第37節 羊か狼か
入浴を終えて身支度をしていると、啜り泣きの一団が修道院に戻ってきた。すでに日は落ち切ったあとだった。
そこでまたひと騒ぎだ。
そりゃ、風呂上がりのわたしが涼しい顔をして髪を拭いているのだからな。
ドロシアは驚いてぶっ倒れ、アイリーンは幻覚を疑い、フローラは手放しで歓び、サラは短い祝福ののちにクレイミーの不幸をまくし立てた。
無論、わたしも復活を祝してもらおうなどとは思っていない。
白々しいと感じながらも、ベッドに寝かされたクレイミーの亡骸に十字を切る。
たましいの置き場となってくれたことへの礼も、こころの中で唱えた。
「目覚めたのかい」
マザー・ジェニーンだ。ヤツはニヤついていた。
「くたばるとは思っちゃいなかったがね。あんたは反骨精神と意地を詰めたハギスみたいなものだからね」
「人をウンコみたいに言うなよ」
「カニンガムのやつが言っていたが、本当に悪魔が憑いていたのかい? 単なる病気だと思ってたが」
「悪魔はわたしの美しさと清らかさに恐れおののいて滅びたのさ」
「まったく、おまえほど人を食ったような性格をしたやつはいないよ。祝いに脂の乗った羊の腸を仕入れといてやろう」
「そりゃ、ありがたいね。だが、クレイミーのことは残念だった」
「そうさね。あの子も、こんなババアよりも長生きすべきだったのにね……」
さも残念、というふうに首を振りやがる。悪魔め。
ヤツがどこまでこちらの状況をつかんでいるかは察せなかったが、わたしとラニャは知らぬふりで様子をうかがうことに決めていた。
メルチたちの言動からして、小悪魔どもはジェニーンを裏切っている。
情報の共有をしていないのなら、こちらが何も知らないまま復活したと思っている可能性にも期待できる。
だが、羊の皮を被った狼がメルチたちだけとも限らない。
もっとも、可能性は低いが。
手下が多いのなら、わたしやカニンガムをこそこそと使役する必要もない。
カミサマを演じて脳に直接語り掛けるような手を使ってこないのも気になる。
悪魔が地下で蠢くのは、天界の目を気にしてのことかもしれない。
……ところで、悪魔が実在するのなら、天使もいるのだろうか?
いるのなら、けちけちしないで手を貸してくれればいいのにな。
悪魔も超常の存在とはいえ、万能ではないだろう。
ジェニーンには、わたしを掌中に納めておかなければならない理由があるはずだ。
わたしはピーナッツで雇われているわけではない。
ただ働きもごめんだし、ヤツもわたしの性分を承知のはずだ。
たましいの緒がつなぎ直されたのを知った以上、何か手を打ってくると見る。
相手の手札のエースはラニャだろう。
彼女を人質にすれば、クララ・ウェブスターは従う。正解だ。
だが、メルチたちの口ぶりでは、ラニャのたましいを喰らうために育てている途中らしい。ならば、ラニャにはまだ手出しをしたくないはずだ。
ネックとなるのはカニンガムの立ち位置だ。
わたしは、フレデリックの地下室で犠牲者の遺体を確かに見た。
あれだけのものをすぐに撤去できるとは考えられない。
調べさせていないか、もみ消したか……。
カニンガムは今晩、帰らないそうだ。
遣いがクレイミーの卒中を知らせに走ったものの、主教は脱獄したジョン・ラトクリフの件に追われて多忙だという。
幸運なラトクリフは、最初にわたしにぶっ倒されていたおかげで、たましいを刈られずに済み、首を痛めただけで逃げおおせたようだ。
「しまったな」
わたしは鍋をかき混ぜながらひとりごちる。
「どうなさったんですか?」
「身を隠しておくべきだったかもしれない」
主教が白なら、わたしの復活を知らせてやるのが親切だが、グレーである以上はこちらもカードを伏せておくべきだった。
もっとも、白の場合は、これ以上彼を悩ますと勝手にゲームから降りてしまうかもしれないが。
「いまさら言ってもしょうがないですよ。それより、私はこうやってお姉さまとまた何かができるのが嬉しいです」
ラニャが石窯を開けると、こうばしい香りが鼻をくすぐった。
ミトンに支えられた四角い金型からは、小麦色の頭が膨れてはみ出している。
「おまえは前向きというよりは、楽観的だな」
「欲に正直なんです。蛇のように賢く、鳩のように素直に!」
ラニャは「それに彼女とも付き合いが長いですから」と付け加えると、廊下のほうを顎でしゃくった。
台所の出入り口に、ぶっとい足が横たわっているのが覗いている。
「ドロシアお姉さま、夕食ですよ~」
ラニャが焼きたてのパンを扇ぐと、素敵な湯気がたなびいた。
「いいにおいだわ」
重たくてほったらかしにされていた女が、むくりと起き上がった。
彼女は厨房に入ってきて、わたしの顔を見てまたも悲鳴を上げた。
「二度も倒れないでくれよ、ドロシア」
「ああ、クララさん。本当にお目覚めになられたのね。ラニャ、そのパン、とってもおいしそうね」
ドロシアは鼻を三度鳴らすと恍惚の表情を浮かべた。
こいつは白だな。羊の中の狼どころか、泥の中の豚がいいところだ。
「クララさん、さっそく頼みたいことがあるの」
「なんだ?」
「サマープディングが食べたいの。クリームを添えたやつ。以前、あなたが作ってくれたあれの味が忘れられなくって、一日に二度は夢に見ちゃうのよ」
「ドロシアは相変わらずだな。プディングは作ってやるが、また今度な」
「がっくし……」
ドロシアはまたも倒れんばかりに肩を落とした。
「それより、みんなを呼んできてくれないか? クレイミーのこともあって食欲も湧かないだろうが、こういう時こそ力をつけなきゃな」
失った姉妹の名を聞くと、ドロシアはトドのように泣き始めた。
「ああ、クレイミー!」
ラニャができたてのパンで釣ろうとしてもダメだ。
やれやれ、こいつが泣いていると、わたしも悲しくなってくる。
啼泣が鳴り響くと、悲しみを共有しようとした姉妹や、苦情を言おうとしたババアが部屋から出てきた。
姉妹たちは食事を摂ることに難色を示したが、ドロシアの腹の音が笑いを誘うと、サラが「シスター・クレイミーなら無駄にするなっていうかしら」と口にし、おのおの席に着いた。
さて、誰が「手で鉢に食べ物を浸す」のか。
場合によっては、これがヤツの最後の晩餐となるだろう。
もっとも、聖者ではなく悪魔の最後だが。
「あら、あの子たちがいないような……」
食前の祈りの段になって指摘したのはフローラだ。
ラニャが「呼んできます」と席を立つ。
バルタとカスプを探すふりをして、一分……二分……。
時間が経過するにつれて、顔面脳味噌女のしわが増えていく。
「探してもどこにもいないの」
戻ってきたラニャが告げると、これ以上の不幸はイヤだと女たちが嘆き始める。
「やっぱり、出て行っちゃったのかな」
ぽつりとつぶやくラニャ。
ババアの目つきが鋭くなり、「やっぱりとは、どういうことだい?」と詰問した。
「あの子たち、今朝、出掛ける仕度をしていたときにランプを持っていこうとしていたんです。夜までには戻る予定だから要らないよって言ったら、これはランプじゃないって言われて……」
「ランプじゃなきゃ、なんだったんだい?」
「蛍でした」
「蛍?」
「お酒の瓶の中に閉じ込めた蛍が数匹。一匹だけ、見たこともないくらいに光っていたから、ランプと見間違えたんです。逃がしてやるって言ってたけど……」
ジェニーンは両手でテーブルを叩いて立ち上がり呟く。蛍……。蛍……。
ラニャめ、なかなかの役者だ。
わたしもここでは発言をしないで、腕を組んで考え込むそぶりをしておく。
想定通り、ババアは盗み見るようにしてわたしの様子をうかがった。
「飼っていた蛍を逃がしに行ったのかしら。森になんて行ってたら大変ね」
ドロシアは、ちらと皿の上を見てから握りっぱなしの手を額に当てた。
「ちょっとばかし出てくるよ」
ジェニーンが離席しようとすると、サラとフローラが続こうとする。
「あんたたちはそのまま食事をしてな。バカガキどものことは心配いらない。あたしには心当たりがある」
ジェニーンは、まるで意思を持って飛び出そうとする入れ歯をくちびるで押さえつけているような顔をしたまま、修道院を出て行った。
傑作だ。小悪魔どもと潰し合うか、主教やフレデリックに何かさせるのか。
「ところで、見習いどものことは心配して、誰もババアの心配はしないんだな」
皮肉交じりに言ってやると、アイリーンが「そりゃね」と応じる。
「殺人鬼だって、あのかたには手が出せなさそうだもの」
「余計なことを言うと怒りそうだしね」と、ドロシアもパンに手を掛ける。
サラが「失礼よ」とたしなめるが、「殺しても死ななそうですものねえ」と、ワンテンポ遅れてフローラがなんぞ宣った。
「フローラも!」
サラに怒鳴られ、「ごめんなさい」と首を縮めるフローラ。
「まあまあ、食事は美味しくいただかなくっちゃ。サラは最近、まじめ過ぎるわ」
「私、シスター・クレイミーを尊敬してたのよ」
「じゃあ、マザーのお気に入りにならないと」
「よしてよ。それこそ食事がマズくなるわ」
「わたしとラニャが作ったメシも、あの顔を思い浮かべながらだと厳しいな」
「珍しくクララさんが降参したわ。でも、アイリーンには関係ないみたい」
シスター・アイリーンはもうシチューを平らげたらしく、ラニャにお代わりを勧められている。その様子を見てドロシアが自分のぶんを急いで掻き込み始めた。
「最近、食欲が出てきて。マザーの裸を思い浮かべたっておいしいわ」
「阿片ばっかりやってるから食欲がなくなるんだ」
「そうなのよ。大麻に変えて正解だわ。そっちのほうが合ってたみたい」
アイリーンはあっけらかんと答え、シスター数名がむせ返った。
「阿片なんてやってたの!?」
サラは目を皿のようにしている。
「この前、罰を受けてたのはそれよ」
肩をすくめて答えるアイリーン。
「そもそも、私がここに送られたのは、阿片がやめられなかったからよ。大麻なら捕まることもないし、たっぷりと吸えばキリスト様ともお話ができるのよ」
「そいつは結構。大麻もそのうち規制されるだろうがな」
「そうなったら、また代わりを探すわ。クララさんはお酒に詳しいのでしょう? マリアーニワインっていうのを……」
おもむろにテーブルが叩かれた。サラだ。
まっかになってアイリーンを睨んでいるが、クレイミーのように上手に説教はできないようだ。
「まあまあ、いいじゃない」
ドロシアが二杯目のシチューを受け取りながら言う。
「マザーもいないし、クララさんも戻ってきたことだし、たまにはハート・トゥ・ハートで話そうよ。じつを言うとね、あたしも手に負えないからって実家から追い出されてここに来たのよ」
ドロシアには幼少から、家にあるものを片っ端から食べてしまう悪癖があった。
「戸棚全部に鍵を掛けられちゃってね。納屋に扉をつけて閉じこめられたりもしたわ。なんていったって、うちはパン屋だったからね。飛び切り美味しくて町では大人気だったのよ。ベーキングパウダーなんて使わない、本物のパン! でも、パン種や生地に手を出して、いよいよ勘当されちゃった」
「じつを言うも何もないような?」と、フローラが首をかしげる。
「いいじゃないの。フローラはどうしてここに来たの?」
「私? 私はベビーファームで育ったの。母はお屋敷勤めで、たまにしか会いに来てくれなくって」
託児所の利用者は多忙か貧困かだ。
フローラの母は、屋敷のあるじのお手付きだったのだろう。
寵愛を受けているのあいだはそれなりにいい目を見られるが、ただの未婚の母となってしまえば、世間から無防備に石を投げられる存在へとなり下がる。
「母はお屋敷を追い出されてしまって、首を吊ってしまったの」
「悪いことを聞いたわ」
ドロシアが十字を切り、ほかも続く。
「また新しい男の人を見つけたって手紙にあったけど、どうしてるかしら?」
……ん?
「フローラの母親は死んだんじゃないのか?」
「向かいにお医者さんが住んでてね、お母さんは彼が好きだったの。彼が窓からこっちを見ているときに吊ったのよ。お母さんが屋敷を出てからは、一緒に暮らせるようになってたのだけど、弟ができてからは修道院に」
「勝手な親だわ」
サラが口を尖らせた。
「そう? お母さんにはお母さんの人生があるもの。ここでの暮らしは大好きだし、父親がよくないと修道院には簡単に入れないし。もう大きくなっちゃったけど、弟もとっても可愛かったし! 私ね、弟と妹がたくさんいるの!」
フローラは指を折りつつ、家族の名前を挙げ始めた。
親子そろってタフなようで結構だ。
「で、あなたは?」
ドロシアはサラを見ている。
サラは目を泳がせたが、食器の音が止まり視線が集まっていた。
「私は、置いていかれたの」
「置いていかれた?」
「そう、両親が何をしていたのかは知らないけど、船に乗ってあっちこっちに旅をしててね。私はここで降ろされてしまって、カニンガム主教に引き渡されたの」
サラは付け加える。
「もし、そうならなかったら、私はまだ世界中を旅していたかもしれないのに」
「サラは頭がいいからな。もっと見聞きするべきだ。そのほうが……」
そのほうがいい小説が書ける、と言いそうになり、「そういえば」と誤魔化す。
「クレイミーがここに来た理由は誰か知らないのか?」
「聞いたことないわ。普段はこんなこと、絶対に訊ねなかったし」
ドロシアが肩をすくめる。
「あの~」
フローラが恐る恐るこちらを見た。
「クララさんと似てるかも。といっても、クララさんの事情もよくは知らないけど」
「わたしのもあとで話してやるよ」
「やった。聞いてみたかったの。あのね、シスター・クレイミーはお人形を持っていたでしょう?」
カスプにやったドイツ人形だ。
フローラはクレイミーに頼まれてあの人形のドレスの修繕をしてやったことがあるらしい。
その際に、クレイミーは「フランスの屋敷にいたころにもらった」と話していたという。
「だから、名家の出かなって」
「フランスはずっとごたついてるものね。でも、そんないいところのお嬢さんだったのなら、こんな辺鄙な島の修道院じゃなくっても……」
アイリーンが言いかけ、こちらを見て慌てて口をつぐんだ。
「何かわけがあったんだろう。身を隠していたとか、アマシマクの関係者とコネを作る必要があったとかな。ここへ来た年齢的に、ナポレオン三世のクーデターがらみと見た」
わたしは葡萄酒で口を潤し、「次はわたしの番だな」と笑ってやった。
シスターたちはなぜか衣服を正し、椅子に座り直した。
思いのほか、すんなりと話せた。
兄や社交界との確執では姉妹たちは憤り、ウェブスター家から公爵家に嫁いだ話には、うっとりとため息をついた。
もちろん、そこからの屈辱も包み隠さず話せば態度は反転だ。
調査から裁判のくだりでは一様にこぶしを握り、勝訴の結末には歓声が上がった。
「……と、いうわけだ。わたしもフローラと同じで、ここの暮らしは好きだ。サラのように自由に旅をして回りたい気持ちもあるがな」
「なんというか、クララさんらしいエピソードだったわね」
ドロシアは満足げにうなずいている。
「でも、みんなの話を聞いていると、結婚って簡単じゃないって痛感するわ」
サラはすっかり落胆している。
「クレイミーさんの恋も、上手くいかなかったものね」
フローラも物憂げだ。
「そもそも、ここから出られないんだけどね。私たちはキリスト様の花嫁」
アイリーンは十字を切り、「アーメン」と付け加えた。
「そうがっかりすることもないさ。結婚は秘蹟じゃないんだ。近いうちに自由に開かれた時代が来るはずだ」
「クララさんが言うなら、そうなのかも。でも、この島じゃ大恋愛は無理そうね」
「そうでもないよ、サラお姉さま」
ラニャが得意げに鼻を鳴らした。
「不幸のメアリの話は知ってる? じつは彼女の息子のコートンの父親は、島外の実業家で、アメリカで会社を作った人なんだって!」
まあ、それも悲恋で終わるのだが……。
わたしたちは、夜が更けるまで噂話や思い出話に花を咲かせた。
この歓談を理由に、彼女たちを潔白だというのは甘っちょろいだろうか。
だが、わたしにもわたしの教義のほかにも信じれるものは必要だ。そうだろう?
深夜、わたしとラニャはまだ眠らなかった。
部屋に引っ込んで、ベッドの上で頬がくっつかんばかりに顔を寄せあう。
「さっきのはナイスアドリブだったぞ。ババアはメルチたちの裏切りで頭がいっぱいだ」
わたしの囁きにラニャは身を離し、ちょっとはにかんでから「でも、相手は大悪魔ですよ」と口にする。
「悪魔なんて所詮は姑息な手しか使えない存在なんだろう。あの意地の悪い院長には、もう何度も泡を吹かせてきたじゃないか」
「それはそうですけど……。怖くないですか?」
「堂々と仕返せることにわくわくしてるくらいだ」
「さすがクララお姉さまですね」
「おまえがいてくれるからだ。今度のイタズラは大掛かりになるぞ」
「なんてったって、大悪魔を出し抜くんですものね」
「あとは殺人鬼もだ。恐らく、連中にはつながりがある」
「アニェの仇!」
「わたしやおまえの仇でもある」
「ほかのみんなのぶんも、落とし前をつけさせましょう!」
わたしたちは、ひとつのベッドで頭からシーツを被って羊になりすまし、互いの吐息でくすぐり合いながら計画を練った。
様々な可能性を想定しつつも、お互いの死や敗北は決して口にせず。
さあ、始めよう。魔物どもに貶められた者たちへの鎮魂歌を。
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