まれた作品であり、芸術であり奇跡だ。
芸術というものは、神の実存を感じさせる貴重なツールのひとつだと思わないか?
モザイクタイル、石の彫像。それから聖画。
中でもわたしが気に入ってるのは、ステンドグラスだ。
太陽の光を吸い込んだときにこそ真価を発揮するその性質が、いじらしくて好きだった。
どこがいじらしいって?
太陽やわたしのように、それ自体が光を放っていないところがだ。
本土にいたころには、聖堂や教会を見つけるたびに、何度も芸術を目当てに足を運んだ。
カトリックがウェストミンスターに大聖堂を建てる計画を持っているらしく、完成をひそかに楽しみにしていたのが懐かしい。
だが、見学をすれば多くの信徒や聖職者たちは、わたしの美しさに目を奪われた。
あのころは、神の威光に勝った気になって視線に耽溺していたが、今では思い出すと、尻がくすぐったくなる。
ビグリーフ教会でも、いにしえからの職人の技が虹色に輝いていた。
この島にはお気に入りの場所が多かったが、ラニャやアニェがわたしを探すときは、まっさきにここを当たったのを思い出す。
そしてわたしも、同じようにここを当たり、見つけ出した。
「カビの生えた地下にいる線も考えたんだがな。こんな美しい場所に悪魔は似つかわしくない」
ガラスのプリズムが降り注ぐ下に、ひとりの老婆が杖を突いて立っている。
目が合うと、背後で扉が大きな音を立てて閉じた。
「ふん、あたしはここのあるじだよ。もっとも、これが建てられたときは別の姿をしていたがね」
「ババアどころの騒ぎじゃないな。裏切者のメルチたちを野放しにしていた理由はなんだ?」
「あれでもまだ見捨てちゃいなかったのさ。なかなか優秀な部下が育たなくてね。地獄も人手不足なんだよ。連中は気骨だけはあったから、期待していたんだがね。ま、おまえを倒せるとは思っていなかったが」
「あんたなら勝てるとでも?」
わたしは口の端に笑みを浮かべ、柄を握り構えた。
「よしとくれよ。あたしは武闘派じゃないんだ。おまえたちが聖書を手にする前から、別のものを使って戦ってきた」
ジェニーンは自身のこめかみと胸の中央を順に差した。「ここと、ここだ」
「戦ってきた? 気ままに遊んでいただけのように思えるがな。わたしのことも散々もてあそんでくれただろうが」
怒りを抑えるのは難しい。
ジェイクのようにその怒りの矛先はおのれに向け、ラニャのように受け入れ赦すことをしなくてはならない。
それは、悪魔を見逃すということではなく、裁きは復讐ではなく、神意に身をゆだねて執行すべきということだ。
それこそが悪魔に打ち克つ、唯一の方法。
わたしの教典に、新たな一ページを。
「あたしはおまえを買っている。ロバート坊やも悪くはなかったが、ちょいとまじめ過ぎだね。それに、やはり若さが足りない」
「たましいも若くて瑞々しいほうが美味いのか? わたしを殺すことでラニャに絶望を与え堕落させ、最後の味付けをするつもりなんだな?」
老婆が肩を揺らす。
だんだん激しくなり、講堂内を醜い笑いがコウモリのごとく飛び回った。
「強いて言うなら、スパイスなのはおまえではなく、あの子のほうさね。あたしが本当に育てていたのはあんただよ、クララ」
「……ここから生きて出られると思うなよ。ラニャは殺させない。わたしも殺されてやるつもりはない」
老婆はかぶりを振った。
「おまえは何も分かっちゃいないねえ。サタンのガキどもとおんなじだ。あの子にはあたしの救済は不要なのさ」
「何が救済だ。人の肉を喰らい、たましいまで啜るバケモノのクソ悪魔めが。あんたの羽根を毟って魚の餌にしてやるよ」
ふいに、老婆の顔がゆがんだかと思うと、空気が切断された。
「少しは口を慎むということを憶えるんだよ! クララ・ウェブスター!」
叫びの主は、白く光り輝いていた。
魔術のたぐいが来るかと身構えるも、その光に照らされたわたしは、本能まで凍らされてしまった。
この光は、魔性のものじゃない!
「……驚いたな」
わたしの目の前に立っていたのは、顔面脳味噌女でもなければ、獣頭のバケモノでもなく、ひとりのヒトだった。
ミルクのような肌にシルクの衣をまとい、夏の花びらを恥じ入らせるくちびるに、春のつぼみを眠らせるまぶた、まぶたを開けば右に太陽、左に月を宿し、なたびく髪は雲間を降り注ぐ光芒のごとし。
ヤツはヒトは男とも女ともつかない容姿をしていたが、とても美しかった。
わたしは呟く。「九十九万ポンドだな」
なぜならば、その美しい人の背は、大きな白鳥の翼を宿していたが、右側を欠いてしまっていたからだ。
「見よ、人の子。ワタシはサタンの子などではない」
声まで美声ときた。
冬の晴れ空の下を流れる湧き水とかなんとか、形容しておいてやろう。
「堕天使か」
わたしが鼻で嗤うと、柳眉がゆがむのが見えた。
おやおや、八十万ポンドにプライスダウンだ。
この姿を見せたのも、わたしの挑発が刺さったから、というわけか。
「みずから堕天したのではない。そもそも、あやまちを犯したのは、神のほうだ」
「聞いてやるよ。神の子さん」
「口を閉じよ、人の子よ。ワタシがおこなっているのは堕落でもなければ、人喰らいでもない。救済だ」
はいはい、と目で言っておく。
「神はすべての者を救わぬ。すべてを創っておきながら、愛を等しく与えなかった。そのくせ、不完全な人間には愛を要求する。おのれを完全なる者としておきながら、その体たらくだ。神はこの過ちを認めなければならない」
「揚げ足を取って悪いが、何が正しいかなんて、基準をどこに置くかの違いじゃないのか? 主には主の完全があり、あんたにはあんたの完全があるだけだ」
「おこないが正しくあっても、愛深くとも、天の神を知らず地に神を見ただけで糾弾される者たちがいた。この地は古来より、神に見捨てられ続けていたのだ」
美しい顔が憂いに沈む。いびつさに欺瞞を感じる。五十万ポンド。
「愛深きは欲深き、罪深きと紙一重である。天に招かれし者たちよりも深き愛を宿していながら、地獄に払い落される哀れな者がいる。ワタシはそういった者の救済を神に訴えたのだ」
「それで翼を毟られたんだな。あんたが自分のやり方を貫くのは結構だが、やけ食いされたほうはたまったもんじゃないな」
「たましいは喰らわれても、無に帰すわけではない。小悪魔どもを斬り捨てたそなたなら分かるだろう」
「解放されてたように見えたが、あんたは死ぬ気はないんだろう?」
「無論だ」
「じゃ、あんたの血肉になるわけだ?」
「まだ理解しないか。ワタシが神の手からこぼれ落ちた哀れなたましいを抱いて、楽園にいざなおうというのだ。すなわち、そなたのおこないは殺人でもなければ罪でもない」
「クレイミーやマクラを斬ったのが罪じゃないと言われれば悪い気はしないがな。だが、あんたはわたしにアニェを食わせただろう」
「あれは試しだった。そなたのたましいがワタシと同じ道を歩む資格があるかどうか、他者のたましいをかかえ、他者の肉体にかかえられる才があるかどうかを知る必要があったのだ」
わたしはため息をついてやった。三十万ポンド。
「あんたもわたしを誘惑しようってんだな」
「すでに手中にある。加担もしただろう。救われぬ者のたましいを集め、まつろわぬ者どもを滅してくれたことには感謝している。そなたはこの島を着実に浄化に導きつつある」
「正しいと思うのなら、騙さずに初めから素直に話しておくべきだったんだ」
「正しいと思うからこそ、意思確認は不要なのだ」
……重ね重ねため息ですまないな。
「十万ポンドだ。これ以上のプライスダウンは勘弁してくれよ」
「なんの話をしている?」
「子は親に似るって話さ。要するにあんたは、パパのお膝に帰りたいってことだろう? そのために、パパの気に入りそうなたましいを見繕ってるだけ。アマシマクの女神だなんて名乗ったのは、パパへの当てつけだったってわけだ」
堕天使はおもむろに翼から一枚の羽根を抜き出した。
それは瞬く間に黄金の弓に変身し、矢が番えられた。
「おいおい天使さん、図星を突かれたからって、そりゃないだろうよ」
「その穢れた舌を収めよ。従うか、そのたましいをワタシに抱かれるか、選べ」
わたしは両手を握り合わせ、天に向かって「ごめんなさい、アーメン」と言った。
どうやら、わたしには救世主はできそうもない。
「元天使様の都合は分かった。だが、わたしはわたしの都合で動くんだ」
「愚かな。おまえは一体、なんの大義があってワタシに楯突こうというのだ?」
わたしは鎌の柄をヤツへと向けた。
「あんたがムカつくからさ」
……だが、手にした柄はやいばを生まず、たましいにも震えを与えなかった。
「ワタシが授けた力でワタシを斬れるはずがなかろう。そなたに初めから勝算はない。すべてはワタシの手のひらの上だ」
参ったね。想定はしていたが、わたしに残された武器は言葉だけとなった。
「だが、ワタシは天の父とは違う。乞えばそなたを赦そう。そして、ワタシと共にこの世に救済をもたらそうではないか」
今日はため息が多い。メランコリーってやつだ。
「なあ、元天使さんよ、こういう言葉を知らないか?
汝が自由や幸福を求めるのは、正しきおこないだ。
だが、それがほかの多くに不幸や困惑を与えるのなら、
慎まなければならない……ってな」
「ワタシは人の記した書には興味がない。それは神の子の言葉か? 人の世で聖人と称えられる者の言葉か?」
わたしはこちらを狙い定める矢じりを笑い、胸に手を当て、教えてやった。
「この、クララ・ウェブスターの言葉だ」
眉間に深いしわが寄った。ゼロポンド。
「やはり、そなたには悪魔の素質がある」
張り詰めた弦から指が離れる。
堕天してなお神威を失わない黄金の矢は、わたしの左胸を正確に射抜いた。
――光があった。それは、光を超えた闇だ。
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