第38節 怒りと誇り
早朝、わたしたちは岬にあるフレデリックの家へと向かった。
「すごい風。ジャンプしたら、そのまま空を飛べそう」
スカートを押さえ、ブラウスの襟を口に引っつけながらラニャが嬌声を上げた。
髪もばらばらと、吹きすさぶ風にもみくちゃにされてしまっている。
「おまえは修道服のほうが楽でよかったかもしれないな」
「でも目立っちゃいますし。お姉さまは、その格好のほうが目立ってるけど」
ラニャは人目を嫌ってシスターの装いをやめ、私服に着替えていた。
一方でわたしは、男物のシャツとズボンを着て、髪も団子に結い上げている。
「動きやすさ重視だ。ヘンか?」
「ううん、カッコイイ。コートンと違って足も長いし」
「つけ髭も用意すればよかったか」
「髭があっても男の人とは思えないかも。お姉さまは綺麗過ぎるから」
「まったくだ。どんな格好をしても人目を引いてしまって困る」
「でも、あれだと同じことですね」
急勾配の草原の向こう、崖上にあばら屋がある。
あの窓からならば見通しもよく、来客を早々に察知することができるだろう。
「本当についてきてもよかったのか?」
尋ねると、ラニャはこちらを振り返った。
「平気です」
言い出したのは彼女だ。「どんな形でも、もう一度アニェを見たい」と言った。 わたしは承諾したが、まだ戸惑っていた。
「まあ、こちらとしても目の届くところにいてもらったほうが安心だがな。悪魔はどんな手を使うか分からないからな」
「でも、少し心配かも。殺人鬼も悪魔とつながりがあるんですよね?」
ラニャは足を止めた。わたしがそばによると、腕を絡ませてきた。
「安心しろ、フレデリックは外道でも人間だ」
「本当に?」
「首狩りの殺しは暗躍とはいえないからな。悪魔が堂々とああいう手を使うのをよしとするなら、地上はとっくに血の海だ」
「でも、世界では戦争がたくさんあります。ああいうのも悪魔の仕業?」
「悪魔ってのは、ささやきひとつで戦争を起こすものだ。善人たちが積み上げた塔の柱一本を突っついてすべてを台無しにするが……」
「その一本の柱は、きっと人の業ですね」
「だろうな」
こちらを見上げる少女の額に手を置く。
撫でられると思ったか、ラニャは猫のように目を細めた。
だが、わたしは按手に留め、彼女の無事を祈る。
「お守りを渡しておく」
わたしはラニャの手に、ずっしりと重たい金属と技術のかたまりを乗せた。
「わっ、ピストル! こんなもの使えないよ!」
ラニャは手のひらの上に拳銃を乗せて腕を突き出し、腰を目いっぱいに引く。
彼女は正体を知らないだろうが、その銃はある意味、父親の仇でもある。
「お守りと言ったろう。あいにく弾丸は手に入れられなかったんだ」
「弾が無ければ役立たずじゃ?」
首をかしげるラニャ。
「これを向けられれば、人間は動きが止まる。撃ち損じる振りでもして落としてやれば、相手はこれをまっさきに確保しに来るはずだ」
「なるほど……。でも、ちょっと撃ってみたかったかも」
ラニャは遠くのあばら屋に向かって銃口を向けると「ばん!」と口にした。
「あわっ!」
引き金を引こうとして滑ったか、彼女の手からピストルが転がり落ちた。
草原の中に落ちたはずのそれは、金属が勢いよくぶつかり合うような音を立てた。
「これって……!」
草の中で、半月状に曲がった金属のかたまりが飛び跳ねるのが見えた。
ぎざぎざの刃はぴったりと閉じている。
「トラップか。銃がさっそく役に立ったな」
わたしは左胸に手のひらを当て、奥を鷲づかむと鎌の柄を引きずり出した。
ラニャが驚いて悲鳴を上げるが手で制し、鎌の柄で地面をつつく。
「これでトラばさみは回避できる。わたしから離れるなよ。どうやらヤツは、わたしが来るのを心待ちにしているらしい」
罠を探りつつ、あばら屋を目指す。
柄の先に硬いものが当たる。閉じたトラばさみを発見した。
あっちの白い塊は巻き添えを食った海鳥か。
またトラップを見つける。これも閉じている。
次も閉口したトラップ。また、また……。
「妙だな。トラばさみがほとんど閉じている」
幾分か近くなったあばら屋を睨む。
「お姉さま、今!」
ぐい、と腕が引かれた。ラニャは耳に手を当てていた。
「わたしも聞いた。今のは銃声か?」
だが、フレデリックの家からではない、どこか遠いような、近いような。
耳を澄ますも、風と海鳥の作る喧騒だけが聞こえるばかりだ。
足元を注意深く調べつつ、ようやく小屋に到着する。
すぐに異変に気づき、ラニャも息を呑み口を押えた。
「血だな。それもかなり新しい」
ポーチの腐った床板に、赤い水溜まりと引きずったような跡がある。
扉はまたも壊されており、これも罠か、ロープの結わえられた斧が床に突き刺さっていた。
「仕掛けた本人の血というわけではないだろうな」
五感を集中し、すぐには踏み込まずに屋内の様子を探る。
相変わらず膠のにおいが酷いが、何かが動く気配は感じない。
血痕は屋内へと続いている。すり足で踏み込む。
赤い道案内が作業場や台所、フレデリックの寝室へと伸びており、取り外された床板の先へと消えているのを見つけた。
「お姉さま、地下室!」
やはりまだあったか。カニンガムの奴め。
「すごい! はしごもついてる! 早く、行きましょう」
囁き声でも興奮が抑えきれないらしい。
ラニャはくちびるを仕舞いこんで鼻の穴を広げている。
この下にあるのはお宝ではなく、自分の姉を含んだ死体たちなんだが。
「自分のトラップに掛かった殺人鬼が隠れてるのかな」
「そんなに都合よくいくわけはないと思うぞ」
ヤツが「仕事」で死体を運び込んだにしても、床を汚したままにするとは考えられない。
単純に予想して「先客がいる」というところだろうが……。
わたしが先に、はしごを降りる。
竪穴は今日も呻き声のような風を吹き上げている。
床に下りるとラニャが「わあ」と声を上げた。見上げるとスカートがまくりあがって可愛いズロースとこんにちはだ。
わたしは鎌のやいばは生み出さずにおき、腰に提げていたナイフを手にする。
地下室は、前回来たときとは様子が一変していた。
綺麗にディスプレイされていたはずの猟奇革細工師入魂の作品たちは、乱雑に向きを変えたり、引っくり返ったりしている。
ラニャがはしごから降りると、着地音が響いた。
「誰か、いるのか?」
男の声がした。警戒するも、瞬く間に状況を理解する。
奥のほう、横倒しになった貴族のオブジェにもたれかかったジェイコブ・ペンドルトンの姿があった。
「クララ、きみなのか」
青年は笑顔を見せたが、声は苦しげだった。
腹を押さえた彼のそばまで死体をいくつもまたいで急ぎ、屈み込む。
腹から出血しているようだ。投げ出された右足首もぐっしょりとズボンの裾を濡らしていた。
「手当を」
「きみもたどり着いたんだな」
「すまない。最初にここを見つけたのは、かなり前だったんだ。おまえにも会えず、カニンガムにも揉み消されてしまってな」
「そうなのか? ぼくが最初だと思ったよ。さすがの女傑っぷりだ」
「ラニャ、包帯になりそうなものは持っていないか?」
振り返るが首を振られる。
シャツの袖を裂こうとすると、ジェイクの手が止めた。
「内臓をやられたんだ。もう助からない……」
眉をゆがませる彼を見ていると、腹の底に熱いものが溜まっていくのを感じる。
「撃たれたのか? 刺されたのか? やったのは誰だ?」
「ここのあるじのフレデリックだ。あいつが殺人鬼だった。あいつが彼を、あの子を、みんなを殺したんだ……。ぼくは、負けてしまったよ。罠さえ踏んでいなければ……。あいつはどこかに出掛けていった。帰ってきたら、ぼくをここにいる者たちのようにすると言い残して……。気を付けろ、ヤツはぼくの銃を持っている」
「お姉ちゃん」と呟きが聞こえた。
振り返ると、ラニャの視線が死体のひとつに釘づけとなっていた。
「クララ、どうしてラニャをここに連れて来たんだ? ここは、彼女にはあまりにもつらい場所だ」
「彼女の望んだことだ。おまえだって友人に会いたかったんだろう」
「そうだな……。もうすぐぼくは、きみに会いに行くぞ……」
ジェイクがまぶたを閉じる。
「おい、諦めるなよ! この島にはおまえのふところと医術を当てにしてる連中がいくらでもいるんだぞ。植民地にも医学を伝えるんだろう!?」
「ぼくは、大して力になれなかったよ。医者の力なんて、ちっぽけだ。大事なのは、生きてやろうっていう気持ちだ。だけど正直、少し気分がよかった。師から学んだ医者の腕を振るって、親のカネで小切手を切って、救ってやった気になっていた……。でも、彼女たちを死なせた上に、このざまだ」
苦しげなつぶやきが続く。「ぼくは、卑怯者だ」
「そんなことあるか。おまえは何も恥じることはない。おまえは誠実で慈愛があり、自由で勇敢だった。おまえこそが本物の紳士で、本物の貴族だ。卑怯者と謗るやつは、わたしが蹴飛ばしてやる」
少し笑ったようだった。
「だが、怒りに任せて……みんなを放っておいて、ヤツを追うことばかり……」
「おまえの怒りは義の怒りだ」
「憤怒は大罪だという宗派もあるそうじゃないか……」
「他者に向ければそうだろう。怒りとは、罪を赦さないことだジェイク。自分で自分を赦せないという気持ちは、痛いほど分かる」
わたしはいつの間にか、彼の手を握っていた。
「きみにそんな顔は似合わないな……」
「わたしは泣いてたって、怒っていたって美人なんだ」
「言う通りだ。きみは本当に美しい」
手の中の体温は冷え切っていた。
「生き延びろよジェイク。そうしたら、キスの一つや二つはしてやるぞ」
「それは、惜しいことをしたな。代わりに、頼みがあるんだ……」
「なんだ? なんでも言え」
乾いてしわの寄ったくちびるが動く。
「ぼくのたましいを刈り取ってくれ。天国や地獄にはまだ行けない。きみは必ず、この戦いに勝つ。きみのそばで、勝利を見届けさせてくれないか……」
背後でラニャが心配そうにわたしを呼んだ。
言葉では問わず、再度開いた青年の瞳を見る。
青く深い輝き。わたしはうなずく。
柄を手にして立ち上がり、ラニャに離れるように言った。
「天にまします我らの父よ。願わくはこの者の御魂を我に貸し与えたまえ。灰を灰にせず、塵を塵にせず。愛に弓引く魔物どもに裁きを与える日まで」
念じ、たましいのやいばを生み出す。
青き光はこの場にいる死者と生者を等しく照らした。
ジェイクはわたしを見てほほえむと、胸の前で手を組み、まぶたを閉じた。
「アーメン」
振り下ろす。鎌が彼とわたしをつないだ瞬間、快楽の矢がわたしの胸や胎を繰り返し刺した。心地よい快感だった。罪は感じなかった。
そして青年の胸から、鎌の光を上書きするほどの激しい閃光が起こった。
「なかなか立派なものを持ってるじゃないか」
わたしが笑い掛けると、いのちの火球は返事をするかのように震えた。
それから再び胸に沈むと、光を途絶えさせた。
ジェイクのジャケットを探ると、ピューター製のスキットルが出てきた。
「ジェイコブさん、どうなったの?」
「彼はここにいる」
わたしの指し示したスキットルの表面には、剣を持った天使が描かれている。
「殺人鬼はそのうち戻ってくる。出迎えに行こう」
敬礼付きで「はいっ」と返事をするラニャ。彼女はちらっと床の遺体を見た。
「アニェを見つけたんだな……」
「うーん、多分? もうひとつ実感が沸かなくって」
「顔もなければ、身体も手ひどく弄られているからな」
「そういうことじゃなくって、ここには私たち三人だけかなって。みんな、もうここにはいないんですよ」
彼女は、そっとほほえんだ。
地下室をあとにする際、十字も切らなければ、別れの言葉も言わなかった。
***